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キリシタンのあしあとを求めて各地を旅してめぐります♪

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 燃えさかる岐阜 vol.2


歴史好きなら一度は行きたいのが関ヶ原。出身地の名古屋から近いにも関わらず私は行ったことがなくて、長年行ける機会を狙ってたんですが、今日行けることに。それが今日。多くのキリシタン大名・武将も参戦しているので、しっかり回って来ようと思います♪



どなたですか??


岐阜羽島駅の真ん前に建てられている立派な銅像。夫婦でこんなに大きな銅像になっちゃうなんて、どんなにすごい人なんだろうと思い、近寄って行って名前を見ると、「大野伴睦」さんって・・・誰でしょう?

ネットで検索してみると、岐阜県出身の政治家で、地元に新幹線駅を誘致したヒーローなのだとか。へええ。。それゆえ岐阜羽島駅は政治(家)駅とも呼ばれているそうです。

駅前のホテルとレンタカー会社しかない閑散とした風景は、こういった「ヒーロー」がもたらしたものなんですね。昨日から「なんでここに新幹線駅?」と思っていましたが、疑問が解けました。我田引水ならぬ「我田引鉄」は、もっと古い政治家のやり方かと思っていたんですけど、まだあるんですね。



服部陶器店


さてまず向かったのは羽島市竹鼻町にある服部陶器店。下調べした住所の所にお店はあるものの、営業しているのかなという感じ。

こちらに来たのは、昨日も挙げた「尾張と美濃のキリシタン」に「キリシタン灯籠」があると書かれていたから。

私は「キリシタン灯籠」なる物は無いという立場ですが、「ある」と主張している人が挙げている物もできるだけ見に行こうと心がけておりまして。外には置かれてないですね。

この辺りは昔栄えていたようで、由緒あるお寺などが残っています。散策に良い町ですね。



五明稲荷神社


では関ヶ原方面に! だけど先に不破郡垂井町に寄ってみました。竹中半兵衛(重治)が松寿丸(のちの黒田長政)を匿った跡に行きたくて。

半兵衛が松寿丸を託した不破矢足の屋敷跡がこちらの五明(ごみょう)稲荷神社。すっきりと整理されていて、「匿った」っぽさはゼロです。

どうして松寿丸を匿わねばならなかったかというと、1578年荒木村重を説得に行った黒田官兵衛が城に幽閉されてしまい、音信不通となった官兵衛を信長は裏切ったと勘違いし、息子の松寿丸を斬れと命令したから。しかし官兵衛の盟友で、裏切ることなどないと分かっていた半兵衛は、信長には斬ったと言って生かしていたんですね。

結局荒木村重は城を攻められ妻子や家臣を置いて逃げ出して、官兵衛は牢から救出されて名誉回復するのですが、半兵衛はその4ヵ月前に亡くなっていました。だから最後4ヵ月が特に松寿丸の命が危なかったときでもあったでしょう。だけど守られて、生きて官兵衛と再会できたのは幸いなことでした。

半兵衛も知略の人ですから、官兵衛に対する好意だけで松寿丸を匿ったのではないでしょうけれど、血なまぐさいことの多いこの時代において、人の子の命を助けるということがあっただけでも感動的だと思い、ここに来てみたかったんですよね。こちらのイチョウの木は、長政が後にこの地を訪れて植えたものだそうです。



五明稲荷神社

イチョウ解説板

イチョウ

五明稲荷神社

竹中氏陣屋跡


次いで竹中氏陣屋跡へ。

顔出しパネルがいい感じです♪

NHKの大河ドラマ「軍師官兵衛」に竹中半兵衛も出てきて以来、「秀吉に天下を獲らせた2人の軍師」、秀吉配下の「両兵衛」として取り上げられることが多くなり、観光客も増えているようですね。

ちなみに「軍師」という言葉は戦国よりも後の時代に使われるようになったイメージの職業名。ドラマや小説は分かりやすさや面白味を訴求するものだからOKなんでしょう。

いかつい石垣に堀まで見えたので、中に広い陣屋跡があるかと思いきや、小さな空間があるのみで、ちょっと進むと人の家の敷地にぶつかります。私有地だから当然入っていくこともできず、門をくぐって5分でUターンして出てくる感じですね。仕方ないけど残念な・・・。

