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キリシタンのあしあとを求めて各地を旅してめぐります♪

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 蒼き切支丹回廊 8


宮崎めぐり一日目、天気は晴れ。関東ではまだコートを着ているのに、こちらではシャツ一枚の人がほとんど。南国だなと感じます。

ちょっとびっくりだったのが、外を歩き始めてしばらくしたら地面が揺れたこと。中くらいの地震ですけど、知らない土地で遭うと怖いですね。気を引き締めてレッツゴー。




午前中は徒歩圏を


今日は11時に髙田重孝先生と待ち合わせていただきました。それまでは一人でホテルから徒歩圏の史跡めぐりを。

スマホのおかげで迷子になりにくくなったのはいいけれど、画面見たり周りを見たりすると疲れるので、やっぱり地図がいいなぁ。ちゃんと町歩き用の地図を作って来なかったことを後悔 (~_~;)



西郷隆盛がいた


まず向かったのは、宮崎駅からも近い「西郷隆盛翁駐在之跡」。「駐在」と言っても、何か仕事をしていたのではなく、西南戦争後しばらく滞在していたということのよう。

石碑には「敬天愛人敬天愛人」の文字。解説板には、この言葉を愛したということは、「西郷は心温かい大変思いやりのある人だったことがうかがえます」とあります。

うーん、その意見に反対するつもりはないけれど、何でそんなに褒め称えるんでしょうね?(←今日の私はブラックかもしれない。。



石井記念こひつじ保育園


閑静な住宅街にあるこちらは、石井記念こひつじ保育園。運営しているのは石井記念友愛社です。

この社会福祉法人は石井十次の“愛と心”を記念する目的で設立されたそう。基本理念は、「天は父なり 人は同胞なれば 互いに相信じ 相愛すべきこと」。

石井十次についてはまた明日、経緯地に行った時に書こうと思います☆



日本基督教団 宮崎教会


少し歩くと日本基督教団 宮崎教会です。教会堂は新しいですが歴史は古く、創立は1887(明治20)年。

宮崎県のプロテスタント史は、1879(明治12)年に宮崎県在住の医師がアメリカン・ボードに伝道師派遣を要請し、これに応えて組合教会の新島襄や同志社大学の神学生だった小崎弘道が来宮したことに始まります。

1887(明治20)年にこちらの教会が、翌年高鍋教会(どちらも現在は日本基督教団)が創設されました。高鍋は石井十次の故郷ですね。受洗したのは大学に進んだ岡山で金森通倫からですけど。

この教会はアメリカから来たクラーク宣教師夫妻によって長く牧会されたそうで、HPによると教会の筋向かいにある栄町児童公園内にクラーク宣教師の銅像があるのだとか。うっ、見逃した・・・orz



日本基督教団 宮崎清水町教会


駅とは反対方向に15分くらい歩くと、今度は宮崎清水町教会が。

元々は「日本ホーリネス教会宮崎ホーリネス教会」として1920年に設立されたそうで、現会堂の完成は1985年。ちょっとイタリアっぽいですね。

宮崎駅周辺にいくつも大きな教会あって、クリスチャン多いのかなと思いました。



円南寺


午前中で仕事を終えた髙田先生と待ち合わせて、初対面のご挨拶をして円南寺へ向かいました(これから三日間すごーくお世話になることを、この時はまだ知らない...)

宮崎市加江田(かえだ)にある円南寺には伊東マンショの母、町の上が、マンショを思って作らせた木像があるということです。

普段公開していないものですが、髙田先生が先方に連絡して見せてもらえることになりました。早速お世話になってます<(_ _)>


伊東マンショについて


あのう、伊東マンショについては何をした人か言っておかなくて大丈夫ですかね? 世界史の教科書にも載っているので、大体のことは知られていると思いますけど、天正遣欧使節の一人で、正使です。

日本巡察使だったヴァリニャーノ神父が、日本宣教の様子をヨーロッパに知らせ、また日本人にキリスト教の本場であるヨーロッパを見せることが、爾後の布教に役立つだろうと考え、九州のキリシタン大名3人に働きかけて、その名代である4少年を送ったのが天正遣欧使節です。

およそ7年をかけて数多くのことを学び帰国した少年たちは、ヴァリニャーノ神父に伴われて秀吉に謁見。バテレン追放令を出した後だったにも関わらず、大変もてなされ、たくさんの褒美も受け取っています。4人が楽器演奏を披露すると秀吉は上機嫌になり、誰か自分の家臣になれば良いなと思ったよう。ちょっと引用してみましょう¹。

(食事の後、秀吉は)彼らを一人ずつ眺め歩き、自分の前に現れる者に対して幾つか質問した。ことに伊東ドン・マンショとは、相当長らく留まって話を交わし、非常な愛情といつくしみを示し、彼に対して、汝の従兄弟を日向国へ復帰せしめた、もし汝ドン・マンショが(予)関白に仕える気持ちがあるならば多大の報酬をとらせよう、と語り、自らに奉仕することを勧告してやまなかった。

秀吉はマンショが特に気に入っていたようですね。実はこの翌日も呼ばれて聚楽第に行っています²。

その翌日関白は、昼食後、巡察使から贈られた時計の調律を教わるために、(伊東)ドン・マンショとともに、(ロドゥリーゲス)修道士を召還した。彼はその碑も午後から後は両人を邸内に留め、無数の質問をし(中略)さらに関白は新たに(伊東)ドン・マンショに向かって、汝は同僚たちといっしょに予の家臣になる気はないかと相談をもちかけた。(中略)だがドン・マンショはあらかじめこういう勧告があろうかと心得ていたので、さりげなく遁辞を述べたところ、関白はもっともなことだと答えた。

使節たちがこのような好意を秀吉から受けた話が、ミヤコでは持ち切りとなり、キリシタンはバテレン追放令以前の状態に戻るのではと期待しましたが、残念ながらそのようにはなりませんでした。


¹ ルイス・フロイス著、松田毅一・川崎桃太訳「完訳フロイス日本史5ー豊臣秀吉編Ⅱ」(2000年、中央公論社)p104
² ルイス・フロイス著、松田毅一・川崎桃太訳「完訳フロイス日本史5ー豊臣秀吉編Ⅱ」(2000年、中央公論社)p121


伊東マンショ像が入った厨子


本堂に入って右手の観音開きの棚にマンショ像が入った厨子が置かれていました。

思ったより大きいですね。約87センチほどだと聞きました。念持仏のようなもっと小ぶりなものを想像していたので意外。

この像には「異国に旅立つマンショを写生したものを、マンショの母・町の上夫人が彫らせたもの」という口伝があるのだとか。

彫ったのは、マンショの侍臣を務めた刀匠・国広ではないかと、マンショを語る会会長の高崎隆男氏は推測しておられます¹。


¹ 雑誌「マンショ創刊号」(2007年、鉱脈社) p75


伊東マンショ像


マンショ像は、ふくよかな印象。おっとりした感じなのに、目元がキリリとしていて貴族っぽいです。

服装と髪型(美豆羅というらしい)に特徴があり、奈良・平安時代の少年みたいですね。確か聖徳太子の絵像もこんな髪型です。貴族っぽい様子なのはそれだけ家の格式が高いことを意味するのでしょう。なんせ日向国の伊東氏ですからね。

