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キリシタンのあしあとを求めて各地を旅してめぐります♪

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 燃えさかる岐阜 vol.3


キリシタン界ではお決まりですが、岐阜城と言えばフロイス!
今日は岐阜城を訪れ、信長とフロイスのやり取りを頭の中でめぐらせてみようと思います。このときのいい感じが続いていってほしかったなーと。歴史の1ページを感じられたらと思います♡




金華山


岐阜城は金華山に築かれた城。元々ここには稲葉山城がありましたが、稲葉山城の戦いで織田信長が斎藤龍興から奪い取り、城を破却して建て直されたのが岐阜城です。

岐阜城も関ヶ原戦いの前哨戦で焼却されてしまったので、現在あるのは昭和になって建てられた模擬天守です。

車を駐車場に停めてレッツゴー♬



萬松館


城内に入る前に向かったのは、料亭の萬松館。昨日も参考にした「尾張と美濃のキリシタン」という本に「かつて加納用水が掘られた時、青や赤の焼けたガラスが出土したといわれる。(中略)その付近の万松館あたりが天主堂跡ではなかったかとされる。」と書かれていたからです。

岐阜でいちばーん見たいのはもちろんキリシタン時代の教会跡!はやる心を抑えつつ向かいましたが・・・、ここは違うと思われます。。入口こそ城外に設けられていますけど、敷地はどう考えても城内。それも信長居館のすぐ近く(萬松館HPによると信長の公館跡だとか)です。

いくらなんでも宣教師に教会用地として城内中心部の土地をあげることはないでしょう。焼けたガラスが発見されたのは、それこそ居館の近くだからヨーロッパからの献上品のガラス器が収められていたんではないかと。イエズス会の年報を見ても(信長のいる岐阜城には)「どうやってこれほどまで多くの物が集められたかわからないほど、精巧なガラス器が数多くあった」とあります。



萬松館

萬松館

萬松館

岐阜城下

信長像


では若き信長が迎える岐阜城へ。

ルイス・フロイスの「日本史」には、信長の生い立ちと性格、事績が細かに書かれているんですが、まず性格についてはこう書いていますね。

彼(信長)は中くらいの背丈で華奢な体躯であり、髯は少なく声ははなはだ快調で、極度に戦を好み、軍事的修練にいそしみ、名誉心に富み、正義において厳格であった。彼は加えられた侮辱に対しては懲罰せずにはおかなかった。幾つかのことでは人情味と慈愛を示した。

彼の睡眠時間は短く、早朝に起床した。貪欲ではなく、決断力に優れ、戦術は老練で非常に性急であり、激昂するが平素はそうでもなかった。彼はわずかしか、または殆ど全く家臣の忠言に従わず、一同から非常に畏怖されていた。酒を飲まず、食を節し、人の取り扱いは極めて率直で、自らの見解に尊大であった。

彼は日本のすべての王侯を軽蔑し、下僚に対するように肩の上から彼らに話しかけた。そして人々は彼に絶対君主に対するように服従した。彼は戦運が己れに背いても心気広闊、忍耐強かった。


こんな記述を読むと、教科書で見た信長の肖像画が動き出すかのようです。このように実際に信長に会ったフロイスが書いた記録は、「信長公記」と並んで検証される一次史料として貴重です。宣教師であるが故に、その価値観で書いていることを考慮に入れなければなりませんが、逆に当時の日本人にはおいそれと書けなかったことまで書いてくれています。

またフロイスの洞察力も尊敬に値するものですね。例えば信長の宗教に対する考え方は以下のように書いています。

彼は善き理性と明晰な判断力を持ち、神仏の一切の礼拝、尊崇やあらゆる異教的卜占や迷信的慣習の軽蔑者であった。形だけは当初、法華宗に属しているようなそぶりだったが、顕位に就いてからは尊大にすべての偶像を見下し、若干は禅宗の見解に従い、霊魂の不滅、来世の賞罰などはないと見なした。彼は自邸できわめて清潔に、あらゆることをすこぶる丹念に仕上げ、対談が遅延することやだらだらした前置きを嫌い、卑賤の家来とも親しく話をした。彼が格別愛したのは著名な茶の湯の器、良馬、刀剣、鷹狩で、面前で身分の別なく裸で相撲をとらせることをはなはだ好んだ。何人も武器を携えて彼の前に罷り出ることは許さなかった。

