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キリシタンのあしあとを求めて各地を旅してめぐります♪

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 蒼き切支丹回廊 9


今日も宮崎で伊東マンショの足跡を追います。髙田先生のお仕事が終わるまでは、カフェで資料読み。通り一遍の勉強しかしてこなかったので、改めて学び直す必要を感じています。「いざ行く」となってやっと本気モードが発動するのでは困るんですけど・・・^_^;
でもせっかく行かせていただけるので、よい一日になりますように!



法華岳へ


この日最初に訪れる場所で、また今日一番期待しているのは法華岳の薬師寺。

前方、麓に雲がたなびいているのが法華岳です。こちらの古刹 薬師寺には、マンショの存在が確認できる史料、天井板絵裏の書付があります。

伊東マンショの日本名を「祐益」(すけます)とするのが学界の定説のようになっていますが、ローマ市民権証書に「スケ」と「マス」があったため、伊東家の血筋で使われてきた漢字から「祐益」と当てたの(昭和初年に発表された説)が広まったというのが事実¹。恐らくこれが正しいんだろうと思いますが、違っている可能性もあります。

しかし幼名に関しては、この寺院の天井板絵裏書付から、「虎千代麿」(とらちよまろ)だということがほぼ確定できるのです。つまりマンショの存在をリアルに感じさせる数少ない史料だということです。


¹ 松田毅一「天正遣欧使節」(1999年、講談社)p44


法華嶽 薬師寺


薬師寺は和泉式部ゆかりの寺でもあるそうで、門前に像が。解説板によると、和泉式部が琵琶を奉納したのだそう。

和泉式部って、確か平安時代の人だから、つまりその時からこの寺はあるってことですね。

そんな昔からこの山深い所にあっただなんて、それだけでも驚きです。




境内は想像していたのより遥かに広く、山頂一帯が全部お寺の敷地のようです。

こちらのご住職は学校の先生をやってらっしゃるので、普段は週末の何時間しか資料館を開けていないそう(それも予約しないとダメみたい)ですが、今日は特別に開けてくださることに。

髙田先生が先代住職の頃からお付き合いがあり、論文も読んでいるからだそうです。感謝です♪



天井板絵


こちらが件の天井板絵。表に描かれているのは、龍ですね。迫力があります。

二枚の板絵を合わせると正方形になるようです。全面に金箔が施されていて豪華。

これが天井にあっただなんて、とても壮麗な堂宇だったのでしょうね。龍は、見上げる人々の心をドキッとさせたことでしょう。資料館は空調完備で、天井板絵の保存も完璧。文化財を守るのって、きっとお金もかかるんだろうなと思ったりしました。



天井板絵裏の書付


では裏の書付を見るために、背後に回ってみましょう。裏面だから豪華さはないけれど、こちらが大切な史料です☆

・・・肉眼では書付の文字は判読できませんね;;(心の眼で見ろということか。。)

赤外線をあてて見ると、↓の解説板にある文字が浮かび上がってくるのだそうです。

マンショの父である伊東修理亮祐青(いとう・しゅりのすけ・すけはる)が所願成就と、4人の子供たちの息災を願う内容ですね。マンショは奉納された年(天正3年)に6歳だったので、この二番目に書かれている「虎千代麿」だと考えられます。

最初見た時は判読できないと思ったけれど、じっと見ているとじわじわくるものがありますね。ここに父がいたんだとか、マンショの息災が祈願されていたんだとか思うと、ふわっと時空を超えられる感じがして。



資料館


ところでこちらの資料館ですが、天井板絵の他にも思わず目を見張る収蔵品が多数ありました。

和泉式部関連の古文書に、県内最古の十二神将板絵、弥生時代の三面鏡(中国製)、古墳時代の土器・石器、重要文化財に指定された経筒、島津義久が寄進した金箔戸板(めっちゃキレイ)等々。

詳しくは下のサムネイル画像で☆



埋蔵文化財出土跡地


戦国時代に、伊東家、そして島津家の祈願寺となった薬師寺は広大な敷地を誇っていたようです。

どこかの公園かと思ってしまうほど、ゆったりとした庭園には木々と芝生が植えられています。これを手入れするのって相当大変じゃないかと思ってしまいますが。

しかも「埋蔵文化財出土跡地」とか標柱も立っていて。まだまだ知られていない歴史が眠っていそうです。



墓域


庭園を愛でながら歩いて行くと、今度は広大な墓域が。創建から千二百年以上であることを思えば当たり前かもしれませんが、多くの人が生き、亡くなっていったんだなと感じます。