袴には伊東氏の家紋、木瓜(もっこ)が配され、袴の腰板には藩主だけに許された庵木瓜(いおりもっこ)が描かれていることから、マンショが藩主と同格だったことがうかがえるということです。ペドロ・ラモンという宣教師がマンショを流浪の孤児だったと書いたことから、今でもその説が流布していますが、私はラモンの方に問題があって、そのようなことを書いたと考えています。

マンショの名誉のためにも、それはちゃんと書いて明らかにしておかないとダメだと思うんですけど・・・、ここで書きましょうか☆


ペドロ・ラモンの履歴と書簡


ペドロ・ラモンは1549年にスペインのサラゴサに生まれ、イエズス会士となり、1573年に司祭に叙せられました。1577年に長崎に着き、翌年からは豊後府内に駐在し、1580年臼杵に修練院が設けられると、そこの院長に任じられました。

しかし1586年12月、島津勢が豊後に侵入すると修練院は焼かれ、ラモンは山口に移らざるを得なくなりました。すると今度はバテレン追放令が発せられたので、平戸の生月島に赴くことに。そこで下に掲げるような書簡を、イエズス会総長宛てに書きました。読んでいただくとわかりますが、天正遣欧使節のことをけなす内容で、とりわけ伊東マンショの出自への攻撃が凄まじいです¹。

天正遣欧使節の少年たちは、日本にとっては単に非常に貧しく哀れな者に過ぎませぬのに、御地で彼らを日本の王侯などと称して待遇されたことを聞きますと、それこそ恥ずかしくて顔を覆うほどであり、当地(日本)では驚いております。

私はドン・マンショと称された少年をよく知っておりますが、彼は豊後国王の甥でもなく、なにかそういう縁の者でもなく、ただの親戚のまた親戚というにすぎませぬ。ただし、豊後の屋形フランシスコ(大友宗麟)の妹と日向の屋形が結婚したことは事実でございます。

そして日向国は滅亡し、マンショの父は殺され、母は逃げ出しましたので、豊後では、誰一人も、その親族の者さえ、まして豊後国王も彼らを意に介してはおりませんでした。その不幸な母は、生活するすべもないので、貴人でもなく、金持ちでもない一人の男と縁を結びましたが、それもしばらくその男と同棲し、後には片方か、または両方で飽いたわけでしょうか別れてしまいました。

それらは世人と豊後屋形の目の前でおこったことでございます。この見捨てられたマンショは、豊後では軽蔑されていて、教会では可哀想に思い、私が豊後の府内にいた時に迎え入れたのであります。彼は御地でシャツに相当するものを一枚身につけていただけでありましたので、私は着物を着させたのでございます。



結城了悟師の見解


日本二十六聖人記念館館長の結城了悟師は、この書簡を原文で読み、他の史料と突合せた上で「噓つきラモン」と評しています。ラモンは使節派遣に反対したが受け入れられず、マンショらの身分を疑わしいと讒言することで、この計画を立案実施したヴァリニャーノ神父を非難しようとしたとしています。

ラモンは1581年に長崎で行われた宣教師会議の時からヴァリニャーノの布教計画に反論しており、その6年後に実際に迫害が起こり、やはりヴァリニャーノの計画が間違っていたと確信したものと考えられます。しかもちょうどその時に島津勢によって臼杵の修練院が焼却され、逃げ出さなければならなかったので、精神的ショックも相当でした。

結城師は、書簡に表れている、事実の忘却や矛盾する内容の併記、針小棒大な訴えが、重なったショックによってラモンの精神状態が正常でなくなっていたことを示しているといっています。

一方、松田毅一氏は


一方、フロイスの「日本史」の完訳でも知られる松田毅一氏は、基本的にラモンの書簡に書かれたことをそのまま事実と考える立場を採っています²。しかし、それでも「彼はヴァリニャーノに対して何か反感を抱くようなことがあり、それがあのような報告を執筆する動機になったのではあるまいかと想像せざるを得ない」と述べています。

ラモンの書簡だけでは「マンショ流浪の孤児説」が正しいのかもしれないと考えられるかもしれませんが、秀吉のマンショに対する待遇を見ると、「流浪の孤児」ではなかったろうとわかります。一地方にいる宣教師(ラモンは日本語に堪能ではなかった)には入ってくる情報に限界があり、日本の習俗・しきたりにも十分な知見を有していませんでしたが、秀吉は伊東家とその周辺の情勢を詳しく把握していました。

十分に裏付けられた情報によって、秀吉はマンショを好意的に接するのが良いと考えたわけです。ラモンの書簡は使節一行がインドにいる時に書かれたので、ラモンは使節が秀吉からこれほどのもてなし受けるとは思わず、「日本に帰って来ても、あの少年たちの言うことなど、皆が無視するに違いない」と書いています。その「予言」が大きく外れたのは、ラモンの情勢認識が間違っていたという証左ですね。


世情を知らなかったラモン


国内情勢についてラモンはあまりよく知らなかったようです。まず日向国に伊東氏を復帰させたのは秀吉です。しかもラモンが「日向国は滅亡し」と総長に送った1587(天正15)年10月の3か月前、つまり1587年7月に、伊東氏は日向国に領地を回復しているのです。この時秀吉によって「本領御安堵」された祐兵は、マンショの叔父でキリシタン。

私が見てもラモン書簡は全体的に事実誤認が多くて、自分が保護を受けていた大友宗麟と伊東氏の婚姻関係を間違って認識(そんな勘違いする?という間違い)していて、高山氏は家格が高いが伊東氏は低いとか言っていて(逆ですね)、恨みがましい文体と相まって、ちょっと心配な人だなぁという感じ。

大体、マンショの父親が「殺され」たのは事実(国のために戦って死んだ)ですが、生活できないくらい貧しい境遇に陥ったために母親が子供を捨てて男に走り、その男とも飽きて別れた(ではどうやって生活を?という疑問が浮かぶ)とか、マンショは「豊後で軽蔑されている」とか書くのって、どうなんでしょうね。ショックで妄想が高じたにしても弁護できません。


「クワトロ・ラガッツィ」の若桑みどり氏は


学術的にも評価されベストセラーにもなった「クワトロ・ラガッツィ―天正遣欧使節と世界帝国」の著者 若桑みどり氏は、ラモンがマンショを流浪の孤児だと書いたのは「無知か悪意からである」としています。また侍臣として刀匠の国広を伴っていたとすれば、流浪の孤児というイメージからは遠くなる、と。