このような信長が治め、ピリリとした緊張感が張りつめていたのが、信長時代の岐阜城なのでしょう。そんな空気を感じながら登っていきましょうかね☆


以上はすべて、ルイス・フロイス著、松田毅一・川崎桃太訳「完訳フロイス日本史2ー織田信長編Ⅱ」(2000年、中央公論社)p100より


金華山ロープウェイ


登っていきましょうかねと言ったのは金華山。子供時代は何回か足で登った覚えがあるんですが、今回はロープウェイで楽して登らせていただきます。

さて昨日の竹中半兵衛との絡みでいうなら、半兵衛は斎藤龍興時代に稲葉山城を一時占拠したことがあるんですよね。龍興が14歳くらいで城主を継いだ1561(永禄4)年のことです。

それは一時的なもので終わりましたが、6年後に襲ってきたのが信長。今度は城を取り戻すことはできませんでした。ただこの斎藤龍興もキリスト教には触れたことがあり、信徒にはなりませんでしたが一定の理解は有していたかと思われます。



岐阜城


ロープウェイを下りて少し登ると、じゃーん岐阜城!

私みたいなヘタレだと天守までの道も結構きつくて脱落したくなるんですが、途中でこの姿を見て持ち直しました。

登城者を励ますようそこかしこに解説板が建てられていて、歴代城主と治めた期間をおさらいできます。信長が龍興から城を奪取するときのことも「日本史」には書かれています(上掲書p102)。



資料館


岐阜城資料館を見学して、復元天守へ。天守の中にも展示があり、その中にフロイスの「日本史」がありました。

原書のコピーはいいとして、訳文や地図が手書きなのがかなり気になりますけどね (;^_^A

フロイスが初めて信長に会ったのは、1569(永禄12)年、京都の二条城の建設現場でのこと。そのときはまだ将軍・足利義昭を信長が擁していましたが、実質的な権力者である信長から畿内での布教許可を得、キリシタンにとっては大きな障碍が取り除かれることとなりました。

その後もフロイスら宣教師側は時折信長を訪って関係性を築いていきます。岐阜城をフロイス一行が訪問したのは同じ年の7月ですから、かなりハイペースで会っていたことがうかがえます。ちょうど解説板に引用されているのが岐阜市中の様子なので少し挙げておきますね。

私たちは岐阜の市に至りましたが、人々の語るところによれば、 八千ないし一万の人口を数えるとのことでした。取引きや用務で往来する人々がおびただしく、 バビロンの混雑を思わせるほどで、塩を積んだ多くの馬や反物その他の品物を抱えた商人たちが諸国から集まっていました。

このような有様で、営業や雑踏のためぶ家の中では誰も自分の声が聞こえぬほどであり、昼夜、ある者は賭博し、飲食し、あるいは売買し、または荷造りをしてたえずやむ時がありませんでした。(上掲書p202)


フロイスはバビロンは行ったことがなかったと思いますけど、聖書にバビロンは堕落した街として出てくるので、信仰的でない市中の賑わいをそのように例えたのでしょう。



肖像画

解説板

フロイス「日本史」

フロイス「日本史」

天守より


天守からは胸のすくような眺めが。

素晴らしっくて、ただただ見ていたい感じです。

でも同じ景色でも、信長の目にはもっと違うものが見えていたんでしょうね。美濃を平定し、「天下布武」を掲げた信長は、ここからどこまでを展望していたんだろう。

フロイス一行が岐阜に信長を訪ったのは、ただの表敬訪問ではありませんでした。日乗という法華宗僧による讒言と迫害が甚だしく、内裏(天皇)が数年前に出した宣教師追放の綸旨(パテンテ)を使って良からぬことを画策していたので、その状況を変えてもらうために、実質的な権力者である信長を訪れたのです。