昨日の村川様や髙田先生はこの墓域の石造物も全部調査されたそうで、その時の話をうかがいました。

現代の整列した墓ではないので、ロープを張って区分けして一基ごとに詳らかに調べていったのだとか。歴史の降り積もる場所ではそれはとても手間のかかる作業だったことでしょう。



供養塔


さて、「伊東家、そして島津家の祈願寺となった」と書きましたが、それは伊東家を追い出して島津家がこの地を治めたから。

原因は戦です。伊東家の一族が都於郡から落ちていく時、この寺では島津の兵によって僧侶40人が斬殺されました。

多くの頭蓋骨が出てきた所に、今から10年ほど前、供養塔が建てられました。僧侶39人と見習いの小僧1人だったと聞きました。

寺の宝物も素晴らしいですが、重く血の染みた歴史もまた、忘れてはならないものとして数えられるんでしょうね。




下山して都於郡へ



法華嶽は桜の名所でもあるそうで、山腹からの眺めが素敵です。

桜は散り際ですが、穏やかに薄雲った風情は春ならでは。

今は道路が通っているけれど、昔なら俗世を離れた桃源郷のように感じたことでしょう。



大坪の一本桜


次なる目的地に向かう途中、大坪の一本桜にも連れて行っていただきました。ここも桜の名所で、満開の頃はどんなに見事だろうと思うのですが、花は少しだけ。

九州は季節が進むのが早いから、仕方ないですよね。髙田先生はしきりに残念がってくださるのですが、遅く来た私が悪いのです(^_^;)

その代わり、菜の花畑が迎えてくれました~。



岩崎稲荷


西都市にやって参りました。こちらにあるのが、伊東氏の研究に欠かせない岩崎稲荷六地蔵塔。

1569(永禄12)年、岩崎稲荷神社に参籠中、都於郡城主であった伊東義益(よします)は社殿で急死。

都於郡城中全ての者が剃髪して菩提を弔うという異例の葬儀が行われたと伝えられています。ストレスで持病が悪化したのかもしれませんけど、何だか謎めいた死ですね。

この義益の妹がマンショの母 町の上で、義益の息子が昨日お墓を見た義賢と祐勝。この兄弟はキリシタンです。マンショはここに来たことがあるかどうか分からないけれど、きっと義賢・祐勝兄弟は来て、父のために祈ったでしょうね。



六地蔵塔


六地蔵塔は思ったよりビッグ。私の背丈の倍以上はゆうにあります。

碑文には元々「奉為前三州太守桂円法光速証大覚位」と刻まれていたそうですが、後に島津氏が「三州」を「日州」に変えたのだとか。

三州とは、日向、大隅、薩摩の三国のことだから、薩摩から来た島津氏としてはムカついたんでしょう。宮崎には島津氏と伊東氏の攻防の跡が多くみられます。



都於郡(とのこおり)城跡


そして、やって来ました都於郡城!!

マンショが生まれた城です。少年期になるまで住んでいたから、この辺りは駆け回っていたのではないかと (^^♪

私は車を運転できないので、宮崎に行こうと計画を立てていた段階では、ここまで来るのは無理かなと思っていました。

それが今来てるっっっ。ハレルヤ、神様感謝します。



奥之城


したたるような緑の土塁の間を進むと、次々と曲輪が表れます。まるで緑の巨大迷路。うららかな陽射しを受けて、楽しくなってくるような♪

こちらは奥之城。城主の家族が暮らしていたそうだから、マンショもここにいたんでしょうね。

いわゆる豊後落ちの前まで。命からがら逃れていく日が来るとは、幼いマンショは想像もしていなかったことでしょう。



本丸跡


「ここ全部が本丸?」と思ってしまうくらい広い本丸跡。なんと~、マンショ像と駐日イタリア大使による碑、「伊東満所之霊碑」まであります。

ここまで顕彰していると、ちょっと政治的な匂いもしてきちゃうかな?