侍臣を伴って大友家に身を寄せていたとすれば、宗麟を訪ねてきたヴァリニャーノと知り合った可能性があり、そこから有馬のセミナリヨに行くようになったとも考えられると述べています。

そしてこんな書簡を書いたラモンの動機としては、元々ラモンは日本人を西洋人と対等と考えておらず、日本を教化すべきだと考えていた。しかしそれが1585年、使節たちがローマで王侯のように迎えられていると知り、驚きかつ憤慨したのであろうと。

それで「あれは王子ではない、乞食だ」と叫びたかったのではないかと推察しています。若桑氏の専門は、キリシタン史ではなく西洋美術史とジェンダー史ですが、より人の気持ちをうがった見解ではないかと思います



¹ 岡本良知ほか編訳「九州三侯遣欧使節行記 続編」(昭和24年) p62~70
² 松田毅一「天正遣欧使節」(1999年、講談社)p43。ただしマンショの身分については、「1580(天正8年)に、キリシタンの洗礼を受けて、「マンショ」という教名を授けられていた伊東修理亮の遺児こそは、新設されるセミナリオの生徒として、申し分のない条件を備えた子供であった。(中略)日向国主伊東義祐の外孫であり、伊東家は豊後の大友家と血縁関係にあった。」としている。


堀切峠


円南寺を辞して、海にぶつかった所から海岸線を南下。堀切峠で小休止して、景色を眺めました。ここは太平洋を一望できるビュースポット。

山桜の名所でもあるそうです。調子に乗ってポーズ取ってみました (^▽^;)


鬼の洗濯岩


眼下には、日南海岸の中でも指折りの”鬼の洗濯岩”が。

”鬼の洗濯岩”とは、波の浸食作用で断層の硬い層だけが残り洗濯板のように連続した突起になった岩のこと。

青島からいるか岬付近まで続いているそうです。宮崎ならではの景観を見られて感謝。マンショも見たことあったのかなぁ。



道の駅フェニックス


日南海岸を走る国道220号線(日本の道路100選の一つ)を行くと、道の駅フェニックス。

ここでも停車して写真を撮ったりしました。史跡めぐりだけでなく、宮崎観光もさせてもらっております。

同じ日本でも、同じ九州でも、いろんな海の色があるものですね。植生からも感じる南国の風。沖縄や奄美諸島も遠くないような気がしてきます。



アコウの木


しばらく道を行くと、ひときわ南国感あふれる木が道路に向かって腕を伸ばしていました。

国の天然記念物アコウの木だそうで、樹齢はなんと約300年。ガジュマルに似ていますね。

アコウの種子は鳥類によって運ばれ、木の枝上などで発芽して着生するのですが、成長すると気根で親樹を覆い尽くし、枯らしてしまうこともあるのだとか。

そのため別名の”絞め殺しの木”として、植物園で育てられているのを見たことがあります。でも野生のアコウは迫力が違いますね。生きようとするエネルギーがたぎっているような。



鵜戸神宮


続いて鵜戸神宮にも停まってくださいました。せっかくだからいろいろ見せてあげようと考えてくださっているようで、ありがとうございます。

解説板によると、鵜戸神宮の主祭神は日子波瀲武鵜葦草葦不合命(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)。長い名前で一遍で頭に入りませんね...。

第十代崇神天皇の御代に建立されたと伝えられ、その後恒武天皇の頃、天台宗の僧・光喜坊快久が、勅命により当山初代別当となり、神殿を再興し、同時に寺院を建立して「鵜戸山大権現吾平山仁王護国寺」となったのだそうです。



本殿


桜門をくぐると右手に見えてくるのは、海の青。本殿に向かう急な階段を下りながら景色を愛でます。

本殿は、太平洋に面した大きな洞窟の中に。ちょっと入っていくのを躊躇するような暗さです。

中は、主祭神の産殿址と伝えられる霊地ということで、プロ野球チームの必勝祈願が掲げられていました。そっか、宮崎はキャンプ地ですもんね。



奇岩!


先ほどの”鬼の洗濯岩”も壮観でしたが、こちらの奇岩もすごいです。

詳しく見ると、元々砂岩層の柔らかい部分と硬い層とが重なっていて、それが90度ひねって隆起したみたいですね。

そうして柔らかい部分だけが太平洋の荒波によって削られて、この奇観となったようです。まるで恐竜が何頭も集まって、太平洋に尻尾を投げだしているような(←例えが下手?w)。神様はその土地ごとに個性ある絶景を創られたんだなと感じます。



日南駅


日南駅のマンショ像にも連れて来てもらいました。これ見たかったです。地理に暗くて、どこのついでに寄れるものかわからずお願いもしてなかったんですけど。

こちらのマンショ像は坊主頭なんですかね? それとも丸刈り的な感じでしょうか。高校時代の野球部を思い出しました。

どの肖像画を元にしたんだろう? 「ウルバーノ・モンテ年代記」の挿絵で、マンショは帽子を右手に、王冠を左手に持っているから、これが近い(元にした?)と思うけど、顔の向きだけが反対ですね。確かに、振り返った感じがして、こっち向きの方がいい気がします。


Mancioについて


伊東マンショは1612年11月13日(慶長10年10月21日)に、43歳で長崎で病死したと教会側の記録に書かれているので、そこから逆算すると、生まれたのは1569(永禄12)年頃。上述したように日向国主 伊東義祐の外孫として、都於郡(とのこおり)城で生まれたと考えられています。

それからの波乱万丈の人生はおいおい辿るとして、洗礼名Mancioの由来だけ触れておきますと、これはポルトガルのエヴォラにいた古代の殉教者に由来するもの。後年マンショがそのエヴォラに行くとは、受洗した時には想像してもみなかったことでしょう。高校球児のようだと言ってごめんね、マンショ。



飫肥城跡 駐車場


では飫肥城跡へ。本日後半のメインです。案内してくださるのは、髙田先生がお願いしておいてくれた村川氏。

マンショを語る会、全国かくれキリシタン研究会のメンバーで、雑誌「マンショ」に「飫肥に残るキリシタン遺物」などの寄稿もしておられます。

駐車場で待ち合わせると、車には鎌や棒などの重装備が。えっ、今日ってそんな感じなんですか (゚Д゚;)?