宣教師らの訴えを、先に人づてに聞いた信長は状況を一変させます。キリシタンの置かれていた状況が変化していく様子をフロイスの「日本史」から抜粋します。

私が都から美濃国に行きました当時、日乗とその弟子の異教徒たちは、信長が内裏の詔勅に基づいて、私を殺すために私を捕縛したとか、将来一人のキリシタンも、その痕跡も都に残らなくなり、その教えは全滅するだろう、との噂を市中に弘めました。
(中略)

かの二人の殿が、同日の午後、信長の許に赴いて、私がこの地にいることを告げましたところ、彼はそれを喜び、彼らに向かって、「内裏が綸旨をもって、伴天連を都から追放するか殺すがよい、と述べたのははなはだ遺憾である。伴天連たちがいる諸国はどこでもただちに破壊される、と人々は想像するが、予にはこれほど滑稽な話はこの世にないと思う。ところで予は、彼が異国人であるため彼に対して抱いている同情から、このように寵愛するのであり、彼は都から追放されはしない」と語りました。(上掲書p204)


この後フロイスたちは、信長と新しくできたばかりの居館で会います。岐阜城には、山上の城と麓の居館があり、利便性の高い居館の方で、信長や家族は暮らしていたのです。



岐阜城天守より

岐阜城天守より

岐阜城天守より

岐阜城天守より


信長居館跡


ロープウェイで下りて、発掘の続いている信長居館跡へ。シートが掛けられていますが、発掘ので分かったことなどが解説板で丁寧に説明してあり、シートの下を想像してワクワク。

織田信長公居館跡発掘調査ホームページでは、発掘調査の成果のみならず、現地説明会の情報も確認できます。2015年には日本遺産にも認定されたんですね。認定されたストーリーの中に「宣教師ルイス・フロイス」の名もあってうれしくなります☆

フロイスは「日本史」でその威容をどう記述しているのか見ていきましょう。発掘調査では概ねこれと同様であったことがわかってきています。さすがフロイス!

宮殿は非常に高いある山の麓にあり、その山頂に彼の主城があります。驚くベき大きさの裁断されない石の壁がそれを取り囲んでいます。 第一の内庭には、劇とか公の祝祭を催すための素晴しい材木でできた劇場ふうの建物があり、その両側には、 二本の大きい影を投ずる果樹があります。広い石段を登りますと、ゴアのサバヨのそれより大きい広間に入りますが、前廊と歩廊がついていて、 そこから市の一部が望まれます。(上掲書p205)

居館内を信長自らが案内してくれた経緯とその有様については、「日本史」に書かれているのとほぼ同じ内容なのですが、フロイスが他の宣教師に送った書簡でも詳しく述べているので、そちらを引用しますね。

彼は我らとともにしばらくここに留まり、己れの屋敷を見せたいが、他方、私がヨーロッパやインドで見たものと比べれば彼の建築は見劣りするので、そうすることを恥ずかしく思う、しかし、はなはだ遠方より来たのであるから、彼自ら案内役となって我らに披露すると述べた。

ここで尊師は予め知っておかねばならないが、彼の寵臣であれ何ぴとであれ、彼が命じることなしにこの宮殿に入ることは決してなく、外の最初の部屋で彼に話す。この時、(我らと一緒に)入った大身らも皆、宮殿を見るのはこれが初めてであった。大工や、建設資材を扱い門を閉める三、四名の家臣のみが宮殿内に入る。

内部の諸室はクレタの迷宮であり、すべて入念かつ巧妙に造られていた。すなわち、何もないと思われる場所に彼らが座敷と呼ぶ非常に立派な部屋が現れ、その後に別の部屋があり、いずれも或る定まった目的で造られたものである。

この一階には十五、乃至二十の座敷があって、各種の屏風〔黄金で飾った壁画である〕を備えており、留め具や釘はことごとく純金製である。これらの座敷の周囲には甚だ上等な木材で造られ、ほとんど地面に接するほどの高さの縁があり、その板は鏡として使えるほど非常に輝いている。