それで、せっかくだから少しでも雰囲気が味わえるようにと顔出しパネルが設置されていたのかと、ようやく合点がいきました。もうちょっと滞留できると観光客も喜ぶだろうなと思うんですけどね。



禅幢寺


しかしめげずに禅幢寺(ぜんどうじ)へ。竹中半兵衛の墓と肖像画のあるお寺です。

播州三木城攻めの途中、36歳でこの世を去りました。死因は肺結核ではないかと言われています。三木城近くにも半兵衛の墓があると聞いたことがありますが、こちらが菩提寺なんでしょうね。

半兵衛亡き後の同家は、嫡子の竹中重元が継ぎました。重元は秀吉、家康に仕え、江戸幕府では旗本となりました。解説板によると、重元が半兵衛(重治)を三木から移葬し、孫の重常が本堂を建立したということです。寺の裏山を登って行くと、菩提山城跡があるそうですが、ちょっと大変そうだから今回はやめておこうかな。



竹中半兵衛の墓


墓地に入り、案内に従って進むと、竹中半兵衛の墓が。思ったより小さいと思うのは、黒田家が大大名になって豪壮な墓域を構えているのを見たことがあるからか。

幟が立っていなければ素通りしてしまいそうです。墓地には他にも、吉田松陰の友人 長原武や「半兵衛の弟 竹中重隆の墓」などがあります。


竹中重利と小西行長


ん?竹中重隆って、竹中重利のことですよね。「半兵衛の弟」とありますが、確か従弟か甥。半兵衛の妹を娶っているので、「弟」も間違いではないですけれど、ここに墓があるのは意外です。この人は府内藩の初代藩主になって没しており、大分市の寺に墓所があるはずですから。こっちのはとても小さいので、一族の者として形式的に作られたものなんでしょうかね?

重利は敗軍の将となった小西行長を捕らえた人物ですね。小西行長は代表的なキリシタン大名です。そのせいでか、この寺の墓地には昭和になって建てられた行長の墓(正確には供養塔。建立者は石河萬吉という人)があり、近くの寺の竹林に伝・行長墓があるそうです。どちらも未見なのでコメントできませんけど(^-^;


竹中重義とキリシタン弾圧


ちなみに・・・、この重隆の嫡男で府内藩二代藩主となった竹中重義が、雲仙の地獄責めでキリシタンを拷問・殺害した竹中采女正ですね。絵踏みが初めて行われたのは、彼が長崎奉行(藩主と兼任)だったときのことだと考えられています。

最終的には密貿易に関わった廉で長崎奉行職を罷免され、切腹させられました。一族は流罪となり、これにより府内藩竹中氏は廃絶となったんですけど。長政(キリシタンになった大名)を助けた半兵衛の一族が、その少し後の時代にキリシタンを弾圧して、ヨーロッパにまで知られるくらいだったことは、奇妙なつながりとして浮かび上がってくることですね。



墓地

長原武の墓

竹中重隆の墓

墓地

墓地

墓地

裏山へ

裏山への道


では関ヶ原へ参りましょう!


徳川家康最初陣跡


では本格的に関ヶ原へ。まずは家康の最初の陣跡とされる桃配山(ももくばりやま)に登ります。丘とも言っていいほどの小山ですが、地形の関係でここからだと関ヶ原を広く見渡せます。

いい所に陣取ったものですね。ここは国の史跡に指定されています。家康が座ったとされる岩も。さもありなんといった感じがします。


関ヶ原の戦いとキリシタン


さて関ヶ原の戦い(関ヶ原合戦)は、小学生でも「天下分け目の~」と答えられる有名な戦い。豊臣秀吉が死んだ後の権力をめぐって、石田三成が率いる西軍と、徳川家康が率いる東軍が戦いました。兵力は西軍85000人、東軍は88000人と大きな差はありませんでしたが、勝ったのは東軍。その原因となったのは、小早川秀秋による裏切りや、毛利家を中心とした西軍の主力部隊が積極的に戦いに参加しなかったためと言われています。

この戦いにキリシタン武将も参戦したことから、「天下分け目の~」だけでなく、キリシタンのその後の命運をも左右するものとなりました。そこが私にとっては注目ポイント。関ヶ原で、多くのキリシタンがいた西軍が勝っていたなら、徳川幕府によるキリシタン弾圧はなかったのではないかと考えられます。