飫肥城大手口


村川様が案内してくださるのは、飫肥城の豫章館(よしょうかん)に残る石造物から伊東家ゆかりの報恩寺、長持寺、大龍寺の墓域にある墓碑とのこと。

飫肥城は初めて来ましたが、大手門だけ見ても趣がありますね。駅のポスターになっていたのも頷けます。


豫章館


豫章館は大手門に向かう道筋の左手にあります。

元々、伊東主水(五百石)という人の屋敷地で、明治2年に藩主の伊東祐帰が藩知事に任じられて移ってきて、藩知事邸になったのだとか。今は公開され、庭園などを見学できるようになっています。

さて、こちらの建物の鬼瓦がまず見なければいけないポイントだそう。伊東家の家紋は庵木瓜だけれど、こちらのものは花クルスのようで、下部には二つのハート模様があるということです。最初わからなかったんですが、よく見るとありますね、ハート。鬼瓦の模様は長崎の教会跡でたくさん見た花クルス紋とは違うタイプで、ハートは猪の目にも見えます。



豫章館

鬼瓦

鬼瓦

豫章館

光の手水鉢


苔の美しい庭園に行くと、緑陰に手水鉢と灯籠が。

こちらの二つの石造物がキリシタン遺物だということです。

織部灯籠をキリシタン灯籠とし、光が差している手水鉢は、「光が神とキリストの象徴だから」キリシタン遺物だと解されているようです。光の手水鉢は確かに珍しいものだと思いますが、仏教的な意匠としても解釈できそうです。

庭園にはもう一基、織部灯籠があり、塔身に刻まれた像が宣教師の姿ではないかということで、こちらもキリシタン灯籠だとおっしゃっていました。

この形の灯籠をキリシタン灯籠だとする見解は、昭和20年代から西村貞、竹村覚、松田重雄と受け継がれ、全国かくれキリシタン研究会は松田重雄氏が発足させたものなので、その会員である村井氏や髙田先生がそれに則した見解をお持ちなのは理解しますが、これに関する論争は、私は松田毅一の「織部灯籠とキリシタン宗門」¹で終わったものと考えています。

すなわち織部灯籠はキリシタン遺物ではなく、「キリシタン灯籠」と呼ぶのは適切ではない(「キリシタン灯籠」というものは無い)という見解ですね。学術的にも概ねそう解されていると思います。だけれど様々な説があってしかるべきだと思うので、こちらでは自分の考えを一旦措いて、お話をうかがうことにいたします。


¹ 松田毅一「キリシタン研究 資料編・論攻編」(S50年、風間書房)p125


光の手水鉢

塔身に像が

灯籠の塔身

豫章館内の建物

飫肥城大手門


それでは大手門をくぐって城内へ。飫肥城は、いくつもの曲輪が連なる平山城で、別名舞鶴城。日本100名城の一つです。

この地に最初に城を築いたのは土持氏だと考えられていますが、島津氏を経て、1587年以降伊東氏が長く治め、明治に至りました。

飫肥藩の初代藩主は伊東祐兵(いとう・すけたけ)。秀吉の九州征伐のときに、黒田官兵衛の勧めで受洗したキリシタンです。



飫肥城

城内

狭間

城内

鬼瓦


こちらの建物の鬼瓦にもハート模様が。折しも今年のJALのキャンペーンが「ハートを探せ!」で、男性アイドルグループが古い町並みでハート模様を見つけるCMがテレビで流れています。

猪の目は古来、魔除けとして建物や石造物に刻まれてきたので、アイドルたちも町中でいくつも発見して「ハートを見ると幸せを感じる」と言っていました。



鬼瓦

家紋

鬼瓦

会所跡


城内を道なりに進んで左手に見えるこちらの場所が、昔の教会跡と推察されるとのこと。

その根拠は、城内に教会があったと考えられ、古地図でこの場所に「会所」と書かれているのでそうだったのではないかということです。


伊東氏とキリスト教


ここで少し伊東氏とキリスト教について振り返っておきましょう。伊東氏の人々のうちで最初にキリシタンになったのは、恐らく1587(天正15)年の伊東祐兵でしょう。その後、豊後落ちで1579~1580年に伊東氏が豊後(今の大分県。当時の国主は大友宗麟)に逃れた時に、臼杵や野津で伊東マンショら伊東家の主だった人々(伊東氏17代義賢、その弟祐勝、阿喜多夫人、マンショの母町の上)が受洗しています。

秀吉の九州征伐が終わり、領地を安堵された祐兵は初代飫肥藩主となり、この城に居城。イエズス会日本年報によると、1593(文禄2)年と1595(文禄4)年に一人の日本人イルマンが来て、一回目に50人、二回目に60人以上に洗礼を授けたという記録があります。この日本人イルマンを、結城了悟師は「名前がなく誰かは不明で、マンショとは言えない」としていますが、雑誌「マンショ」において高崎隆男氏は理由を挙げてマンショであると主張しています¹。

正確さを期すためにそれぞれの記録を引用しておきましょう。

「一人の日本人イルマンが伊東マンショの母を訪れた。そのとき殿は朝鮮にいたが、親族たち五十人が受洗した」(1593年の訪問)
「ペドロ・ゴメス神父から遣わされた一人の日本人イルマンは、伊東マンショの母とそこにいる他の信者を訪れるために日向に行った。そのとき家臣六十人以上が受洗した」(1595年の訪問)


高崎氏はこの「一人の日本人イルマン」が同一人物であるとし、そこからこの人物がマンショであると推論するのですが、文章からは同一人物であるとは確認できません。また「マンショの母」を訪れたと言っているのに、マンショであったなら「マンショ」と書かないのが不自然のように感じます。

「バテレン追放令が出ているので、あからさまに書けなかった」というかもしれませんが、日本年報やフロイスの「日本史」には、「秘かに受洗した」人まで書かれているんですよね。マンショについては、秀吉も会って好意的な申し出をしているので、どこを訪問したかを隠す必要はないように思います。特に母親に会いに行く目的であれば。

この日本人イルマンがマンショだったか否かはさておき、この時点で城下に教会はなく、受洗したのも藩主とその家族、家臣たちなので、洗礼を施したのは城内のどこかであろうと考えられます。教会として使われる場所もあったでしょうから、この会所跡がそうである可能性ありますよね。そんな大切な場所に来ることができて感謝です♪


¹ 雑誌マンショ2号(2008年、鉱脈社)p52


会所跡

会所跡

城内

城内

五百禩神社


では次は五百禩(いおし)神社へ。神社裏手の伊東家墓地にはなんとマンショの墓がある!ということで。

実はこれを聞いて私は飛び上がるほど驚きました。マンショは長崎で病死してイエズス会本部の墓地に葬られたので、その跡地である長崎県庁の地下に今も眠っているのかと思っていたんです。

それが故郷の宮崎に墓があるとは! 初耳だし、研究者もほとんど知らないのではないでしょうか。

マンショの墓に向かって走り出したくなる衝動を抑えて、まずは五百禩神社の解説をうかがいます。社殿の肘木(屋根を支える建築部材)に魚の彫刻があり「イクトゥス」だということです。確かに手前に魚、次に花、横木には波、木鼻に狛犬が彫られているようです。

しかし肘木や斗栱(ときょう)、木鼻に魚が彫刻されることは珍しくなく、火災が一番の脅威である木造建築物では、日本だけでなく中国や韓国でも見られるものですね。これだけではキリシタンと関係があるとは判断しにくいので、もっとお話を聞いていくことにしましょう。