だけど西都市の都於郡中学では、校歌にもマンショが歌われているのだとか。さすがですね☆



三ノ丸跡


都於郡城は本丸、二ノ丸、三ノ丸、奥ノ城、西ノ城の5つの曲輪で構成されています。

曲輪は丘陵地に広がって配されていて、北西に伸びた三ノ丸からは、眼下を流れる三財川が眺められます。

マンショはあの川で魚釣りでもしたんではないかと髙田先生。そんな日があったなら良かったでしょうね。



西都原古墳群


さて、名残惜しいのは山々ですが、次へと参りましょう。

今度寄ってくださったのは西都原古墳群。

この見渡す限り広がる台地には、300余りの古墳があるんだとか。ちょっと想像を絶するスケールなんですけど (@ ̄□ ̄@;)

古墳の形態も円形墳、前方後円墳、方形墳、地下式古墳などヴァリエーション豊か。ちゃんと見てたら一日あっても足りません。とりあえず広大さと時間軸の長さを感じながら、菜の花の中で万歳してきました(なぜ?w)



石井十次墓所


先を急いだのは、日暮れまでにこちらにも来たかったから。宮崎は石井十次の生まれ故郷で、彼の作った孤児院とお墓まであるんです。

ここもバスとか公共交通機関で来るのは難しそうで、来るのを諦めていた所。それが今いますよ、お墓の前に。ほんと、念願を叶えていただき感謝です。

石井十次さん、こんにちは。初めまして。あなたのことは、まだあまりよく知らないんですけど、学びに来ました。何か心に持ち帰れるものをくださいませ<(_ _)>



石井十次記念館


お墓のある公園からは、車で3分ほどで石井十次記念館です。

石井十次記念館には、石井十次の資料館をはじめ、方舟館、静養館など5つの施設があります。

写真奥に見える和風の鐘楼は方舟館。

何ですか、この美しいものは――。と、方舟館を見上げて一瞬息を飲みました。西に傾いた陽がガラス窓に反射して光の絵を描いています。信仰の静謐さと温かさが相合わさった色。見ているだけで心が揺さぶられます。



石井十次資料館


石井十次は1865(慶応元)年、宮崎県児湯郡上江村(現在の高鍋町)に生まれました。

資料館には十次が行ってきたことの軌跡が、多くの展示品で語られています。

最初医学を志したことから、福祉の道を歩むことになり、児童救済事業に邁進しました。

岡山、そしてここ茶臼原とで孤児院を運営し、多い時には1200人もの児童を収容し養育しました。その理念はキリスト教精神によって裏打ちされた人道主義、そして友愛です。



ステンドグラス


私は物語みたいな石井十次の本しか本しか読んだことがなかったので、初めて知ることばかり。

恥ずかしいくらいですが、恥ずかしく思いながらでも吸収した方が良さそうですね。

こういう人がいたんだなと、48歳で亡くなってしまったんだなと、すごいアイデアマンだったんだなと・・・解説を読み、展示品を見ているうちに胸がいっぱいになってきました。特に写真に写った子供たちの顔が。こんな風に一人ひとりの人間を育てたのって、ほんとに偉大なことだと思います。

命は命のために役立てなくてはと、自分のことを振り返るようになりました。



静養館


5つの施設のうち、方舟館とこちらの静養館は登録有形文化財。石井十次は静養館で亡くなったのだとか。

実はこの建物、1879(明治12)年米国の宣教師宿舎として岡山に建てられたものを、1913(大正2)年にこちらへと移築したのだそうです。

ちょっとびっくりじゃないですか!?



内部


石井十次の亡くなった部屋は、今も十次の遺影と共に保存されているのかと思いきや、現役のバリバリさんでした。

石井記念友愛園の子どもたちがこの部屋を使い、論語の素読とかをしているのだとか。

論語の素読って、古くて新しいですね。頭良くなりそう。今はもう孤児院とは呼ばないようですが、現在もこちらで暮らしている子供たちがいるそうで、いい大学に合格したという話を聞きました。

今にしっかり受け継がれているということにまた感服☆彡



根白坂古戦場跡


もう一日分は十分回らせてもらったと思いますが、あともう少し連れて行ってくださるようです。

車がびゅんびゅん通って行きますが、ここが目的地、根白坂古戦場跡です!

