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キリシタンのあしあとを求めて各地を旅してめぐります♪

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 蒼き切支丹回廊 5



天草エアラインが、乗務員の訓練のために終日運休になると連絡してきたのが一昨日の夜。「訓練をそんなに急に!?」と思ったけれど、電話口で相手にすがりついても無駄だと思ったので、諦めて返金してもらうことに。

でもそこからが大変でした。天草への移動手段は高速バスしかないから、福岡の宿をキャンセルして急遽熊本の方で探して予約。バスの時間を調べて、空港まで迎えに来て下さる方に連絡して、バス停に来てもらうようにして・・・。




宿のディスプレイ


もう、ほんと天草エアラインったら!!!

と胸中で叫びながら、熊本市内の宿に着いたのは夜9時半。へとへとでした。ゲストハウスだけど個室が取れて良かったです。女性限定で、おまけにオシャレ。ちゃんと寝られたんだから感謝ですね。



熊本市内を


でもやっぱり全て天草エアラインが・・・と、心の中でぶつぶつ言いながら高速バスが発着する交通センターへ。あさイチに乗れば天草に9時頃着きます。

途中郵便局の前を通りましたが、後で教えてもらったところによると、この敷地後方が昔は牢で、小笠原玄也一家が入れられていたのだそう。ぶつくさ言ってると、いいものを見逃しますね。心を入れ替えてっと(←と言いつつ、なかなかできない (~_~;)




来たよー!天草


海~


来ました、天草。夢にまで見た青い海!

さて天草と言えばアルメイダですね!(いきなり?w

1569年のルイス・デ・アルメイダ(この時はまだ修道士)の書簡にはこうあります¹。

コスメ・デ・トルレス師は私を志岐の島に派遣し、同島では若干の人がキリシタンになった。この島には志岐の領主より三倍も有力な他の領主がおり、説教を聴くことを切望したので、コスメ・デ・トルレス師は私を同地に遣わした。志岐にはミゲル・ヴァス修道士が留まり、三百名をキリシタンにした。
この後アルメイダの快進撃が続いていくのですが、困難がなかったわけではありませんでした。しかし注目したいのは、仏僧などによる迫害が起こった時に、イエズス会ではチームで問題解決にあたったということ。トルレス神父に相談したり、豊後国主(大友宗麟)に書状を書いてもらい、それで事を収めたりしています。

事実しか書いてないようであっても、資料は様々なことを教えてくれます。現代に縛られた自分の想像力を働かせる前に、できるだけ資料に接して、書かれたことを土台に推測していきたいと思います☆


¹ 松田毅一監訳「十六・七世紀イエズス会日本報告集」第Ⅲ期3巻(同朋舎、1997年) 1569年10月22日付、ルイス・デ・アルメイダ修道士が日田より、ニセヤの司教ドン・ベルショール・カルネイロに宛てた書簡


「かくれキリシタンー信仰の証」

浜崎献作先生


バス停で出迎えてくださったのは、キリシタン研究家の浜崎献作先生。つい最近まで全国かくれキリシタン研究会会長をやっておられ、この世界では知らぬ者はいません。

そんな浜崎先生にガイドを(しかもマンツーマンで)してもらえるようになったのは、景教研究会の方でお会いした現・全国かくれキリシタン研究会会長 安東邦昭先生のおかげ。

安東先生の積極的かつ最善の「推し」のおかげで、天草では浜崎先生、後で訪れる宮崎では髙田重孝先生という、斯界きっての重鎮にご案内いただけることになりました。現場に行ってから回る手段を考えようと思っていた私にとっては、天の助けとしか思えない展開です。ほんとに感謝です (∩´∀`)∩ワーイ



ぺーが墓への道


挨拶もそこそこに本題の天草キリシタンの話に入り(いきなり...w)、新しい知見も与えてもらい大興奮。

ぺーが墓への道では、浜崎先生が今度出す本の内容を教えてくださいました。それは潜伏キリシタンの実像に関して、彼らの信仰を「異宗」だとするもの。

また「伝承キリシタン」という言い方を、私は初めて聞きましたが、これも重要単語。キリシタン時代に伝えられたキリスト教が、禁教下で日本の宗教(特に修験道と)混成習合して、キリスト教的民俗宗教となったものを、「伝承キリシタン」と呼ぶようです(浜崎先生の造語?)。

図式化するなら、
伝承キリシタン=「心得違いの者」=異宗の者となりましょうか。

このような考え方をする研究者は、宮崎賢太郎氏など他にもいらっしゃいますが、天草の潜伏キリシタンの家に伝わるオラショを元にそれを立証しているのが、浜崎先生の特徴。宮崎賢太郎氏は「バスチャン暦」や「信徒発見書簡」をプチジャン神父の自作自演ではないかという論考をされていますが¹、浜崎先生も賛同しているようです。

あの感動的な物事が自作自演と言われると、足下が崩れ落ちる思いがしますが、まずは耳を傾けてみましょうかね。浜崎先生は「天草崩れ」の史料「大江吟味日記」を精査して、自作自演の可能性を「有り」としています。会って半時間も経たないのにこんな衝撃的な話になって、なんだか今日は脳みそをシェイクされる一日になりそうです。。


¹ 宮崎賢太郎「潜伏キリシタンは何を信仰していたのか」(株式会社KADOKAWA、2018年)