社殿


灯籠


伊東家の墓所


こちらが伊東家の墓所。五百禩神社の所に昔は報恩寺というお寺があったそうで、それで裏手にあたるここに伊東家の廟所が設けられたということです。

村川様にいただいたご自作の資料(とても詳しく勉強になる!)には、「飫肥藩のキリシタン関係の記録は、宗門改め関係のものしか見つける事が出来なかった。従って外国の文献によって調査した」とあり、イエズス会日本年報に記載された事柄を挙げ、次章「キリシタン遺物について」で、以下のように述べています。

「飫肥にかくれキリシタンが居たという文書は残っていないが、前項の理由により飫肥藩には受洗した武士が居り、禁教後も密かに信仰を続けた人がいたと考えても不自然ではないだろう。こうした密かな信仰もいくつかの遺物の中に信徒であることを示すサイン(印)が表されている。これがキリシタン遺物である。」と。

その史観によって「キリシタンの印」とされた形象と「キリシタン遺物」とされた墓碑について、ここで教えていただくことができるようです。私的には「これがキリシタン遺物である。」と言い切れるとは思わないのですが、こちらの墓地でそう断言されるだけの根拠を示してもらえるのかもしれません。

以下、写真と共に「〇〇」と書きますが、教えていただいた内容であって、私の意見ではないことをご承知おきいただければと思います。



墓碑

戒名を囲む形が十字

龍や鳳凰はキリシタン

桐竹クルス

ハート模様

上部に卍

下部に棕櫚

町の上とマンショの墓


こちらの、向かって左にあるのがマンショの母町の上のお墓で、その隣の小さな墓がマンショのものだそうです。

写真では灯籠と挟まれた位置にある墓碑ですね。

刻まれている文字を読むと、「霞屋妙春禅定尼」・・・って、女性の戒名ではないですかね??
えーっと、私の勘違いだったのかもしれませんが、こちらが伊東マンショの墓だというのは一つの仮説のようですね。何らかの証拠で断定されているものと聞き違えていました。いえ、こちらでは証拠ありとされているのかもしれませんね。ではその論拠をお聞きしましょう。

雑誌「マンショ」2号、3号に、高崎氏による論考「伊東マンショの墓所について」が載っており、そちらにこの説の詳しい内容が書かれています。興味のある方は直接読んでいただければと思いますが、紙幅の都合上私が要約をしますと、下記のようになります。


  • 「霞屋妙春禅定尼」に該当する人物は、伊東家系図にも同家戒名録にも見当たらない⇒墓の主には系図や戒名録への掲載をはばかる事情があったのではないか。
  • 町の上の墓に寄り添っていることは、マンショの墓だと考えると明瞭に理解できる。
  • 歴代家老から伊東家執事のみに伝えられた極秘の口伝では、「信徒によって拾い上げられたマンショの遺骨は、町の上のもとに届けられ、町の上によって祀り続けられた後、その遺言によって町の上と一緒に葬られた」と伝えられている。
  • 隣の灯籠は偽装時代型キリシタン灯籠の可能性があり、この墓地とキリシタン信仰との関係をうかがわせる⇒この墓地にマンショが葬られているとの推定を支持する。
  • 戒名の「霞」は弾圧下の「假屋」の意を寓すると考えられ、「妙春」は父祐青の「青」から「妙青」(ミョウショウ)で音が「マンショ」に近いが、これでははっきりしてしまうので、同義の「妙春」と偽装したのではないか。
  • 「禅定尼」は、偽装のために町の上の付き人(女性)とし、それにふさわしい女性の号を用いたのではないか。
  • 万一の時は、町の上の娘虎松(マンショの姉)の墓と言い抜けられるよう、虎松の墓が消滅されている。


皆さんはどう思われるでしょうか。ちなみに、発掘したけれど地下からは何も出なかったそうです。それから町の上の墓の前にある墓碑も、上から見るとT字型のクルスで、蓮台の蓮は本当は聖書に出てくる棕櫚で、これもキリシタン遺物の印だとおっしゃっていました。墓域にはこれと似た文様が多く刻まれていて、中には棕櫚のようにも見える文様もありましたが、こちらに関しては蓮の花もあるようなので・・・どうでしょうね。



二つの墓碑

二つの墓碑と

町の上の墓

「霞屋妙春禅定尼」

灯籠

前にある墓碑

T字型クルス

蓮の花?

平部橋南の墓


こちらが平部嶠南(ひらべ・きょうなん)の墓。飫肥藩家老で、廃藩置県後に宮崎県の史料収集・整理に努め、「日向地誌」や「日向簒記」を著した人ですね。

墓域にある様々なキリシタン遺物のサインを指し示して教えてもらいました。そのまま受け取れない私の頭の固さはお許しください (;´Д`A ```

マンショの弟 勝左衛門の墓がありました。この人はれっきとしたキリシタンですね。墓碑上部に〇に囲まれた卍が刻まれていますが、これをもって全てこの形の墓碑をキリシタン墓碑と言うことはできないでしょう。



十字

〇に卍

マンショの弟勝左衛門

カセクルス紋

真ん中に十字

〇に卍

水入れと中に十字

蓮の花?

長持寺址墓地入口


それでは次は、飫肥城の北方にある長持寺址墓地へ。 長持寺は飫肥領伊東家三大寺の一つで寺禄100石を受けていましたが、1872(明治5)年に廃され、今は墓地だけが残っています。

なので(?)出入口もお宅の庭先みたいな感じ。花の植えられたプランターに目が行きますね。思わず「お邪魔します」と言ってしまいながら中へ。



長持寺址墓地


まず中央墓地に向かいます。真っ直ぐ行った突き当りにあるのが、伊東義賢と伊東祐勝の墓。2人ともキリシタンです。

伊東氏墓域に入る所には、伊東御三家の系図がありますね。義賢のことを伊東家18代としてありますが、17代の間違いだと村川様がおっしゃっていました。

一般的な系図の書き方ではないので、少し読み取りにくいですが、義賢・祐勝兄弟の母が、宗麟の姪 阿喜多夫人だということがわかります。



墓域

伊東御三家

系図

義賢・祐勝兄弟の墓


右側が伊東家17代当主で都於郡城主だった伊東義賢の墓。洗礼を受けてドン・バルトロメウと呼ばれました。

墓碑が後ろ向きなのが謎ですね。

左側にあるのが、その弟 祐勝の墓。洗礼名はジェロニモです。ジェロニモは安土のセミナリヨに入学して学んでいました。天正遣欧使節を選ぶ際、最初祐勝が候補に挙がったのですが、安土は遠くて長崎での出発に間に合わないということで、有馬のセミナリヨにいたマンショが選ばれたという経緯があります。

祐勝の左側には、御東(町の上の生母)、そのまた左側には阿喜多夫人の墓があります。だけれど祐勝の室はマンショの姉 虎松なのに、ここにも(どこにも)その墓が無く、それをもって高崎氏は先ほどの「霞屋妙春禅定尼」墓をマンショの墓とする説の根拠としているわけですね。