ただしキリシタン武将は、西軍側だけでなく、東軍側にもいました。当然のことですけど、同じキリシタンでも様々な条件・要素によって選ぶ道は異なりました。だけどやはり、多くのキリシタンが敵味方に分かれて戦い、キリシタンの命運を分けた合戦として、看過することができません。

とうとう関ヶ原に着いて、自分にとってもターニングポイントのような気がしてきて、何だかドキドキしてきました (;'∀')



解説板

最初の陣跡

解説板

家康が座った岩

東首塚


車を進めて東首塚へ。解説板を読んで知りましたが、この首塚は、この地の領主竹中氏が築いたものだとか。

今でこそ竹中氏陣屋跡のある垂井町と、ここ関ヶ原町は違う町だけど、当時は両方とも竹中氏の領地だったんですね。

塚というほどではありませんが、わずかに墳丘と見える土地があります。この下に家康が首実検した将兵の首が埋まっているのでしょう。木が植えられ、井戸があり、石碑が建てられていて、別に暗いわけではないのですが・・・。唐門の朱色で飾っていてもやはり荒涼とした感じがします。



井戸


石碑

解説板

石碑

石碑解説板



ねこ


ぼんやり写真を撮っていたら、にゃーんとネコが走り寄ってきました。エサ狙いであることは明らかなんですが、あげるものなど無し。

いや、勝手に餌付けしたらいけないかもしれませんね。でも懐かれると心が動くのもので、ネコとの出合い、ちょっとだけうれしかったです☆



松平忠吉・井伊直政陣跡


では史跡めぐりに戻って、東首塚の横にある松平忠吉・井伊直政陣跡へ。

ここは関ヶ原合戦のいわば開戦地ですね。「開戦地碑」はまた別の場所にありますけど、ここから宇喜多秀家に鉄砲を撃ちかけたのが実質的はスタートですから。

解説板にもあるとおり、先鋒は福島正則であると咎められ、方向を転じて島津義久に襲いかかり、戦いの火ぶたが切られました。「開戦地」でなければ、「きっかけ地」でしょうか。1600(慶長5)年9月15日の朝のことでした――。



松平忠吉・井伊直政陣跡

解説板

石碑

関ケ原町歴史民俗資料館


ここらで資料館をチェックしておきたいと思います。館内は撮影不可ですが、関ケ原町歴史民俗資料館は最新技術と研究成果が盛り込まれたミュージアム。

入ってすぐの大型ジオラマが特に人気で、私もかぶりつきで見入ってしまいました。本とか映像では分かりにくい位置関係や、どのタイミングでどこで何が起こったがよく把握できます。

最近の戦国ブームを反映して、家族連れも歴史オタク系の人も、戦国武将のコスプレイヤーもいて、ここだけ訪れても結構なカオスを体験することができます。



徳川家康最後陣跡


歴史民俗資料館のある一帯がもう古戦場で、目の前の広い緑の公園が徳川家康最後陣跡です。

わずか半日ほどで終わった関ヶ原合戦で、家康は桃配山からここへと移動しながら戦いを制していったんですね。連絡役は各陣所と家康陣所を随時行き来したことでしょう。



徳川家康最後陣跡

徳川家康最後陣跡

横手の神社

貴船神社

田中吉政陣跡


徳川家康最後陣跡とほぼ同じ敷地内にあるのが田中吉政陣跡。田中吉政は、敗走した石田三成を捕縛した功績で、この後柳川城主になる人ですね。

柳川城主時代に、城や堀を整備し優れた町づくりをしたことで知られていますが、柳川に宣教師を招き保護したことも忘れてはならない点。

柳川での田中氏時代はたった9年にしかなりませんでしたが、田中吉政に用地をもらって建てられた教会やレジデンスがありました。それで田中吉政キリシタン説も唱えられたりするんですが、その辺はまた柳川に行って調べてみたいと思います。



田中吉政陣跡

解説板

細川忠興陣跡


続いて車に乗って細川忠興陣跡へ。関ヶ原は体力があるなら自転車を借りて回るのがいいくらいの広さです。

垂井町や山の上の方の史跡は無理ですが、中心地辺りだけなら徒歩でも可能ですね。

実際歩いて回っている人たちを結構見かけました。その方が雰囲気をもっと味わえるというのもあるんでしょう。

さて細川忠興と言えば、奥さんのガラシャ夫人。忠興が関ヶ原合戦の前に行われた会津征伐(上杉攻め)に参戦中に、京都の細川邸は石田三成によって包囲され、人質になることを拒んだガラシャ夫人は、家臣に胸を突かせて死にました。