ぺーが墓


山林の小径をしばらく進んで、ぺーが墓に到着。ここ来たかったので感激です。

天草市のサイトには↓のように書かれています。

天草市五和町には、約1,000基のキリシタン墓碑が確認されていますが、このペーが墓は、独立した墓所としてほぼ造営当時の原形をとどめています。「ペー」とは洗礼名の一部であろうと言われていましたが、古いスペイン語などで神父の事を指す「パーテル」などの意味とも考えられ、詳しくはわかっていません。中央墓石には、算用数字18と読み取ることができ、12基の墓碑のうち、表面に十字を刻んだものもあります。しかし、墓所が造られた明確な時期などはいまだ明らかになっていません。



墓群


由布院や下赤嶺で見たのは、墓碑が集められた墓碑群でしたが、こちらは造営当時のままだというので、墓の群ですね。

つまりこの墓石の下に遺体などがあるということです。

そう思うと歩き回るのも憚られるのですが、ここは失礼して、しっかり墓群の中に入って行って写真を撮らせてもらいます。今は市指定の文化財だけれど、今後もっと高次元の(?)文化財指定を受けたら、自由に近付けなくなるかもしれないですから。

《追記》
2019年4月長崎新聞に「天草の複数墓地 潜伏キリシタン墓碑と確認」との記事が掲載されました。ぺーが墓など、旧志岐領の27カ所で合計600基のキリシタン墓碑が確認されたという内容です。


現地解説板

ぺーが墓

ぺーが墓

ぺーが墓

キリシタン墓碑


確かに十字架が。真ん中ではなく端の方に寄せて、斜めに刻まれています。

全ての石に十字があるわけでなく、堂々とも刻まれていないことを見ると、潜伏期のものでしょう。

だけどその割には、よくぞ造営時のまま残されたましたね。サンクチュアリのような雰囲気も漂う山林の中に。この墓碑の持ち主たちは、特に尊敬された人たちだったのかもしれません。浜崎先生は「ここは宣教師墓地だったんじゃないかと思う」とおっしゃっていました。

・・・ということは!トルレス神父の眠っている所に行きたいと言っていた数年前の願いが叶っているのではありませんかっ(九州のキリシタン・ロードをゆくⅢ)。あの時訪れたサンタマリア館(この度惜しくも閉館に)の館長さんだった浜崎先生にガイドしてもらって、今ここに立っていることが願いの成就なのかも。宣教師墓地だったならアルメイダもいるかもしれませんよね、ここに。

恐る恐る、その二人が眠っている可能性ありますかと聞いてみたら、「(あっさり)そうだと思うよ」とのこと。えー!? いいの?そんなすごい所踏んでて。足下が崩れそうだったのが、今度は飛び上がりそうになりました。ゴチになります(←何となくそう言いたい)。今日は超絶ラッキーデーかもしれない。



あちらにもキリシタン墓碑が


少し移動して、「あちらにもキリシタン墓碑があるんだけどねぇ」と、車から降りた浜崎先生が指差したのは、さっきのような山林。

目的地はそこではなくて、この細い道路の方にあるみたいですが、、どこにでもある普通の・・・田舎の(ごめん)集落です。

こんな何の変哲もない所に貴重なキリシタンの史跡・遺物があるから、天草恐るべしです。まるでいい意味での抜き打ちテスト♪(?)



浦園穴観音


農作業している方に声をかけて、民家の脇の小径を進むと、道路から見た時には想像もしなかった光景が。

ぽっかりと開いた洞窟の、中にも外にも観音像と思しき石造物。洞窟の上部からは光が差していて、神々しいというか。

いや、だけど、独特の「こっちに来るな」オーラも放っていて、清くない者が近寄ったら災いが起こりそう――。それにしても、ここがキリシタン史跡地であるとは如何なる理由でそうなるんでしょう?神秘を感じると共に疑問符も浮かびます。よく話を聞いてみなきゃですね。



上部は崩落している


「すみません、危ないんで、中には入らないようにしてもらえますか?外からなら自由に見てもらっていいんですけど、上が崩れてるんでね、中に入っている時に何か起こるとどうしようもないんで」

さっき挨拶をした、ここの所有者の方が言いに来てくれました。外から少し窺ってみると、かなり大きな穴が開いています。

空が見えて、光が差している様子も素敵なんですが、この穴は後からできたもの。しかもどんどん大きくなっているそうで、そのため中の石造物も風化が進んでしまっているとか。神秘的とか言ってないで、安全策と保存策を考えないといけない状態ですね。心配して教えてくださってありがとうございます<(_ _)>



「大」の字


こちらの浦園穴観音を、浜崎先生はキリシタン洞窟とおっしゃっているのですが、その理由は岩に刻まれた「大」の文字。

これが「ダイウス」で、デウス(神)を表すということです。他にも丸に点が入っている模様と、「吉」の字が見えます。

浜崎先生はこのようなキリシタン図象を研究してらっしゃり、著書「かくれキリシタンー信仰の証」で解説しています。

ここは学ぶ場ですので、私見は差し控えますね。しっかり見て吸収して帰ろうと思います。



所有者の家


その土地の所有者の方の家に寄り、少しお話を伺いました。やはり以前は穴は無く、穴がどんどん大きくなって崩落の恐れが高くなっているとのこと。

市かどこかに言って、対策を講じなければということでした。キリシタンかどうかは措くとしても文化財ですからね。

保護の対象になるでしょうし、見学者がケガをしないようにしなければと思います。


天草の注連縄


その家の玄関に注連縄が飾ってあったので、「天草では、キリシタンではないとの証のために年中注連縄を付けているんですよね」と浜崎先生に言ったら、「最近はそうでないと言われているんだよ」と。私はNHKの「鶴瓶の家族に乾杯!」でそう言ってるのを聞いて、そのデマ(デマならば、ですが)流してたんですけどね汗。