更にそれが不自然でないように工作するため、義賢室の墓も消滅させられたのだろうと推測しています。円南寺のマンショ像やこれらを「確証となる遺物史料」として挙げておられるようなんですが、どうなんでしょうね。もっと素直な受け取り方もあり得ると思うんですけど。


犬山城主成瀬家とキリシタン


墓域には成瀬家の墓もありました。初代飫肥城主祐兵の次女が、犬山城主成瀬正成の次男に嫁ぐなど、伊東家と姻戚関係にあるからですが、成瀬家もまたキリシタンと関係があるというお話をうかがいました。関係はあると思います。でも程度の問題があるかと。

村川氏作成資料中にある「尾張と美濃のキリシタン」を読んで、私も成瀬家とキリシタンのことを考えながら犬山をめぐったことがあるんですけど(旅行記「哀歌~タイムカプセルは今も囁く」 )、裏紋や位牌に十字があり、犬山城内に織部灯籠があるから城主がキリシタンだった可能性があるというのは頷けません。成瀬家の中に切腹を申し付かった人物がいても、それがキリシタンだったからとは言えないですし。

もちろん、いろんな説があるのは理解します。全くの想像ではなく、「この史料のこの部分を元にした」というものがある限り、考える余地は十分あります。ただどんな史料であっても、史料批判は必須ですよね。そこから確からしさが生まれ、「史実」として認められていくのですから。



阿喜多夫人の墓

祐勝ジェロニモ

ドン・バルトロメウ

兄弟の墓


ハートと雲

成瀬家の墓

棕櫚?

西部墓地へ


長持寺址墓地は横に長く広がっているので、今度は西武墓地へ。囲いの柵はあるけれど、その先は鬱蒼とした林。この先に墓地があることすら、入口からはわかりません。

なるほど、ここから鎌と棒が必要となるんですね。雑草をはらってくれる村上様の後をついて、蜘蛛の巣をよけながら進みます。



草木に覆われた

墓地への道

「空」の字

墓地到着


墓地に到着すると、そこまで草木に覆われている様子はなく、古い墓石がが整然と並んでいました。

こちらでも墓碑に刻まれたキリシタンのサインをいろいろとうかがいました。

「空」という文字の部首うかんむり(宀)の上に一があるのは、「空」=「天」、「一」=「神」なので、「天にいます神の心」だとか。

「タムム」に似た文字は、マンジと読み、卍と同じ意味だそう。つまりこちらではキリシタンのサインと解されています。「無」の上部が変形した文字もキリシタン関係だということです。浜崎先生のお見立てでしょうか。



聖杯?


こちらは「聖杯」だとおっしゃる意匠。天草陣中旗の聖杯と同じ形だと資料に書いてあるのですが、陣中旗の場合は聖杯の上にご聖体が浮かび、そこに十字架が描かれているという構図ですね。

こちらの意匠を、そのうちの聖杯と十字架の部分だけを組み合わせたものと捉えておられるのかと思います。

しかしミサで使う聖杯ならば、二つなのが?です。キリストの同じ血に与るという意味で、一つの杯からぶどう酒をいただき、回し飲みするのがミサの手順ですから。千利休がこれを茶の湯に採り入れて、回し飲みするようになったとされますが、やはり器は一つで、それをもって一座建立するわけです。

杯と十字架として捉えないで(「キリシタン遺物ではないか」と思って見ることをせず)、ただ形状だけ虚心坦懐に見るならば、口のすぼまった容器だから瓶などに見えそうです。「聖杯だとバレてはいけないから、わざとこのように偽装した」とおっしゃるかもしれませんね。



「無」

「タムム」

「空」

「空」の解説

大龍寺へ


次は大龍寺へ連れて来ていただきました。大龍寺のある中島田台地には、願成就寺と常楽院もあり、そこにもキリシタン関連物があるということで、一気に見学できるルート取りを考えてくださったようです。

たぶん正式な出入口ではない、民家の向かいにある小道から山へと入ります。台地なので登りもあり、草ぼうぼう、蜘蛛の巣も張り放題。

私も棒か何か持ってきたら良かったです。すみません、お世話になりっぱなしで。村上様が先頭に立って作ってくださる道を、迷子にならないようしっかりついていきます。



民家

大龍寺へ

草ぼうぼう

雑草をはらいながら

卍など


この小道から登ってきたのも理由があったようで、山中ながら草木に覆われた中には多くの石造物(ほとんどが墓碑)が。

その中でキリシタンのサインがあるものを示して教えてくださるのですが、こうやって見ていくと、ここにある墓碑の大半がキリシタン関連ということになりそうです。

そこでそのことを聞くと、「飫肥藩には多くのキリシタンがいたし、藩主も黙認していたのではないか」とのこと。イエズス会の記録で受洗者がいたことは確認できますが、キリシタンとなったのは藩主家族や家臣たちで、一般民衆に宣べ伝えられた記録はありません。

城下にこれほど多くのかくれキリシタンがいたとするなら、どのように宣べ伝えられたか、また教会や指導者について検討する必要があります。国内に司祭がいなかったことは確かだから、どのように信徒の組織が存在し、運営され得たかを説明できなければ、これらがキリシタン墓碑だと主張するのに少々ピースが足りないのではないでしょうか。

また藩主が一定のお目こぼしをすることで信徒が潜伏できたとするならば、こういった遺物のマーク以外にも、考古的発見があってもいいようにも思います。石造物に表れる意匠をキリシタンと関連付けるのであれば、その外堀も埋めて(古文書や発掘などからの挙証によって)、多くのキリシタンがいたことが証明されるよう期待します。




「点」は「天」


十字

笠が三角形

〇に十字



〇はマリヤ

棕櫚

ダイヤに三

棕櫚

山中の遺物たち


「あーあ、埋もれてしまって」と、草を刈りながら見せてくださる熱意に感謝しつつ、大変頭が下がる思いがします。

こうやって史跡や遺物が埋もれないようにしてくださる郷土史家さんたちがいるから、他の地域の者も情報をもらうことができるんですね。

浜崎先生が全国かくれキリシタン研究会のことを、「いやー、素人の集まりだよ」「素人ばかりだから・・・」とおっしゃっていたけれど、偉大な素人さんがいるもんだと思います。地元の歴史と史跡地を守る方々はいわばスーパー素人さん。私も素人だけど、スーパーが付くまでどのくらいかかるだろうかと遠い目になります。


景教との関わり 


どこに行っても、そこにいる方々が一番多くの情報をお持ちだと思うから、教えてもらい、できるだけ詳しくうかがおういうのが私の基本的なスタンスです。それを資料と照らし合わせてみて、疑問があれば根拠を示して書くこともあるし、自分の意見を持つことを放棄しているわけではないので、説明者と違う見解を持つこともありますけれど。