九州の歴史小説とか読んでたら憧れてしまう場所ですよね、根白坂って。こんな普通の坂道だったんだーと言ったら失礼ですかね?

解説板から抜き書きしていましょう~。
根白坂古戦場跡は、天正15(1587)年、大友氏が援護を求めた豊臣秀吉の弟である秀長が率いる軍勢が戦いの為に砦を築いた所と言われています。

天正6(1578)年の高城の戦いにおいて大友氏を破った島津氏は、九州内においてまさに飛ぶ鳥を落とす勢いでのし上がってきました。全国統一を目前にした豊臣秀吉にとっては、この島津氏が邪魔な存在となってきました。そのために島津と敵対している大友氏の頼みを受け入れ、壮絶な戦いを仕掛けることになります。その豊臣軍の宮部継潤が根白坂に砦を構築し、その左右の高台にも陣を構え、それぞれに計1万5千ほどの兵を配備して島津軍との戦いに備えました。

一方の島津軍は、高城城主である山田新介有信の奮闘により、実力ある大友氏を破り、その後、豊臣秀長軍により鉄砲や矢による攻撃を受けたりして堅固に守っている状況が続いていました。この高城が破られると島津氏は九州征服の野望を断たれ、瀬戸際に立たされる状況となりました。そのため、島津義弘、義久により、薩摩から2万人の精鋭を引き連れてこの根白坂を夜襲しました。

宮部継潤は、あらかじめ部下に命じ、多数の人夫を使い、深さ2間(約3.6m)幅3間(約5.4m)程に堀を広げ、その堀の際に土塁を盛って、2間ほどの木や竹の柱を立て柵を作り、なおその中に鉄砲隊を組織し、厳重な体制で戦いに望みました。島津軍はその柵を倒すべく試みましたが、苦戦を強いられ遂に柵を突破できず、約300人ほどの犠牲者を出し、残りの兵を率いて退却せざるを得ませんでした。

この戦いで島津氏は大打撃を被ったにもかかわらず、高城は陥落せずに抵抗を続けていましたが、豊臣秀吉に屈服した島津義久の説得により、城主の山田新介有信は開城し、九州内における天下分け目の戦いはようやく終結します。その後まもなく秀吉は天下統一を成し遂げることになりました。



つまり九州の「関ヶ原」と呼ばれる戦いの激戦地だったということですね。もう一つの激戦地は高城です。2つの場所で行われた戦いがセットになっているように思います。この車通りの多い坂道に、私が知っている多くの武将がしのぎを削っただなんて、車道が一転、舞台みたいに思えてきました。



解説板

根白坂古戦場跡

地図で確認

向こうに高城

宗麟原供養塔


坂を下って、丘を登って行くと、少し寂しい感じの空き地にでました。

ただの空き地かと思ったら、その奥にありました、宗麟原供養塔です。

六地蔵塔だから形は岩崎稲荷のと似ているけれど、大きさが違います。こちらはせいぜい2mくらいでしょうか。

先ほど出てきた天正6(1578)年の高城の戦いで、大友軍と島津軍が激突したのですが、一進一退の末、その戦いで勝者となったのは島津義久率いる島津軍。敗走する大友軍を更に攻め、雨で増水した耳川へ追い立ててると、大友軍は死者3千人余りを出して壊滅状態となりました(そのため「耳川の戦い」とも)。


宗麟原供養塔と大友宗麟


天正13(1585年)、この戦で亡くなった将兵を敵味方なく弔うために建立されたのが宗麟原供養塔です。建てたのは、戦いの時の高城城主であり、戦後もこの地を治めた山田有信。この供養塔が建っているのは、高城を攻撃する際、大友軍が本陣を置いた場所とされています。それで言うに言われない寂寥感が漂っているんでしょうか。

「宗麟」の名が付いているから、大友宗麟が建てたのかと思いましたが、逆なんですね。勝った島津側が両軍の弔いのために建てたという。まったく・・・、宗麟~(´;ω;`)って感じです。でもこの戦いのきっかけになった大友宗麟の夢から語らなければなりませんね。フロイスの「日本史」を引用したいと思います。

彼は、既述のように、日向の国に、一つの堅固で、ローマにまでその名を馳せるほどのキリシタン宗団を形成する決意でいた。そのため彼は力を尽くしてその完成を期し、たとえヨーロッパの法と習慣と採用した政治がしかれるとしても、現地の習慣がそれに合致できるものにしたいと意図していた。
(中略)