その知らせを受けた忠興は上杉攻めで獅子奮迅の働きを見せ、続く関ヶ原本戦でも黒田長政らと共に石田三成の重臣 島左近らとの戦いを制し、首級136を上げました。この論功行賞で丹後12万石から豊前33万9千石に加増・移封されるんですよね。天下分け目の関ヶ原は、多くの人たちによって人生の分け目でもあったのだなとしみじみ。



石碑

細川忠興陣跡

解説板

岡山(丸山)烽火場


少し車を走らせて岡山烽火場(のろしば)へ。ここには黒田長政と竹中重門が陣を置いていました。

垂井町で触れたとおり、2人の父親は共に秀吉の軍師で、因縁浅からぬ関係。2人してここに立ったときどんな思いが去来したのか・・・。

黒田長政は松尾山に陣取る小早川秀秋に寝返りを約させていたとされ、開戦の烽火(のろし)も上げました。竹中重門は伊吹山で小西行長を捕縛するなどの活躍をし、戦の後は東西の首塚を築きました。2人とも関ヶ原のキーマンとなったことが興味深いです。



岡山烽火場

解説板

岡山烽火場までの道

見晴らし台

黒田・竹中陣跡


岡山烽火場と同じ所にある黒田・竹中陣跡碑。歴史的に重要な現場というのは、得てして何も語らないものですね。

石碑がなければ、見晴らしのいい山の天辺だなというだけです。ただ眼下に広がる関ヶ原の平地を見ていると、それぞれの陣の動きが一目瞭然だったことが分かります。



黒田・竹中陣跡より

関ヶ原

行く道


石田三成陣跡へ!


笹尾山


物々しい馬防柵が出迎えるのが笹尾山の麓、石田三成陣跡です。

いよいよ激戦地だなという感じがします。

陣が置かれた所までは少し登りますが、道が整備されていてハイキングコースみたい。ガイドに導かれた団体さんも何組か。人気なんですね。

吹きすさぶ風が強くて、時折雨が混じるようになってきました。今日は天気が崩れると聞いていたけど、古戦場を訪れるのはこんな日が逆にいいのかもしれません。



笹尾山

笹尾山

石田三成陣跡

石田三成陣跡

石田三成陣跡


石田三成陣跡は、山中の開けた平地に。石碑と解説板があるだけというのは、他も同じ仕様ですが、何だかここには凄まじさがこもっています。

さっきの岡山烽火場から黒田長政が小早川秀秋に裏切りを促し、秀秋と同調する裏切り者たちによって西軍の将兵は3万5千ほどに。

三成が敗戦を悟って逃げる決心をしたのはいつだったのだろう。ここから先の敗走ルートも捕縛地も諸説あるけど、ここまでの経過と敗色濃厚となるところまではいろんな資料で確認できるところですね。「負けた」と感じたとき、自分に命を任せてくれた大谷吉継の顔も浮かんだんでしょうか。



石田三成陣跡

見晴らし

石田三成陣跡

解説板

島左近陣跡


石田三成陣跡から下って馬防柵に戻ると、その隣に島左近陣跡とありました。石田三成の陣所を守る形で配されていたわけですね。

関が原の戦い本戦が始まったのは、午前8時頃からとされています。当初は将兵の数が多い西軍優勢だったといわれ、小早川秀秋も態度をはっきりさせないまま推移。

だけど三成の先鋒として前線に出ていた島左近が負傷したところから潮目が変わり始めます。

「三成に過ぎたるもの」「鬼左近」と言われた島左近。精鋭3千を率いて参戦していたと伝えられますが、それくらい恐れられる猛将が討たれたとなると、今度は逆方向の流れが生じてしまいます。島左近に挑んだのは黒田長政・田中吉政隊ですが、黒田配下の鉄砲隊が左近を狙って狙撃。弾の当たった左近は一時撤退し、その後死亡しました。