だけどここでちょっと書こうと思うことがあります。それは景教との関わりですね。こちらで説明をうかがっていると、「棕櫚は景教でも信徒の墓碑にあって、キリスト教徒のマークだから」とか「卍は景教徒の墓碑にも刻まれている。私も景教の本を読んで知っているんだ」とおっしゃって、景教でも用いられているのだから、棕櫚や卍はキリスト教徒の印なのだという論理展開をなさるんですね。

しかしこれについては僭越ながら思うところを書かせていただきます。今回私は景教研究会の講師として招かれて九州に来て、それで宮崎まで来ることになりました。研究と言えるほどの学びはしていませんが、一家言はあるものですから。

これが景教と関係なく、純粋にこの地域に関するキリシタン墓碑の研究ならば、学ばせてもらうことを中心にして、ここまで口出しすることはいたしません。あくまで景教に関してのみ、こう言っているのだなと理解していただけたらと思います。


景教は日本に伝来したか 


景教とは何かということは今旅行記の23に詳しく書いているので省略しますが、まず日本に伝わっていないということが大前提としてありますね(そのことも旅行記中に論拠を挙げて書いていますのでご確認ください)。なので景教のことをキリシタンたちが知っていて、(同じキリスト教だからと)その意匠を墓碑に刻んだということは有り得ないのです。

よしんば伝わっていたのだとしても、宣教師も関知せず、他の記録や文献にも一切出てこない景教の情報を、キリシタン信徒たちだけが知悉していて、自分たちの墓碑に反映したということは可能性としてゼロです。

「古代日本に景教が伝わっていた」とか「日ユ同祖論」とかは近代の人たちが言い出したことで、安土桃山時代や江戸時代には誰もそんな説を唱えていませんでした。墓碑に刻まれた意匠を根拠に、景教とキリシタンを結びつけることは適当ではないと思います。


景教において棕櫚は 


また景教碑・景教徒の墓碑に関する情報にも勘違いがあるようです。まずこちらで棕櫚だとされている文様ですが、景教博士こと佐伯好郎は「蓮台」としています¹。有名な「大秦景教流行中国碑」中に見られるこの文様については、「浮雲の下には仏教特色の蓮台を彫刻せり」と、著書で述べています²。

内モンゴルのフフホトで何基もの景教墓碑を視認した桑野淳一は、「景教の意匠が全くの十字架によるものから、時代が下るにつれて仏教の影響を暗示する蓮弁模様、更にイスラムの影響による火灯窓などの文様が嵌め込まれてくるようになる。」と、蓮だとした上で、時代と共に文様に変化が生じ、その過程で蓮が加わったといっています³。

景教研究会を主宰する川口一彦牧師は「景教碑の十字の下には、左右三枚のナツメヤシの葉と中央には果実、十字の上には火炎、下の雲は神の臨在を示します。」と、蓮説を否定しています⁴。ナツメヤシだと考えると棕櫚にも近くなりますね。


様々な説がある状態 


しかしこの文様に関しては、メノラー(menorah。七枝の燭台)だという人もいて、蓮と解する人の中には、「仏教の象徴である蓮台の上に十字架を置くことでキリスト教の優位性を示している」と主張する人もいます。つまりこの文様が何を示しているか定説に至っているとは言えない状態だと私は考えています。

だから景教徒が、何だと考えて、どんな理由で刻んだのか今もってわからない文様を、「キリシタンが景教徒の用いた棕櫚だと思って刻んだ」というのは、とても論理的に飛躍しているわけです。

ちなみに、村上様の資料に「古代中国景教遺跡出土の墓石図柄(カトリック大事典)」として載っているものは、福建省泉州で1619年に発見された墓碑のようです。発見された地域から考えて元代のものでしょうから、最近の研究では「景教」とは呼ばない時代のものになるかと思います。


では卍はどうか? 


では卍はどうかということですが、村上様が共著という形で雑誌「マンショ」2号に書かれている「卍は、日本では、寺院など仏教で使われているが、世界各地でも使われており(中略)、中国などでも使われている。」という内容に全面的に賛成です。

だけれどその後に司東真雄「奥羽古キリシタン探訪」から抜粋したとして、「中国の景教遺跡に多数の卍が使用されており(中略)、卍を使った墓石はキリシタン墓が多い」という文章を挙げ、これを根拠にして卍をキリシタンの印と判断しているのは疑問です。元となった司東氏の見解に甚だしい誤謬があり、到底看過することができないからです。

正確さを期すため、司東氏の本から改めて引用しますね⁵。
さて、仏教でもビルマの仏跡の中や、現図マンダラにも逆卍字あるいは卍字がみられ、必ずしもキリシタンマークとはいえない。古代ユダヤ教では「フッイルフット」といって、ユダヤ人の宗教のうち神秘学派の標号とした。中国が唐といった時代、唐国でさかんになった宗教に景教というのがある。実はキリスト教であって日本へは太秦氏が伝え京都太秦に太秦寺を建てた。日本で初めてのキリストの寺であったという。この頃の唐国景教遺跡から卍字記号章がおよそ八百発見されているという。日本では自然消滅であったらしい。

これを読むと、「卍を使った墓石はキリシタン墓が多い」とは書かれていないようです。ただしこれに先立つ墓碑銘の研究箇所で、氏が調査し戒名からキリシタン墓だと判断した墓碑の多くに卍があると書かれています。

要するに、氏がキリシタンだと考えた墓碑に卍があるから、卍をキリシタンマークだと判断するようになったということではないかと思われます。元々はキリシタンマークではなかったと書いているにも関わらず、いつの間にか「卍を使った墓石はキリシタン墓が多い」という誤解にすり替わってしまったようです。

またいちいち否定するほどでもない間違いですが、景教を太秦氏(秦氏と言いたかったのでしょうね)が伝えて、最初のキリスト教寺院が太秦寺だといっています。当時のトンデモ本でも読んだのか、伝聞ながら、まるで確認された史実のように書いていて問題です。この記述だけ見ても、史料批判はもとより、自分で資料を調べて確かめることもしていないとわかります。


景教遺跡から卍字墓石? 


しかし一番の問題は、「この頃の唐国景教遺跡から卍字記号章がおよそ八百発見されているという」と書いてしまっていることです。伝聞調ですが、本に書いたら引用され拡散されたりします。これを本当だと信じたら、卍がキリスト教のマークだと考えてしまっても致し方ありません。

では確認してみましょう。まず八百基も発見されているんだとしたら、およそ全ての景教墓碑に卍があることになりますが、それはありません。私が知っている範囲では卍が刻まれている墓碑を見たことがないのです。だから少なくとも「八百発見されている」は間違いです。では司東氏は何をそう勘違いしたのか?ですが、そのヒントは「八百」です。

まるで中国全土で何百何千もの景教墓が判明しているみたいな書き方ですが、中国からシルクロード諸国まで範囲を広げてみても、景教遺跡は数えるほどしかなく、墓石はたとえ1基であっても大きな発見です。百を超える墓碑が見つかっている地域は一ヶ所だけで、それは現在のキルギスにある遺跡です。