でも確かに、天草出身の子に言った時は「はぁ?そんな話聞いたことないですけど」って、驚いてました。外部の人がそう言っているのを聞いて、地元の人たちが「え、そんなことないでしょ」と言っている状態なんでしょうか。キリシタンが話題になることで、事実ではない話が広がる危険性もあるので、間違った話なら適切に訂正されるような仕組みが必要かもしれません。

例えば長崎のキリシタン関係で、恐ろしく間違ったことや偏った意見を発信したら、カトリック教会から抗議を受けそうですが、他の県はどうでしょう?

「それをきっかけにしてキリスト教に興味を持ってくれたらいい」と、明らかに間違いで、殉教者を貶めるような内容であっても看過している所もあります。穴の崩落同様、対策を講じた方がいいと思うんですよね。そりゃ何でも抗議しちゃ自由度がなくなって困りますけど (>_<)



注連縄

千人塚


「あなた、来たことあるだろうけど、ここも一応寄っておこう」と車を停めてくださったのが、富岡吉利支丹供養碑。

島原天草一揆で武器を持って戦った者たち一万余のうち、三分の一にあたる3333人分の首級が埋められている場所で、「千人塚」「首塚」とも呼ばれています。

前回来た時の旅行記に「鬼理志丹」となっていることなどを述べたので、もう碑文については書きませんが、ここで浜崎先生との和話題になった、一般に「ウハッキュウ」と読むことが多いマーク(漢字の組み合わせ)について書いておこうと思います。このマークが丸に囲まれて、この供養碑の上部に刻まれているからです。


「ウハッキュウ」とキリシタン


「ウハッキュウ」は「八臼鳥」の三字が一文字になったもので、髄求陀羅尼経にも出てくる文字。正式な読み方は、浜崎先生によると「タン」だとか。古いお経に出てくるくらいなので、元々は仏教のお墓などに見られるものなのですが、これが初めてキリシタンと関係するものに刻まれたのが、この富岡吉利支丹供養碑だといわれています。

浜崎先生は「この図象を隠れキリシタンが墓に刻むようになった」として、このマークがあるものを(少なくとも禁教下のものは)キリシタン墓だとする説を採っておられます。多くの研究者は、このマークをキリシタンと関係ないとしていて、私も東海道の川崎宿など関東のメジャーな墓地でこのマークを見かけているので、これを以ってキリシタン墓とは考えない立場です。


「タン」だけで判断するのではなく


だけど何事も、お話をちゃんとうかがわなければ、自分の考えに埋もれてしまいます。せっかくの機会なので詳しく説の根拠をお聞きしました。この先志岐から崎津までの長い道中、運転しながら道々で説明してくださったのは、「タン」のマークとキリシタン戒名との話。また九州を中心としたフィールドワークで、キリシタン関連地にこのマークやカタカナの「タムム」に似たマーク、浜崎先生がキリシタンと関係があるとする「卍」「棕櫚」「一」「〇」がしばしば見られることから、関連性が浮かび上がるとのことでした。

また仏教の方では、キリシタン関係に「タン」が使われて以降、仏教徒はこれを避けるようになっていったのだとおっしゃっていました。それでいて元々は仏教のマークだったので、隠れキリシタンとしては偽装に使いやすかったのだという説明でした。

図象として判断する際も、単に「タン」があるからキリシタン墓だとするのではなく、戒名やその他のマーク、そこに実際キリシタン(先祖を含む)がいたかなどを併せ見て判断しておられるということがわかり、言わんとするところは理解できました。素人にもわかるよう丁寧に説明してくださって感謝です。



首塚

解説板

富岡吉利支丹供養碑

冬切!?


天草は行くべき所が多いので、志岐城は行ったことが大丈夫ですと言ったのですが、「あ、でも冬切ってどこですか?そこは行ってみたいんですけど」と言ったら、「ここだよ~」と。ちょうどその時通っていた辺りでした。

慌てて車中から撮ったので、写真はイマイチですが、この道の先、突き当たった所が冬切だそう。

原城に向かって海を渡って行かなかった者76人が斬首された場所ですね。そのうち17人が15歳未満の子供だったとか。山中に隠れるなどしているのを捕らえられ、牢に入れられ、牢中で転ばなかった者が、一揆制圧後に処刑されました。


殉教者と考えることはできるか?