やはりここは関ヶ原合戦のハイライトであり、最大の見どころともなるスポットですね。あ、風がびゅうびゅうと吹いてきた。



解説板

島左近陣跡

島左近陣跡

解説板

周辺地図

西軍陣跡

馬防柵

島左近陣跡

決戦地


島左近陣跡から車なら3分、だだっ広い平地の真ん中に建てられているのが「決戦地」の碑。

ここが「決戦地」とされた理由は分かりませんが、石田三成陣から近く、平地なので多くの将兵が激突して血を流したに相違ありません。

関ヶ原合戦では、東軍・西軍合わせて約16万人(諸説あり)の兵士が生き残りをかけて壮絶な戦いをしました。どこもかしこも決戦地だったと言っても過言ではないでしょう。



決戦地

解説板

決戦地

決戦地

島津義弘陣跡


少し中心部を離れて、今度は島津義弘陣跡へ。島津義弘は西軍ですね。西軍だけど、元々反豊臣だったこともあり、成り行きで西軍に加わるようになったという経緯があります。

だから関ヶ原でもずっと防戦に徹し、敗色濃厚となってから、家臣の進言でもって退却を決めます。そして世に名高い「島津の退き口」となるんですね。

その際、ふつう退却するなら選ぶ佐和山城方向ではなく、敵のいる方向に「敵中突破」したというのが後世に語り継がれている島津勢の退却方法。それは勇猛さゆえではなく、東軍に味方する気持ちが半分くらいはあったことを示していたのかもしれません。

それから壮絶なのが、捨て奸(すてがまり)という戦法。退却する際に、大切な味方を逃がすために殿(しんがり)の数名が馬を下りてその場に留まって敵を押しとどめるという作戦です。数人ずつが鉄砲を持ってあぐらをかいて待ち構え、敵が来たら狙撃。次いで槍に持ち替えて、討死に覚悟で敵中へ突撃するという・・・。

留まった者たちは命を落とすことが前提となったこの戦法を島津勢は何度も用いて、島津義弘を国許に帰還させました。壮絶過ぎて言葉を失います。



島津義弘陣跡

島津義弘陣跡

灯籠

解説板

開戦地


次は関ヶ原合戦の「開戦地」へ。

9月15日の朝、霧が徐々に晴れて視界が広がった午前8時頃、先鋒を務める福島正則隊が宇喜多秀家隊に一斉射撃を行った所です。

現在は標柱が北寄りに移動したと書かれているので、田んぼに踏み込んだ辺りなのかもしれません。



開戦地

解説板

開戦地

小西行長陣跡


小西行長陣跡は、開戦地碑と同じ小公園の一角に。

一緒に整備されたんだと思いますけど、碑のある所が近いので、これだと小西行長が戦いの火ぶたを切ったかのように見せますね。小西隊が攻撃開始するまでほんの数分差でしょうから問題ないと思いますけど。

それにしても・・・勝ってほしかったなと思います。キリシタン大名だった小西行長が勝って、徳川家康が力を失っていたなら、その後のキリシタン迫害はなかったのではないかと。私が関ヶ原に来たかったのも、キリシタンにとって分かれ目になったからですね。つまりここから小西行長が退却したときから、キリシタンの命運が尽きていったんですね。歴史は残酷です。



小西行長陣跡

小西行長陣跡

解説板

周囲

天満神社


物思いに耽らずにいられませんが、足を止める暇はないので、耽ったまま行きましょう。次は西軍の副大将 宇喜多秀家の陣跡へ。南天満山の天満神社が陣跡です。

案内板の所に梅が咲いていて少し優雅な気持ちもしましたが、社殿までは鬱蒼とした林の道をかなり進みます。当時もこんな風だったんでしょうね。



案内板

解説板

奥へ

林の道

宇喜多秀家陣所跡


宇喜多秀家陣所跡の碑は社殿横に。宇喜多隊は西軍最大の1万7千人を擁し、西軍の主力として福島正則隊と激闘を繰り広げたのですが、西軍からの相次ぐ裏切りで総崩れとなり、敗走しました。

不思議なのは、一旦薩摩の島津領に落ちのびて、その後身柄が引き渡されたものの助命され、八丈島に配流されたこと。西軍の副大将で主力だったのに。

その上結構長生きして83歳で死去。八丈島にあること半世紀で、死んだのは4代将軍家綱の時代です。子孫は東京や八丈島で暮らしていると聞きます。仏教ではこの世のすべてのものは生々流転するというけれど、歴史もまたそのようですね。不可思議な流れに乗って、絶えず移り変わっていくように感じます。