卍の記された景教墓碑などない 


現在まで発掘が続いているので数はこれより多いと考えられますが、佐伯好郎が本を著した時点(昭和初期)で約六百基見つかっています⁶。これにその他の地域を全部合わせると八百に近づくことは近づきます。この本には、線刻が鮮明で文様が読み取れる墓碑108基の写真が載せられていますが、その中に卍字はありません。すなわち卍字が景教墓石に使用されていたという事実は確認できないということです。

司東氏の文章から推察するに、氏自身はそのような(卍字入りの景教徒の)墓石を一切見たことがないようあり、また「日本では自然消滅であったらしい」としています。第一にそのような墓碑は確認されておらず、第二に景教は「自然消滅」したというのですから、景教がキリシタン時代に影響を及ぼしたという説は二重に否定できます。

こんな自己矛盾した本が引用され、卍がキリシタンマークだと誤認され流布されてしまったのは由々しきことであり、悲劇です。


¹ 佐伯好郎「支那基督教の研究1」p494
² 佐伯好郎「景教碑文研究」p26
³ 桑野淳一「中国、景教の故地を歩く」(2014年、彩流社) p99
⁴ 川口一彦「景教のたどった道~東回りのキリスト教」(2005年、キリスト新聞社)p132
⁵ 司東真雄「奥羽古キリシタン探訪」p152
⁶ 佐伯好郎「支那基督教の研究1」p529


願成就寺


この辺りはいくつかの寺とその墓地が連なって存在しているようで、願成就寺は小道を曲がるとすぐ。

願成就寺は初代藩主祐兵の頃、勢誨という僧が開基した寺で、領内三大寺の一つでした。

境内に40余りの石造物があり、その中に数基、キリシタン遺物と考えられるものがあるのだとか。是非見せていただきたいです。



石造物群


こちらがその石造物群。下のサムネイル画像を参照していただきたいですが、一番左の観音像が、ガウンを着た外国人のようで、頭に棕櫚の冠を被っているのだそうです。

次の石像は、A(アルファ)の文字で、聖書の「アルファでありオメガである」という言葉を表しているのだとか。

その右の、三角形の地蔵尊は、三位一体を表す石像だとおっしゃっていました。



ガウンを着た外国人

A(アルファ)の文字

三位一体を表す

常楽院


また少し行くと常楽院に出ます。常楽院は江戸時代に創建された長久寺という寺の跡に建てられた寺院。長久寺が廃寺となった所に、戦後鹿児島市から常楽院が移ってきたのだとか。

境内の八十八寺参りを祈願した石造物の中にキリシタン信仰と関係があるものがあるそうです。

サムネイル画像の一番左の地蔵尊は、右手に十字の錫杖を持ち、左肩には十字のようなものが見えます。次の写真には、上部に太陽と月が。刻まれている松の木も「キリスト(父)」を表すそうです。

その右に上げた写真では、右手に十字架、左手の錫杖の先端がIHの形をしており、正(まさしく)しく「キリシタン仏」だということです。配布資料によると「IHSはイエズス会の紋章である」と書かれています。

少しだけ細かいことを言いますと、IHSはラテン語の”Iesus Homunium Salvator”(人類の救主イエズス)の頭文字を採ったもので、イエズス会以外も使っています。イエズス会の紋章は、IHSのHに重なるように十字架、下部に三本釘を配したデザインですね。


十字、クロスについて


十字入りの錫杖を持った石像は、ご存知ないということはないと思いますが、日本全国様々な場所で、キリシタンがいたか否か関わらず存在します。中にはキリスト教伝来以前に造られたものもあり、これによってキリシタン遺物だとすることは不可能かと思います。

そもそも十字模様はとても単純でポピュラーなもので、島津家の家紋も丸に十字ですし、キリスト教を禁じた徳川家康の霊廟前にある灯籠の火袋周辺にも十字模様が刻まれています。これを寄進したのはキリシタンを弾圧した家光。徳川家墓所にも所謂アンドレアクルス(×)が多く見られ、「それらをアンドレア十字などと呼べるわけがない」と松田毅一は言っています¹。

こちらではそういったことをよくご存知の上で、キリシタンがそれを利用して信仰を仮託したと解しておられるのかもしれません。


¹ 松田毅一「キリシタン研究 資料編・論攻編」(S50年、風間書房)p86


十字の錫杖

太陽と月

錫杖の先端がIH

常楽院

大龍寺墓地


大龍寺墓地へやって参りました。とても広くて見晴らしがいいですね。大龍寺は報恩寺の末寺として1018(寛仁2)年頃創建され、明治5年に廃寺になりました。

こちらには(東京の)霊南坂の名前の由来となった嶺南和尚とその母親の墓もあるそう。

墓域には卍のある墓碑が29基、棕櫚の刻まれた墓碑が35基あるそうで、その他キリシタンと関係があるという、いちじく紋、ダイヤ、観音像などを見せていただきました。

墓地には人の手が入っていますが、それでも無縁仏の墓碑が増えていっているようで、片隅に大量に積まれていました。中には、いちじく紋やタン(ウハッキュウとも)の刻まれたものもあり、村上様が「あれれ、こんなふうにしてしまって・・・」と嘆いておられました。

石造物の劣化と保存に対する懸念は、全国的なものですね。



十字

ダイヤ

積まれている

観音像

いちじく紋

タン

棕櫚

上から見ると十字

堀川運河と夢見橋


帰り道、髙田先生に和食レストランに連れて行っていただきました。

店の前には堀川運河。美味しい食事と一緒に、この運河を見せてあげようと、店を決めてくださったようです。最後まで感謝です。

堀川の開削を指示したのは、飫肥藩五代藩主祐実で、1683(天和3)年から始めて3年という短期間で完成させたとか。

初代祐兵のときの石高が4万5百石だったにも関わらず、その後9年で5万7千石にまで急速に伸び、運河の掘削や飫肥城の改築を成すだけの財政的余裕を生み出した背景には、マンショの侍臣だった刀工・国広の働きが貢献したのではないかということでした。まだまだ解明途中の秘史がありそうですね☆



堀川運河

架けられた橋

夢見橋



人から受けるもの、神様から受けるもの


私は人から何か受けたり、してもらったりしたことも、神様から受けたもののように感じます。だからくれたその人にも感謝して、神様にも感謝。そしてもう一つ必ずすることは、「神様がこの人を通してくださって、とても有難く思うので、どうかこの人を祝福してください」と祈ること。

これをすると、自分では恩を返せないことを、代わりに神様がその人にしてくれるように思えて、ホッとするのです。気休めかもしれないけれど。

髙田先生がおっしゃっていたのは、私が受けたものを、また他の人にしていけばいいということでした。そういうリレーが研究の世界にもあるから、深められていくものがあるのでしょう。

初めて来た宮崎ですが、受けるものが多くて申し訳なく感じるほどです。人にも神様にも感謝しつつ、自分だけで終わらせないようにしていかなければなりませんね(╹◡╹)





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