この日向における戦によって、かの九州の島に、まもなく一つの堅固で大規模なキリシタン宗団が出現する見通しがつくことになった。この島には九ヵ国があり、そのうち五ヵ国を豊後国主が領し、三ヵ国を薩摩の国主が、そして残りの一国を竜造寺が支配して来たが、これら諸国はすべて(豊後)国主の配下に置かれるはずで、国主は非常な熱意をもって信仰を弘めるために力を尽し、人々が創造主を知るに至ることが容易に(人間的な見方による限り)、かつ十分な見込みのもとに期待されることになった。(フロイス「日本史」40章より)



宗麟は受洗後、信仰への熱が高まりキリシタンのための地域を作ろうと考えるに至りました。元々日向国(今の宮崎県)は伊東氏の領国であり、薩摩の島津氏に追われて豊後に逃れて来ていたので、彼らの国を取り戻すのに助力するという大義名分もありました。その計画は当初うまくいくように見えたのですが、高城の戦いを機に形勢が逆転します。

豊後の軍勢は日向国の鍵をなす高城(タカジョウ)を包囲するに至ったので、同城はかなりの苦境に陥った。この有様を見た薩摩の国主(島津義久)は、その城を失えば、新たに征服した日向国を失うのみならず、自らの薩摩国すら失う危険に曝されると判断したので、できうる限り最大の迅速さと準備をもって、同城を援助することを決意し、それがために自らの最後の勢力を投入することに決めた。
(中略)

大軍を率いた薩摩国主は、豊後の山岳からあまり距たっていないある嶮山に設けられた自らの陣営にほどなく到着すると、部下のもっとも機敏で有能な指揮官らに、それぞれ配置した分隊をして敵を攻撃させるように命じた。それは一五七八年の十二月二日、火曜日のことであった。薩摩勢は、豊後勢を誘き出せるかどうか見ようとして、若干の囮の兵をもって出動し始めた。

二回にわたってこうした行動が繰り返されたところ、豊後勢の無秩序はこの上ない有様であったから、彼らはもはや我慢しきれなくなり、味方の優位を信じきって出陣することを欲した。彼らはそれが敵の策略であることに気づくことなく、計略的に逃げるふりをして走る敵を追跡し、ついには自分たちに対して仕掛けられていた罠に陥るに至った。すなわちすでに豊後勢がその陣地から出てしまうと、薩摩勢の全主力は、恐るべき勢いと果敢な気力とをもって彼らの上に襲いかかった。(フロイス「日本史」45章より)



怖いです。これ、島津軍の得意とする釣り野伏せ(つりのぶせ)という戦法です。この時さっき行った根白坂に塁を張っていたのは島津軍の方ですね。あそこほど見晴らしが利く所は他にないので、あの場所に塁を築いた時点で勝ちポイントを取っていたと言っても過言ではありません。

逆に言うと、次の豊臣軍との戦いの際、島津軍が根白坂を取れなかったのは、痛恨のミスで大きな敗因となりました。島津軍が来るより前に根白坂を先取したのは黒田官兵衛の指示だったと言われています。軍師官兵衛、やっぱりさすが。おっと、話が先に進み過ぎました。元に戻してっと。

こうして敵は豊後勢に対して勝利を博し、彼らに莫大な損失を与えた。敵方の戦闘における攻撃ぶりはすさまじく、哀れな豊後勢はまたたくまに背を向けて逃走し始めた。かくて彼らも、親賢の哀れな運命と大いなる屈辱的行為に倣うこととなった。敵方は豊後の将兵を殺害しながらなおも追跡の手をゆるめなかったので、豊後の将兵たちは、ついには差し迫った危険と死の追跡から免れようと、水量豊かな耳川(みみがわ)に身を投ずるほかはなく、ほどなく水中に没し溺死した。
(中略)

このようにして豊後の国主は、何年もかかって獲得したものを一日にして失い、とりわけ彼は、名声、信用、それに一同の許における畏怖の念を失ってしまった。この戦のために大勢の人々の上に生じた不幸で不運な結果について個々に述べることは差し控え、また豊後の各地における、死者のために泣き悲しむ人々の慟哭、悲嘆、嗚咽についても割愛する。