縁の壁は日本とシナの古い物語の(絵を描いた)たいそう立派な羽目板である。縁の外には五つ、六つの庭があり、その池の底には砂利と雪のように白い砂が敷き詰められ、各種の魚が多数(泳いで)いる。また、池の中央の天然石には種々の香り高い花々や草木が生えている。同所の山からは極めて良質の水が流れており、これをせき止め、管により幾つかの部屋に引いて泉にしているが、他の部屋では手を洗うためであったり、場所によっては宮殿の必要に応じて自由に使われている。

宮殿の二階には(国主の)奥方が幾つかの私室と諸々の部屋、および侍女らの部屋がある。階下よりも遥かに優れ、どの座敷にも周囲には金襴の幕を張り、市の側にも山の側にも縁と見晴らし台があって、山にはあらゆる小鳥の音楽と日本で望みうる限りの鳥の美が備わっている。

山の高さに達する三階には甚だ清閑な場所に茶の座敷が幾つかあり、それらは美しく欠けるところなく整っているが、(これを描写するには)少なくとも私の能力の及ばぬことは明白で、かつてこのような物を見たことがないので賞賛の言葉もない。

三階および四階の見晴らし台と縁の所からは市が見える。身分高き貴人や重立った人々が皆、宮殿を出てすぐの甚だ長い通りに各自の屋敷を新築しており、彼(国主)の宮廷に仕える者以外の人の家は一軒も混じっていない。

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松田毅一監訳「十六・七世紀イエズス会日本報告集」第Ⅲ期3巻(同朋舎、1997年) 1569年7月12日付、ルイス・フロイス師が都より、豊後のベルショール・デ・フィゲイレド師に宛てた書簡


やや冗長ながら、この詳述するスタイルがフロイスの真骨頂。当時の日本を知る一級資料となっていることを思えば、このような宣教師が来たことを歴史ファンとしては感謝したいなと。ちなみにクレタの迷宮もたぶんフロイスは行ってないですけどね。神学校ではギリシャ哲学も学ぶので、クノッソス宮殿のことも知っていて、形容するのに使ったのでしょう (o^^o)

同じ手紙では、信長が自分の息子たちにフロイスらを接待させる様子も描かれていて興味深いです。出てくるのは、13歳の信忠と11歳の信雄。「お茶箋」と呼ばれていた信雄にお茶や食膳を持って来させたりしています。フロイスと、同行して通訳も務めていた修道士ロレンソに上品な衣服も贈っています。この異例の歓待ぶりが、キリシタンへの権力者の態度として、周囲に示されたことは大きかったと思います。



信長居館跡

解説板

解説板

信長居館跡

歴代城主


フロイスの岐阜城訪問は一回ではななくて、1570(元亀元)年にも日本布教長カブラルとも訪れています。

その際も、信長自らフィゴ(いちじく)などの果物を運んできて振る舞ったとか、歓待されたエピソードがあるのですが、信長から「巻き紙」が贈られたことも注目されるところです。

最近宣教師が記録に使った紙に関する共同研究が、科研費を受けて進められているのですが、和紙と墨が用いられたおかげで、これだけの記録がヨーロッパに残るようになったということが明らかになりつつあります。信長が贈った紙が、単なる友好の印で終わらず、この出会いを含めた記録を後世に伝えるものとなったんですね。


三法師はキリシタン


それから宣教師と歴代城主を振り返るなら、信長時代だけでなく歴代城主12枚目のパネルにある織田秀信の時代にも蜜月ともいうべき期間があったことを特筆しておきたいと思います。

織田秀信は信長の孫でキリシタンですね。本能寺の変の後に行われた清須会議で、政争の道具となった幼児の三法師と言えば、「ああ、あの」と思い出してもらえるでしょうか。あの三法師は本能寺の変のとき岐阜城にいて難を逃れ、成長して、16歳で洗礼を受けたのです。