幼老病者女性など、理由があって「渡って行けなかった」者もいれば、一揆に賛同しなくて「渡って行かなかった」者もいるでしょうね。その中で信仰のゆえに「渡って行かなかった」人たちがいて、棄教しなくて処刑されたのなら、殉教者である可能性が出てくるかと思います。

島原天草一揆の参加者は、武器を持って戦ったのだから殉教者とは認められませんが、武器を持たない選択をしたキリシタンがいたなら、信仰の証をした殉教者と呼ぶことができるのかもしれません。

またこの時の、役人による取り調べの記録が残っているそうなので、それを調べたら、同じ天草の民であっても、一揆に加わった者、加わらなかった者がいて、加わらなかったのはどこの村の者だったかがわかりそうですね。

大江や崎津、今富の者たちは、一揆に加わらなかったという話を聞いたことがある(最新の研究かどうかわからない)けれど、その辺りのことがもっと解明されていけば、一揆の実像のみならず、キリシタンたちの信仰の有様にも触れられそうな気がします。次来る時までには調べることにしましょう!(と、今は思っているが果たして...(^^;)



天草中央キリスト教会


浜崎先生が次に車を停めたのは天草中央キリスト教会の前。「ここの牧師さんも、キリシタンのことをよく調べておられるよ」と言っておられたので、「そうですよね、ここの牧師先生が書いた本持ってます。浜崎先生のサンタマリア館で買いました」と言ったら、驚いてらっしゃいました。

私は電話口でサンタマリア館に行ったことがあると言ったつもりだったんですが、よく伝わってなかったようです。「あれ、来たことあったんだね」という感じでした。浜崎先生は、ご尊父の代からキリシタン遺物を集め研究してらして、サンタマリア館を運営されてきたのですが、跡を継ぐ人がなく、また維持費も相当かかるためこの度閉館することになったと聞きます。


サンタマリア館から新たなステージへ


ご尊父の代からのクリニックはご子息が継いで、そちらは問題ないそうですが、キリシタンの方はそうはいかなかったようですね。サンタマリア館の遺物を見学して思ったのは、「これだけの物を集めるのは、いくら財力があったとしても、人望がなければ難しかっただろうな」ということ。医業で島の人々を助ける傍ら集められたので、その信用で譲ってくださった方々もいるだろうと思われました。

誰でも先祖の物だと思うと手放し難く思うもので、先祖が信仰していたとなれば格別です。この人に委ねれば、一番いいようにしてくれると思えばこそ、譲ってもくれるのだろうと思うからです。だから地元の名士であり、研究者でもある人がいたということは、天草にとって大きなアドバンテージだったのでしょう。

今後はまた、新しい帰属先に移行されることによって、よりアカデミックな研究が進められていきそうですね。世界遺産登録を機に、ステージが引き上げられたと言えるのではないでしょうか。そんな気がします♪



富岡処刑場跡


車を停めて向かったのは、菜の花の咲く小道。のどかな気持ちで付いていくと、富岡処刑場の供養碑がありました。

ここも来たかった所です!来たかったけれど、案内板みたいなものがなくて(見落として?)たどり着けなかったので。

禁教時代、キリシタンを処刑した場所ですね。1603(慶長8)年、唐津城主寺沢広高の所領となって富岡に番代が置かれ、ここに刑場が設けられたのが最初で、江戸期もずっと刑場として使われていたようです。だからキリシタンだけでなく、一般の罪人も処刑されました。



供養碑


学校か寮の横手にあって、一見普通の空き地のようですが、私の背丈よりも高い石碑が二基建てられ、一つの碑の前には十字架も建てられています。

その碑には「吉利支丹仕置場址」と書かれています。富岡の首塚と違い、こちらは「吉」。たった一文字ですが、こちらの方が供養碑にふさわしい文字選びですね。

春らしい風景の中に、誰かの思いでも乗せたかのように蝶が舞っています。



天草灘


考えの浅い私にはありがちなことですが、天草がこんなに広いと思っていませんでした(来たことあるくせにぃ?)。頑張れば自転車で一周できるレベルだと思ってて。

志岐エリアから﨑津エリアまでの長い道のりで、認識観を大きく変えざるを得ませんでした。その分浜崎先生とお話もできて私は有意義なんですが。

ウハッキュウやキリシタン戒名の次にした話題は、鈴木重成のこと。一揆後に天草代官となり復興に寄与した人物です。寺沢氏が二万石にも満たない天草の実石高を四万二千石と幕府に申告して、過酷な取り立てをしたことから一揆が起こったのですが、一揆後の天草を担った重成は、幕府に対して石高半減を訴え、そのために自刃したと伝えられています。


鈴木重成の美談


それでその話をしたのですが、浜崎先生曰く「それも今では作り話だと言われているよ」とのこと。その時期に死んだことは死んだし、石高を下げてくれるよう懇願したことは確かだが、自刃まではしていないというお話でした。人口に膾炙している美談には、「盛られている」部分があるということですかね。

しかしそれでも重成の死後、天草は二万二千石となり、民の負担は大きく軽減されたので、重成を恩人として神社まで作って祀っています。美談は「盛られて」いても、感謝は本物なのかもしれません。

右手に天草灘を望む道は、お天気の良さも相まって国内最高水準のドライブコース。蒼さが目に染みるほどです。



鬼海ヶ浦展望所


キャー! (≧∇≦)
素敵すぎて絶景過ぎる天草の海。

天草エアライン? 許す許す~。どんまーい!(←という気分になれる自然があります♪)

389号線を大江に向かう途中、トンネル手前に鬼海ヶ浦展望所があり、レストラン「ブルーガーデン」がいい感じに営業中。

テラスから見下ろすと、海までの間に桜も咲いてて、まるで絵はがき。あご出汁のちゃんぽんとか、もう確実にうまいやつだし、サラダバー付いてくるし。店内も程よく空いていて、気兼ねせずに過ごせるし、都会でできない贅沢に包まれております。あー、島旅サイコー。