そうだ、宇喜多の陣営には明石全登(掃部とも)がいましたね。熱烈なキリシタン武将として知られています☆



宇喜多秀家陣所跡

宇喜多秀家陣所跡

石碑

解説板

神社を抜けて


それでは大谷吉継の墓所へ。墓所というか最期の地ですね。大谷吉隆陣所跡であり、死ぬこととなった場所なので。

案内標柱には、神社の上にあると書かれていて、神社に行くまでには線路も。なんかいろいろと越えていく感じです。ここで迷子になって行けなくちゃう人も多そう。。



案内標柱

鳥居の向こう

神社

神社

大谷吉隆陣跡


山を登って大谷吉継陣跡に到着。結構な山中にありますね。攻撃を受けたときには有利に戦えただろうなと思います。

よく見ると、石碑には「吉隆」と記されていますね。解説板には「吉隆(吉継)」となっているんですが。

友である石田三成から挙兵することを聞き、無謀であると諫めましたが、三成の意志が固いことを見て、それならばと自分も共に戦うことを決めた大谷吉継。「漢」だなと思いますし、それでファンも多いですよね。

1585(天正13)年頃受洗していたので、キリシタンになった大名の一人と数えることができますが、死ぬまで信仰を維持していたかは不明です。キリシタンだったかどうかは、私にとっては大きなポイントですけども。



大谷吉継陣跡

解説板

大谷吉継陣跡

大谷吉隆墓


大谷吉継の墓は陣跡のすぐ近くに。

こちらも石碑は「吉隆」ですね。

ここまで来るファンへのサービスでしょうけれど、顔出しパネルはアリなのかなぁ。。

彼の死を悼むファンには微妙でしょうね。家康からの再三の催促により小早川秀秋が裏切って、猛烈な勢いで襲いかかったのが大谷隊。最初は地の利に優れた大谷隊が優勢で、小早川隊を追撃するほどでしたが、小早川秀秋の裏切りに便乗して脇坂、赤座、小川、朽木の4隊(約4千2百)が、大谷隊の側面を攻撃してきて形勢は逆転。大谷隊は壊滅し、吉継も最期を迎えました。

享年42。解説板に自害したとあるので、やはりキリシタンはやめていたんでしょうね。キリスト教では自殺を禁じています。



大谷吉継の墓

大谷吉隆墓

解説板

大谷吉継の墓

大谷吉継の墓

顔出しパネル

眺め

解説板

西首塚


平地に下りてきて西首塚。竹中重門が築いたものですね。両軍の旗が翻っています。

戦死者数は、西軍が8千~3万2千、東軍が4千~1万と、諸説あってはっきりしませんが、ともかく甚大なものでした。

その人たちがたった半日でこの土地で息絶えたことを思うと、空恐ろしさで気が遠くなります。人はこんなにも人を殺す存在なのだな、と。



西首塚

西首塚解説板

西首塚

やっとご飯


重たくも重い古戦場めぐりをして、キリのいいところでご飯休憩。蕭々と雨も降り続き、カメラを持つ手もかじかんできたので。

暦では春なのにまだ寒いです。凍えるのは気温のせいだけではないけれど。でも、こんなにもしっかりと一つひとつの陣跡が残されている古戦場もないので、関ヶ原はやはり特別な場所ですね。


本多忠勝陣所跡


判官びいきの性格が影響して、どうしても西軍側の武将に感情移入してしまいますが、ここからは勝った東軍側の陣跡を見ていきましょうかね。

勝者にも勝った理由があったはず。それも押さえておかなければ。

本多忠勝陣所跡は、電柱に付けられた案内標識に従って、住宅地に分け入っていくとありました。「あれ、道間違えたかな~?」と引き返そうとしたときに、家の裏側に「本」の字が見えて分かりました。

本多忠勝は東軍の軍監でしたね。石碑には「十九女池西 本多忠勝陣所古址」とあります。ここから池までは距離があるようだけど、池の近くまで広く陣を布いていたのかもしれません。陣跡には祠もあります。