1595年のイエズス会日本年報にはこのように書かれています。

すなわち六百人の異教徒が洗礼を授かったが、その中には多数の主だった人々や有名な人々がいた。彼らの第一は、(織田)信長の孫で、その正統の嗣子なる(秀信)三郎殿がいたことである。(織田)信長とその息子(信孝)、すなわち三郎殿の父親が死去した時に彼は二歳であった。

彼は現在、美濃の国のほとんど全領国の国主であるが、それは太閤様が祖父の没後に奪った支配権の代りに彼に与えたものであった。この国主(三郎殿)は今年十六歳で、稀に見る才能を有する若者であり、そのため大いなる期待がもてる。

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松田毅一監訳「十六・七世紀イエズス会日本報告集」第Ⅰ期2巻(同朋舎、1997年) ルイス・フロイス発信、1595年度年報


織田秀信は京都所司代前田玄以の2人の息子と一緒に受洗し、その翌年には、秀信の1歳年下の弟 秀則がキリシタンになりました。

1596年の年報には、美濃国に来たイエズス会修道士を秀信が喜び迎え、教会と司祭館(レジデンシア)建設のために広い土地を与えたと記載されています。秀信・秀則兄弟は熱心に周囲にキリスト教を勧め、キリシタン発展のためにできる限りの援助をしていたようです。

だけれどそれが暗転するのが1600(慶長5)年のこと。関ヶ原合戦の前哨戦として、福島正則・池田輝政は岐阜城の秀信を攻め、城を落としました。秀信は降伏して、家康の命で高野山に送られ、1605(慶長10)年、25歳の若さで死去。弟の秀則は京都の寺に送られ剃髪し、1625(寛永2)年に亡くなりました。



1.二階堂行政

2.長井氏

3.斎藤道三

4.斎藤義龍

5.斎藤龍興

6.織田信長

7.織田信忠

8.織田信孝

9.池田元助

10.池田輝政

11.豊臣秀勝

12.織田秀信

板垣退助遭難の地


岐阜城跡の岐阜公園内には、板垣退助遭難の地碑もあります。

時はぐっと降って1882(明治15)年のことですが、当時この地にあった中教院で板垣退助が演説し、会場を出てきたところで「国賊」と叫ぶ者に襲撃され、胸を刺されました。

幸い命に別状はなく、「板垣死すとも自由は死せず」のフレーズが有名になりました。実際はもっと違う言葉だったとか言われてますけど、それはさておき、板垣退助はクリスチャンだったのでこの像も見たかったんですよね。ここだったのかー。



板垣退助像

板垣退助像

解説板

板垣退助遭難の地

教会跡はどこだ?


春うららの岐阜の街。川や水路があってきれいです。

キリシタンの教会はどこにあったんでしょうね。教会がない時代にフロイスが泊まった家は、市中の賑わいがよく聞こえたみたいだから、街道沿いの下級武士の家だったのかな。

「どこだ~い?」と言いながら、無駄に歩き回りたくなります (^^ゞ



法久寺


では車に乗って、今度は気になるお寺を訪ねてみましょう。

こちらは法久寺。寺の住職がキリシタンが処刑されないよう助けたという言い伝えがあると聞き、やって来ました。

江戸時代、幕府のキリシタン取り締まりが厳しく行われていたときに、尾倉地区にも多くの信徒がいて、彼らが処刑されそうになったのですが、法久寺住職の宗雲が来て、「尾倉の民百姓はすべて我が法久寺の檀家であり、切支丹は一人もいない」と言って救ったのだとか。

そのことがあって、尾倉地区は20キロ以上も南に離れた場所にあるのだけど、皆檀家となったのだそう。言い伝えではありますが、あり得ることですね。信長時代から宣教師が行き来し、秀信時代には武士もそうでない者も多く入信したのですから。法久寺さん、ありがとう。このお寺がとっても栄えているように見えるのは、そういったことの報いをもらっているからなんでしょうか。