鬼海ヶ浦展望所

鬼海ヶ浦

鬼海ヶ浦

ブルーガーデン



絶品ちゃんぽん

記念撮影

天草中学校


再び車上の人となり、正門で一礼すべしとある天草中学校前で一旦停止。浜崎先生が地元の方に挨拶に行かれました。この辺りが高浜焼で知られる高浜ですね。海沿いとは違い、高浜は「町」という雰囲気がします。文化的な香りも。

今日はあちこち立ち寄る時間はないけれど、高浜に来たからには、天草崩れと上田家のことに触れないわけにはいかないでしょう!待っている間にちょっとおさらいを~☆



天草崩れ


天草崩れとは、1805(文化2)年、天草下島南側に位置する大江村、﨑津村、今富村、高浜村で5000人余りのキリシタンが露見した事件をいいます。「崩れ」とは、大量検挙により信徒組織が壊れることを意味する言葉で、天草崩れの他にも、濃尾崩れや郡崩れ、浦上村の一番から四番の崩れ等が起こっています。しかし天草崩れには、他の地域とは違った処理がなされました。

それが、これらの者どもは先祖伝来の「異宗」を信じる無知蒙昧で迷信に溺れた「宗門心得違い」の者たちであるから、よくよく言い聞かせて改宗させるので、今回ばかりは容赦してほしいと村人が連名で島原藩に願書を出し、幕府もこれを受け入れて事なきを得たというもの。

この「宗門心得違い」の献策をしたのが、当時高浜で庄屋をしていた上田宜珍(うえだ・よしうず。「ぎちん」とも)だと言われています。宜珍は文化人で「天草島鏡」の著者。高浜焼にも力を入れ、伊能忠敬が測量に訪れた時には、忠敬に習って測量術を学びました。当地の者たちが信じていたのが「異宗」だったかどうかは後に譲るとして、このような穏便策で処罰者を出さなかったことは知恵と言えそうです。



演五右衛門、暗躍


実はこれに先立つこと3年、宜珍の実弟 上田演五右衛門(うえだ・えんごえもん)が、島原藩の手先として今富村の庄屋に送り込まれた時から、キリシタン検挙のための内偵は始まっていました。長崎奉行所の方に注進があり、奉行所からその連絡を受けた島原藩は、仕置不行届をとがめられないよう早速動いていたのです。

宜珍が、実弟によるこのような動きをどのくらい察知していたのか不明ですが、自らも今富村の庄屋を兼帯していたので、ある程度は知り、演五右衛門と相談まではせずとも、どういった対策が採れるのかを考え、心積もりをしてたのではないかと考えられます。そして結果は上記のとおりに。

副産物ではありますが、この時の「異宗徒」吟味の記録がちゃんと残っているため、今ではとても良い研究材料になっています。天草の潜伏キリシタンの実像を物語る資料があることを有り難く思います。



もう一つのポイント!


天草崩れにおける、もう一つ重要なポイントを挙げるとしたら、村社会の総意によって行なわれた「異宗」処理だったことです。もしこの事件で多数の処罰者を出せば、村請制を前提として成り立っている村社会の日常生活が成り立たなくなるのは必然で、それは非信徒にとっても生活が脅かされることでした。

そのため非信徒を含めた村社会で結束して、先祖伝来の習俗として信仰してきたに過ぎないから慈悲をもってご容赦いただきたいと、藩主への取りなしを嘆願したのです¹。これは共同体としての村社会がうまく機能した結果でもあったと解釈することができます。

一方、5000人を超える島民を処罰することによるその後の行政施策の立て直しの困難さと、これまで特に問題を起こしてこなかったという実態社会を優先した判断が下されることにより、絵踏みをしていながらもキリシタンだったという矛盾が露呈し²、これが幕藩体制崩壊の一つの兆しとなったという見解もあります。



今富村村方騒動


さて天草崩れの6年後の文化8(1811)年、今富村の「合足組(がっそくぐみ)」と呼ばれる集団が、庄屋である上田演五右衛門の免職を要求する訴状を出しました。最初は大庄屋に、それがうまくいかず富岡代官所へ強訴するまでになったので、大変な騒動になったことは間違いありません。結局両者は和解し、「合足組」も解散したのですが、それには演五右衛門の辞任が条件となっていました。

「合足組」には多くの異宗からの改心組がいたので、演五右衛門は彼らによる報復と見ていたようですが、実際には改心組でない「素人」と呼ばれる人たちも含まれていました。「合足組」の構成員と訴状の内容を見ると、やはり宗教問題ではなく、経済的な問題、具体的には農地経営と土地所有の問題が起因した騒動であったことがわかります。

つまりここからも、生活の基盤を失わないように、村社会が結束して問題解決を図っていたことがうかがえるのです。潜伏キリシタンや「異宗」検挙も問題を扱う際に、すべてを宗教的な観点でだけ見るのでなく、村社会が守ろうとした安定という観点を忘れてはいけないのだと感じさせられます。





¹ 大橋幸泰「潜伏キリシタン」(2014年、講談社)p168
² 安高啓明「踏絵を踏んだキリシタン」(2018年、吉川弘文館)p185


西平へ


高浜で389号線にお別れして、町を抜けてからは、今度は少々恐ろしい所もある断崖の道へ。西平(にしびら)に向かいます。高度があるので眺めはまた格段によくなるのですが、よそ見ができるような道ではありません。

どこへ行くんだろう~?と思っていたら、こんな断崖の先にもいくつかの家が集まった村がありました。ここに善者様が祀られているということです。「キリシタン文化遺跡 善者様」と案内板も出ていますね。



善者様


善者様の祠は、この後ろにある家の方が管理してらっしゃるとのこと。

陽光を浴びて静かに佇む様子は、村を見守っているかのようです。

解説板を読んでも、これがどうしてキリシタン文化遺跡なのか、ピンとこないんですけどね ...(;´∀`)アレレ?