本多忠勝陣所跡の祠

本多忠勝陣所跡

解説板

藤堂高虎・京極高知陣所跡


続いて藤堂高虎・京極高知陣所跡は、関ヶ原中学校。入っていいのか迷いましたが、中学校のHPを見たら「遠慮しないで中に入ってください」とあるので、良いみたいです。ありがとうございます☆

藤堂・京極勢5千は、開戦すると大谷隊と戦いました。京極高知はキリシタンですが、東軍についたんですね。

キリシタンは西軍につくことが多かったので、関ヶ原合戦を、キリシタンが信仰的な生き残りをかけた戦いだったと解釈する人がいますが、それは少々偏った見解と言うしかありません。信仰も一つの要素になり得たとは思いますが、キリシタンだったとしても全ての人にとってそうだったとは言えないということですね。

関ヶ原合戦の論功行賞で、京極高知は信濃・飯田10万石の城主から、丹後・宮津12万3千石の国持ち大名になりました。



関ヶ原中学校

藤堂高虎・京極高知陣所跡

解説板

藤堂高虎・京極高知陣所跡

福島正則陣所跡


次は東軍先鋒となった福島正則陣跡へ。春日神社という神社の境内に碑が建っています。当時から神社だったのかな。

だとするとこの巨樹たちは戦の目撃者だったことになります。神社の社叢はもっと一帯に茂っていたことでしょう。

福島隊は約6千人。功にはやる兵たちの熱気が今も漂っているように感じます。

うーん、位置的には西軍の陣跡に結構近いですね。先鋒だから前線に陣取ってたんでしょう。それから東軍主力隊は関ヶ原の平地部に陣を置いていたことが分かりました。それで現在は住宅地に埋もれたようになっているんですね。



福島正則陣跡

福島正則陣跡

解説板

神社の解説板

松尾山登山口


少しずつ日も陰ってきたので、最後に裏切り者の陣跡も。脇坂安治陣所跡は、名神高速道路と黒血川に近い松尾山の山中にあります。

高速道路の脇だからか、どこか荒涼とした感じがする、人目につかない山ですね。不法投棄とかされちゃいそうな。一人だったら怖くて入って行けないような道です。

松尾山山頂には小早川秀秋、山麓には脇坂安治が陣取っていたようで、登山口には小早川秀秋の旗印、違い鎌の幟が立てられています。もう山頂まで登る力はないので、今日は脇坂陣跡までかなぁ。



松尾山登山口

松尾山

森へ


脇坂安治陣所跡


脇坂安治陣所跡は松尾山の森の中にひっそりとありました。脇坂安治は勇猛果敢な武将で、「賤ヶ岳の七本槍」の一人としても有名。元々は裏切り者のダークなイメージはありませんでした。

でも関ヶ原以降はそのイメージがありますね。家を存続させた賢い人だったとも評価できるのでしょうけど。

ただし同じ「裏切り組」にくくられてしまいがちですが、朽木元網、小川祐忠、赤座直保とは違い、脇坂安治だけは関ヶ原合戦前に家康に連絡を入れていたことから、単なる裏切り者というより東軍の味方だったと見なされ、それが反映された論功行賞となっていますね。ギリギリの生き残り戦を勝ち抜いたと言えるでしょう。



脇坂安治陣所跡

解説板

椿



大きな教科書


武将コスプレイヤーや歴史サークルの人たちなど、関ヶ原に集う様々な人たちを見ていて、お祭りのような印象を受けましたが、彼らが歩き回りながら感じていくことは、きっと人生にとっては小さくない学びなんだろうなと思いました。

両軍の武将たちの生き様と死に様が、「教訓」よりもっと生々しい痕跡残すような気がするから。その意味では、関ヶ原古戦場は大きな本ですね。人生の何かを教えてくれる教科書だと言うことができそうです。

道徳の教科書ではないから、勧善懲悪ではなく、寝返って家名が存続したとかそんなことも教えるわけですが。

だけどそんな大きな本が、一つの土地に広がっていることが貴重です。足で実際に踏みながら回るので、自分の中に落とし込まれていく気がします。

歴史ブームは単なる趣味だけで留まらない素敵なムーブメントですね。閉塞感ある日本社会の中で、歴史ツーリズムが一筋の光になることを期待しつつ、私も楽しみたいと思います♪(๑ᴖ◡ᴖ๑)♪






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