法久寺本堂

山門

鐘楼

法久寺

崇福寺


次は崇福寺へ。この寺には信長父子の廟所があります。信長の遺体は見つかってませんから、廟所の中に収められているのは信長の遺品と位牌だということですけど。

でももう一つ見たいものがあるんですよね。それは血天井

岐阜城での籠城戦で、織田秀信の家臣38人が討死したときの床板が、本堂の天井板として残っているのです。



解説板

鐘楼

解説板

枯山水庭園

信長父子の廟所


血天井のある堂内は写真撮影不可なので、お見せすることはできませんが、凄まじかったです。

ポタポタと垂れ、シャーッと飛び散り、何か物に付着して、それが引きずられてできたような・・・これ全部血の跡なんですが。淡い色からどす黒いものまであって、背筋が寒くなりました。

昨日は一日関ヶ原にいたくせに、血を見なかったから、きっとどこか観念的だったんですね。わかってなかったなと思います。燃え落ちた岐阜城でも、悲惨さをそれほど感じていませんでした。でも戦いの場で命をやり取りするって、本当は物凄いことなのだとやっと感覚で悟るようになりました。

そんな修羅場を、あの時代のキリシタンたちは生きていたんですね。たぶん血天井のしみの中にも、キリシタン将兵の血が混じっていることでしょう。関ヶ原と岐阜を一緒に回れて良かったです。そしてこの寺に来てガツンとやられて。私には必要なことでした。



廟所の石碑

解説板

廟所

境内

カトリック岐阜教会


寒気が止まらぬまま車中へ。少し走って、カトリック岐阜教会を外から見学しました。

旅行に先立って岐阜県内の教会を調べて来たんですが、人口の割には教会が少ないようです。来てみても、規模も小さめですかね。

昔から仏教勢力が強い土地柄だからそうなのかなと思ったり。ならばキリシタンの布教は簡単ではなかったでしょうね。



カトリック岐阜教会

カトリック岐阜教会

カトリック岐阜教会

加納城跡


では加納城へ。家康の長女 亀姫を室とした奥平信昌が初代城主となった城で、1601(慶長6)年に築かれました。

この建設年を見てピンとくる方もいることでしょう。そう、関ヶ原合戦の前哨戦で燃えた岐阜城の代わりとして、この地方の押えとして建てられたのが加納城。破却された岐阜城の天守を移築し、隅櫓としたのだとか。

現在は土塁と石垣が残るのみで、近所の子供たちが駆け回る広い公園となっています。隅櫓があったのは、隣接している気象台の辺りで、そこが二の丸跡なんでしょうね。城下町の地図を見ると、城跡だろうと思しき地名、武家屋敷があったろう町名が随所に見られ、広大な城と殷賑を極めた城下町とが想像されます。

岐阜城があんなに急峻な山に築かれた城で、ここがこんなに真っ平らな所に築かれた平城だったことを見ると、戦いのうち続いた戦国から平和な江戸へという時代の移り変わりを実感します。



解説板

城下町マップ

城下町マップ

城下町マップ

本丸跡に残る土塁


さて加納城跡に来たのもやはりキリシタン関連で。

「尾張と美濃のキリシタン」の著者・横山住雄氏は、レオン・パジェス「日本切支丹宗門史」の慶長17年の記述をもって、奥平信昌の子 忠政が受洗していたのではないかと推測しています。それはこの部分。

フランシスコ会の修道者たちは、フランシスコという名を得た美濃の大名の養子を改宗させた。

註:父の後を嗣いだこの若い大名は 、不幸にして翌年没した。

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レオン・パジェス著、吉田小五郎訳「日本切支丹宗門史(上)」(岩波書店、1938年)p297、p300


翻訳者の吉田小五郎はこのフランシスコを「石川家成の子石川康通か」と括弧付けで書いていて、大垣城主だった石川康通のことだと解する人が多いと思うんですけどね。

確かに石川康通は「日本切支丹宗門史」記述の条件にぴったりとは合いませんが、奥平忠政は家康の外孫にあたるので、禁教令が出された1612(慶長17)年に受洗していた(そしてその記録が残った)とは考えにくいです。