善者様について


善者様については、天草市まちづくりポータルサイトに以下のような説明が載っていました。

現地解説板と内容は大体同じなので、引用しますね。

大江西平区のほぼ中央に「善者様」という塚があります。善者様は昔、長さ1メートルもあろうかという草履を作って、西平海岸に常に置いていました。それは、当時この一帯をめがけて度々襲ってくる海賊がそれを見て、巨人がいると思って逃げるための策略でした。やがて策略であることを知った海賊の一隊が善者様の家に押しかけ、だまされた腹立たしさに怒り狂うのをなんとか静め、ありったけのごちそうを出して海賊たちをもてなしました。その時、善者様はごちそうの膳を一列に並べ、得意になってむさぼり食っている海賊たちを、種子島の一弾(火縄銃)で全滅させました。後に西平の人たちは智勇の士「善者様」として祀るようになりました。



西平


少々アレレ?な気持ちも抱きながら、次は西平にある墓地へ。こちらにはいろんな時代のキリシタン墓碑があるのだとか。

雲母でしょうか、この辺りに多く見られる板状の石が地面から露出していて、自然の階段のようになっています。傾斜が多い地形なので、これを土留め兼石材として多用しているようです。

現地調達できるのが何よりの強み。だけど脆そうです。適材適所に使っているでしょうけれど。



西平の墓地


西平は東シナ海に沈む美しい夕陽が見られることで有名ですが、青い空をバックに十字架が建っている様もなかなかのもの。

いろんな時代の墓が見られるということで連れて来てくださったそうです。ありがたや♪

手前には仏教式の墓もあり、先祖代々この地で生きた人たちの、それぞれが置かれた立場が見えてきます。

先祖の墓に手を合わせた人が、後には葬られ、それが繰り返されてきたのでしょう。適切に人の手が入っていて、荒れた雰囲気がないのがいいですね。


天草下島の墓碑の特徴


浜崎先生のお話によると、天草下島のキリシタン墓碑には平型や蒲鉾型がないのだそう。宣教師が多く来て、また亡くなっているのだから宣教師の墓もあるはずだが、それでも長崎などで見られる蒲鉾型はなく、禁教時代に破壊されたにしても、多少は残っていそうなものなのに、全くないので、経済的なことや宗教的な習慣の違いがあって、天草下島ではそういった形の墓碑は作られなかったと考えられるそうです。

またキリシタン墓碑は、雲母の石片を積み上げたものがほとんどで、野石に十字を刻んだ簡素なものがそれに次ぐそう。確か上津浦(こうつうら)の正覚寺で蒲鉾型のキリシタン墓碑を見たことがあるけれど、あれは天草上島ですもんね。同じ天草でも地区によって違いがあるのでしょう。


明治30年頃から十字架を


また仏教式の墓碑を作り始めたのも、江戸中期からで、それも他の地区より遅れているそうです。天草崩れの後、仏教式の墓碑が急増していて、これは改宗した人たちだけでなく、潜伏したキリシタンも、それまでの野石を積み上げたものをやめ仏教式で作り始めたからであろうとしていました。だから中には十字の刻まれた仏教式の墓碑があるそうです。

明治になって復活しても、信徒たちは初めは十字架は付けず、まず野石の寝棺式に移行し、明治30年頃になって十字架を墓碑に掲げ始めたのだとか。そしてこの頃一斉に墓が再建されてもいるそうです。明治30年頃に転換期を迎えたのは、法律的なこともあるだろうが、キリシタンに対する社会情勢が変わってきたからではないかとおっしゃっていました。



石積みの墓碑


こちらが古い墓碑。地面から露出していたのと同じ種類の石片が重ねられて墓碑になっています。

花が供えられているので墓だとわかりますが、それがなかったら、風化が著しくて墓と認識できないかもしれませんね。

新しい墓の横手にも同様の造りの墓があります。そちらは少し長方形です。中は寝棺になっているのだと教えてもらいました。



コンクリートブロックの墓も


中にはコンクリートブロックで造られた墓も。元々がこうだったのではなくて、石が風化して原型を留めなくなったため、このように造り直したのではないかと思われます。

そうだとすると、きっとかなり古いものですよね。何百年か前のキリシタンのものだったかもしれません。

今日は快晴だからいいけれど、ひとたび天候が荒れたら、強風が吹き付け厳しい環境であることを痛感させられそうです。

一説には、西平の人たちは鹿児島の甑島から渡ってきたと言われています。先祖が渡ってきた海と、その先にある地を懐かしんで、こんな絶壁に墓を作ったのかな。人の思いは計り知れませんね。



経塚之塔へゴー


断崖の道から、今度は山中へ。浜崎先生が小さな声で「この車大丈夫かな」と言いながら、起伏の激しい道でハンドルを切ってらっしゃいます。私は後部座席で無事を祈るのみ。

「ここに何が?」という感じの所で駐車して、脇の石段へ。誰かが草を刈ってくれているからいいけれど、一年とか放置したら道がわからなくなりそうな。。



経塚之塔


石段を15メートル上ると右手に「経塚之塔」と刻まれた石碑と観音像が。

「経塚(京塚)様」と呼ぶそうです。

何だか何でも「様」を付けて祀ってる気がしますけど、ここは人でも神様でもなく、遺物を埋めた地だそう。禁教が厳しくなり、家中からキリシタン信心道具が出てきては大変なことになると思った村民たちが、ここに遺物やオラショを埋めたのだそう。