これらの死者は、たびたび私が聞いたところでは、二万を超えたという。薩摩の軍勢とても、まるで自分たちには悲しみがなかったかのように勝利を誇るわけにはいかなかった。なぜならば彼らもまた、多数の負傷者のほかに八千名近い死者を戦場に残すことになったからである。
(フロイス「日本史」45章より)



戦争は悲惨です。勝者だって悲惨なんです。それを分かっていながら、今も地上から無くならないのだから、人間とは・・・。互いに争い、戦うということ自体、既にもう何かに負けているのかもしれませんね。



木城跡


急峻な坂をグイグイと登って木城跡へ来ました。城域は決して広くはないけれど、切り立つ崖の上にあり、難攻不落そのものです。

だけど詰められる兵士数が限られるから、守ると言えど大変だったことでしょう。よくぞ持ちこたえたという感じだったのでしょうね、城主の山田有信は戦の後、島津義久から大きな褒賞を受けています。

山田有信は、高城の戦いで大友軍の進撃を足止めして大勝をもたらし、次の秀吉による九州攻めの際にも籠城して徹底抗戦を行いました。しかし最終的には島津義久の勧告で開城。主君が降伏したので従ったわけです。

やっぱり最後まで勝った人はどこにもいませんね。この時の大将だった秀長も死に、家督を継いだ養嗣子も4年後に死んで断絶しました。秀吉だって・・・。



高城跡


だけど高城跡に建てられた櫓からの眺めは、天下を獲った気分にさせる爽快さ。この風を思いっきり吸ったら、それだけでも恩賞だと感じられたのかもしれません。

人は生まれてきた時代しか生きられず、自分の環境だって大きくは変えられません。持って生まれた中で最善を尽くすのみ。

ならば信念に従って、己の力を出し尽くせたなら、良かったと評価すべきですね。空しいとばかり考えているのも困りもの。

ご飯を食べても動かなければ、その力が全部消えてしまうみたいに、せっかくの力も使わなければ無くなって終わります。武断系でも頭脳系でも歴史上の人物と言われる人たちは、きっと自分に与えられた力を使い尽したことの英雄なんでしょうね。



ケーキを買って


高城跡からの帰り道、ケーキ屋さんに寄りました。奥様の好きなケーキを選んでお土産に。私もお家に招待していただきました。

史跡めぐりに、こういう美味しい恒例があるのっていいですね♪


平和台公園


お宅に着く直前で、最後にもう一ヶ所寄ってくださいました。平和の塔(八紘之基柱、八紘一宇の塔とも)がある平和台公園です。

「八紘一宇」(はっこういちう)とは、全世界を一つの家だと考える思想ですが、戦前戦中の国家神道を想起させる言葉ですね。

高さ約36mにもなるこの塔は、日本国内および日本軍が駐留していた海外の各地域から一つずつ送られた1789個の切石で造られているのだとか。

ちょっと眩暈しました。ここに、この塔に集められた一個一個の石が何かを叫んでいるような気がして。一日の最後にとても衝的なものを見せていただきました。このショックもまた、しっかり刻んでいかなければなりませんね。





作り直しもできないし


今回の旅行記から註を付けてみました。以前のを読んで、自分で書いておきながら、「これどこからの引用?根拠あるのかな」と思ってしまったから。やってみたら、気持ちはスッキリするけど時間がかかるので、それはそれで困っています。

何とかいいものを作りたいけれど・・・。最善を尽くしているつもりでも、数年経って見ると、粗が見えて書き直したくなります。だけどそんなことやってたらキリがないし。。

(ここからめっちゃクリスチャンっぽいこと言うので、苦手な人は最終行に飛んでくださいw)

人はたった数年前のものでも、今ほどはできなかったとやり直したくなるのに、神様はつくづくすごいなと思います。何万年も前に人間を創られて、何十億年も前に万物を創られて、今まで創り直しをする必要が一つも無いだなんて。

神様は付け足すことも、引くこともしないクリエイター。自分の足りなさに嘆息することはあるけれど、そんな自分も作品だということを思い出して、感嘆のため息にしていきましょうか。

やり直してもこれ以上はできなさそうな充実した一日の終わりに、そんなことを考えていました(^o^)ノ < オヤスミー





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