レオン・パジェスの「日本切支丹宗門史」


そもそも・・・、これ言っちゃおしまいかもしれませんが、「日本切支丹宗門史」が一次史料でないことを考慮しないといけないと思います。レオン・パジェスは19世紀に生きたフランス人で、ヨーロッパと中国で日本研究をした人物。

膨大な史料を博捜蒐集して、日本通史の叙述を企図した(「日本切支丹宗門史」はその第3巻部分)のはすごい功績ですが、これだけに依拠してすべてを解釈しようとするのは無理があります。同時代に生きて書いたフロイスとはその点が違うんですよね。

だから例えば織田秀信の受洗に関しても、パジェスは「十七歳の青年で、信長の甥に当たる美濃の領主は洗礼を受け、美しい天主堂を建てた。」と書いていますけど、甥ではなく孫です。この人物は他の条件から考えて秀信だろうと予想がつくので問題はないのですが、このように細かい点では誤謬があることがわかります。

もちろんパジェスがこれだけの労作を残してくれたおかげで、日本のキリシタン史研究の草創期に、姉崎正治やビリヨン神父がそれをベースに著作を著すことができ、それらの本が国内でキリシタンへの関心を喚起したのだから、パジェスがキリシタン史研究の恩人であるという評価は変える必要ないでしょうけど。

こと「美濃の大名の養子フランシスコ」に関しては、「不明」とする外ないかと思います。ただ加納城跡の公園は、広々として、歌でも歌いたくなるような公園です。



加納城跡

解説板

地図

加納城跡


八百津の杉原千畝記念館へ


杉原千畝記念館


それでは今度は追い求める時代をガラッと変えて、八百津町にある杉原千畝記念館へ。

一帯が人道の丘公園として整備されていて、訪問者も多そうです。

多くのユダヤ人を救い、「日本のシンドラー」と呼ばれる杉原千畝については、ネットで検索すれば山ほど情報が出てくるので、ここでは詳しく書きませんけど、日本の誇りですね。出身地である八百津町に記念館が建てられているのも素晴らしいことかと。

だけど・・・、ここが生誕地ではないですよね? 生家跡はどこなのか気になって検索してみたところ、美濃市か八百津町かで揉めているようです。遺族の確執が影響しているみたいで。キリシタンや歴史に関してならまだしも、人様の家のことだから、事情を知らない私が口出すことではないですね。すっきり解決してほしいなと思いますけど。



杉原千畝記念館

人道の丘公園

杉原千畝像

人道の丘公園

解説板

人道の丘公園

人道の丘公園

杉原千畝記念館

臨川寺


八百津町と同じ加茂郡にあるということで、川辺町の臨川寺に寄りました。

今回の旅行記では何度も出てきてお馴染みになってきた感がありますが、「尾張と美濃のキリシタン」(p124)に「下部に十字を陰刻」した「自然石のキリシタン墓碑」があり、このような墓碑は「東海地方では唯一の例である。」と書かれていましたもので。。

境内には様々な石造物が置かれていており、一つひとつ丹念に見ていったつもりですが、私がキリシタン墓碑だと思える物はありませんでした。「今は無い」のか「元々無い」のかはわかりません。だけどこの本は1979(昭和54)の出版で、織部灯籠を「キリシタン灯籠」とし、キリシタン遺物として扱っているくらいなので、その見識で書いたのかなと思います。

当時は今ほどキリシタンに対する研究が進んでおらず、十字があればキリシタン墓碑、洋風の観音像をマリア観音と名付けてしまっていました。今もってその考え方から抜け出さず、それどころか更に発展した形で、卍や〇、蓮華や鳳凰はキリシタン墓碑の印だと解する人たちもいますけど、さすがに学術的な世界にはそんな主張をする研究者はいません。

古い本であっても、「日本切支丹宗門史」のように、それによって何かが発展した部分があると思うし、一応何でも自分で見てから判断しようと考えているので、無駄足だったとは言いません。でも、来て見たから言いますけど、ここにはキリシタン墓碑は無いのだと思います。