後に発掘したところ、刀や壺が出土したということです。実際に埋めたのは、この石碑や観音像ががある場所ではなくて、1メートルほど手前の場所です。木の根元に自然石が数個やや乱雑に置かれていて、打ち捨てられたような雰囲気。石碑と観音像のところには花が添えられているけど、こちらには無いのが不思議です。



経塚(京塚)さま

経塚(京塚)さま

石碑と観音像

経塚之塔

実際に埋めた場所



妖蛇池...


経塚之塔から50メートルほど下った所から、更に山中に分け入ると妖蛇池があるそうです。そこへの道がすっかり自然に還っているので、今日は断念。

鎌を持って草を刈りながら行くのも大変だそうです。戦前までは、大江のキリシタン(教会に復活しなかった人たち)は、この池に「水の初穂」を汲みに来ていたのだとか。

「妖蛇」と言ったのは、そういった聖なる場所に人を近付けないためでしょうね。そのような非キリシタン(外教者)を、こちらでは「宗病」(むねやみ)と呼んでいたそうです。



古寺様


大江に抜けて高台に上ると、見晴らしのいい所に古寺様が。元教会と伝えられ、口碑によれば大江で最初のミサが立てられた所なのだとか。中には5体の祭神が祀られています。

その名も「サンジャコーベ様」「おんあるじ様」「チュウジ様」「サバダ様」「セッタ様」。どれもインパクトある名前です。

サンジャコーベは聖ヤコブだろうし、おんあるじ様も神様か主のことだろうとわかりますが、それ以降が謎です。チュウジ様は十字架?サバダがサバド(ポルトガル語で土曜)なら、セッタはセスタ(ポルトガル語の金曜)ですかね。金曜と土曜は大切な日だから、それに合わせて聖人の名を挙げて祈っていたんでしょうけれど、いつの間にか曜日名だけ残り、しかも神様にして祀ってしまったようです。

なるほど、これを潜伏キリシタンと呼ぶか、異宗の者と考えるかが問題です。一応キリスト教の片鱗は残っているけれど、大切な神様キリストの概念が抜け落ちてしまったのに、果たしてキリシタンと呼べるかということですね。こういう状態で、禁教下で信仰を守ったと言うことができるかという。うーん (-ω-;)



サンジャコーベ様たち


中にあるのも完璧なるお地蔵さんですね。

教会跡だと伝えられていると言いましたが、伝承には続きがあり、ここに宣教師が住んでいて、江戸の振袖火事を魔法で鎮火したとか、役人に捕らえられそうになり、風鈴を持って大甕に入り、「鈴が鳴っているうちは私は生きている。鳴らなくなったら葬ってくれ」と言って地中に埋めさせたとか、そんな話も伝わっています。



大江の里


伝承は他の話と混線して、元となる事実が何だったかも窺い知れなくなっていますが、古寺様から見る大江の里は麗しいの一言です。

じっと見ていると、愛おしさすら覚えます。

きっと原形となる、キリシタン時代のエピソードがあったのでしょう。 宣教師もこの場所から大江を愛おしく見つめていたのでしょう。それならやっぱりキリシタン史跡ですかね。樹齢何百年かになりそうな蘇鉄の巨樹があることも、一つの傍証になるかもしれません。あー、判断するのは難しいですね。どこに線を引くべきなのか。。



山下家


次に浜崎先生が連れて行ってくださったのは、めちゃめちゃすごい所。大江の山下家ですよ、あの!

大江の天草ロザリオ館で、この家から寄贈されたキリシタン宗門道具をたくさん見ました。ご当主の山下大恵(ひろしげ)氏は以前ロザリオ館の管理責任者も務められていたはず。

浜崎先生が母屋に声をかけながら進んでいくと、なんと大恵氏ご本人が登場。続いて奥様も。挨拶などしながら「どうぞ~」と家に上がらせていただき、ドキドキが止まりません。いいのかな、私みたいな者がここまで来させてもらって (;´▽`A``



隠し部屋へのはしご


座敷に入ると、浜崎先生が勝手知ったる感じで、「上の方、見せていただいていいですか?いえいえ、自分でやりますから」と、ソファをするすると横に引っ張っていき、主人の承諾を得て引き戸を開けますと・・・はしご!

この先に例の隠し部屋があるんですか!?