臨川寺

臨川寺

臨川寺

臨川寺

蔵之内共同墓地


もう少し時間があったので、今度は加茂市太田の蔵之内共同墓地に来てみました。

カトリック名古屋教区殉教者顕彰委員会が編纂したキリシタン史跡巡礼案内「あかしする信仰」に、こちらのS家墓地内にキリシタン遺物があると書かれていたからです。

それは以前、井ノ上観音堂に安置してあったもので、胸に十字架が陽刻された船形地蔵だということ。

昔、太田村にキリシタンがいたことは「殿中日記」(各地から江戸に集められた記録を編纂した国立公文書館内閣文庫所蔵の文書。1660(万治3) 年~1672(寛文12)年の記録がある)記録でも確認できるので、これは見ておきたいと思ったのですが・・・、見つけられませんでした。

探すのが下手なのかぁ。。夫と2人で1時間以上探し回ったんですけどね。とりあえず実見できなかったので何とも言えません。



スズメ


蔵之内共同墓地の十字架が陽刻された船形地蔵については、本に写真が載っていて、太田村にキリシタンがいたことが記録でも確認できるので、キリシタンと全く関係ないとは言い切れません。

だけどその舟形地蔵には「寛延三年」と銘記されているそうです。私としてはその文字を見たかったんですよね。

なぜかというと、「寛延三年」って1751年で、キリシタン弾圧の頃からは100年ほども後の時代ですから。この頃になるともう、最後の伴天連シドッティが死んで40年も経って、誰も入れる人がいないから江戸の切支丹屋敷もありません。そんな時に、キリシタンやその子孫が十字架が陽刻された船形地蔵を作るだろうかと思って。

「あかしする信仰」には、「キリシタン弾圧の嵐が静まった頃の寛延年間、処刑されたキリシタン宗徒の霊を慰めんと胸に十字架を刻み、残された村人が建立し、密かに弔っていたのではと思う。」と書かれています。こちらの本は巡礼のために書かれたものだから、各人が各人なりに「思う。」ということに主眼が置かれているんでしょうね。



帰路


暗くなって帰路。やはりキリシタン遺物に関しては明確な基準を示す必要があると感じます。

「もしかしたらキリシタンの思いが込められているかもしれない。その思いを誰かが掬い取ってあげなければ・・・」と、善意で「キリシタン遺物ではないかと思う物」を示す人もいれば、ロマンを感じて墓地で模様を探す人もいます。

そのような人たちの気持ちに乗じて偽物を作る人、古い仏像に十字を彫る人、それをキリシタン遺物だと信じて買う人、それを親から相続して大切にする人等々がいます。どこかで切らなければキリシタンの実態と乖離してしまうのは、誰でもわかる理だと思います。

その基準をどうするかですが、形はいかようにも偽造でき、模様は様々な解釈が可能で、エピソードはいくらでも創出してくっ付けることができるのですから、認定基準には来歴の確かさが最も重要な要件となってきます。この欄だけで書ききれないので、最後にそのこと書きますね☆




キリシタン遺物の認定基準


「キリシタンが実際に所持していた物でなければキリシタン遺物とは認定されない」「骨董品屋の手に渡ったり、本来の土地から離れた物は、出自をはっきり証明できない限りキリシタン遺物と認められない」という2点を、キリシタンに関わる人たちの常識レベルにすることができれば、偽造・恣意的な創出を防げるのではないでしょうか。

「本当はキリシタン遺物なのに、認めてもらえないなんてことが起こったらかわいそうだ」「ロマンくらいあってもいいじゃないか」と言う人もいるかもしれませんが、歴史的な遺物は皆そのように認定を受けて確からしさが担保されています。

大体かわいそうなのは誰ですか? キリシタンは自分の持っていた物が評価されるかどうかなんて考えなかったと思いますよ。ロマンって言うけど、誰のためのロマンですか? そのために毀損される本当の価値があるのに、ロマンはそれに優るものですか――?

潜伏キリシタン関連遺跡が世界遺産登録されたことを機に、曖昧な基準で恣意的な解釈をはびこらせてきたことを一掃してはどうかと思います。キリシタン史よ、大人になれ! ・・・今日のまとめであり、私の切実な願いです。




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