ロザリオ館で隠し部屋を再現したものを見て、この近くにその家があると聞いた時に、「いつか本物が見られたらどんなにいいだろう」と心の中で思ったことを、今思い出しました。えっ、その願いが成就しつつあるんでしょうか、ドキドキ。

奥様がお茶とお菓子でもてなしてくださっているのと、隠し部屋への誘惑で板挟みになっていると、「早く見せてもらいなさい」と浜崎先生が。というか、ご自分が先に上って行きながら、招いてくれました。レッツゴー☆彡



はしごの先


はしごの先が屋根裏を利用した隠し部屋。普段は物置部屋に見せかけて、集まりの日だけ近辺の信徒がここに来て、柱の隠し十字架に向かってオラショを唱え、祈っていたんですね。

その人たちはこんな風にこのはしごを上って、私のようにドキドキしていたことでしょう。あ、古い木材の匂いがする。確かこの母屋も二百年ほど経つと本に書いてありました。

本で読んで、復元を見て想像していた場所、いつか見られたらいいなと思っていた所に、今いるという不思議。祈りや願いは、ある日思ってもみない時に叶うことがあるんですね。



隠し部屋


こちらが隠し部屋の現在の様子。広さは三畳分くらいでしょうか。

電気がつけられるようになっていますが、フラッシュを焚かないと写真は撮れない暗さ。

スペースは、本来屋根裏部屋がそう使われるように、物置として利用されていました。

山下家は隠れ(潜伏)キリシタンの時代、大江の年寄役で、大恵氏は今も隠れの伝統を守っていると聞きました。それでいて神社の氏子総代も務めているというのが、隠れの人たちの実像そのもの。


経消しのオラショ


ロザリオ館に展示されていた経消しの壺は、山下家の本家丸山家に伝わっていたものですね。つまりキリシタン潜伏期に、丸山家が洗礼などを施す水方を務めていたということ。山下家も水方を助けて一緒に経消しのオラショを唱えていたはずです。すごい、キリシタンの実像に直に触れている気がする。

あめまるや がらさべんのふ どふまんべえこ えれんと つうや えれむり えれむり えれすべ えんつう ふりつう べんつう つうえのじんぞう さんたあ丸や まあてる まあてる。
うろひらのふ。のふすべ のふべことりえの のみきり えのつ九 山土野土(さんとのつち) あんめんじんす。

死者が出てお葬式をする際、表面上は仏教徒なのでお坊さんにお経を上げてもらいますが、「それでは死者が天国に行けない!」と思った信徒たちは、お経の効果を消すことを考えました。そして唱えるようになったのが「経消しのオラショ」。

「オラショ」とは祈りという意味で、元はラテン語の祈りであった文言を、日本人が口伝えしているうちに変形したのが、上記のフレーズ。「あめまるや」とか「あんめんじんす」とか、可愛いとか言っちゃ失礼なのかな。唱えたくなるような、口の中に入れたくなるような言葉たちです。

皆でここに集まり、死者のためにオラショを唱えながら、死者が天国に行けるように祈っていたんですね。禁教下、見つかってはいけない中で、それは真剣だったことでしょう。あぁ、何だか切なさが胸に迫ってきました。隠れであれ潜伏であれ、この時代のキリシタンは、切ないです。彼らの切実さを、忘れてはいけないですね。



干拓地


農産物のお土産までもらって山下家を辞し、ほおーっとした気持ちで眺める車窓。「天草は平地が多くて農地が豊かですね」と言うと、「全部干拓地だよ。元々は農作物はあまり取れなかったんだよ」と。

そうなんだー。土地も今と昔は違い、豊かさも異なるならば、もっと知りながら想像しないと、間違った方向に想像してしまいますね。

キリシタンの実像は、切なくもあり、今まで続いているという面では粘り強くもあります。キリシタンと言えど、天草五人衆などの武将、集団改宗した一般信徒、天正遣欧使節、宣教師、コレジオの神学生、島原天草一揆の参加者・非参加者、潜伏キリシタン、隠れの伝統を守る人たち、復活した信徒など、天草のキリシタンは多種多様。

だけれど、潜伏と復活、島原天草一揆、天正遣欧使節までコミットしている地域というのは、かなり希少ではないでしょうか。まあ長崎は別格として、でもコミットした項目の豊かさでは二番手に挙げられるかと思います。それ特徴ですよね。特長と言うべきか。



教会跡


今度は今富に到着しました。小屋のところに解説板があり、教会跡だと書かれていますが、実際教会があったのは右手奥の木が生えている所だったそう。

さてこれから伺おうとする堀口家も、やはり先祖が潜伏キリシタン。

そして復活してカトリックになったため、家には潜伏キリシタン時代の祭壇と、カトリックの祭壇があって、それがとても珍しいということです。



堀口家へ


「この前40人くらいカトリックの団体さんを連れて来て見せてもらったんだけど、今日はその時のお礼を言いながら、お願いしてみよう」と、浜崎先生。

いいんでしょうか、私なんぞ一人のためにそんなことしていただいて・・・。申し訳なかったので、「家を外から見るだけでも、ここだったんだーと思えるから十分です」と、変な遠慮を口にしてみたのですが、ご主人がいらして、上がらせてもらえるようになりました。感謝<(_ _)>



二つの家庭祭壇


築160年ほどになるというお宅は、この地域のどこにでもあるような素朴な外観の民家。中に入ってもその印象は変わらず、祖父母が住んでいた家を思い出します。

玄関を上がり、右手の続き部屋の奥に、件の祭壇が、やはり何気ない様子で設えてありました。左側の箪笥上部にあるのが潜伏キリシタン時代の、右側がカトリックの家庭祭壇ですね。

カトリックでは自宅に家庭祭壇を設ける人がいるのですが、潜伏時代と今の二つの家庭祭壇が並んでいるのを見るのは初めて。確かに非常に珍しい光景です。潜伏から復活へ、そして現在まで信仰が続いてなければ、この光景は実現しないのですから。

潜伏時代の祭壇の左右の戸に描かれた、葉っぱを4枚組み合わせたような模様を指差して、浜崎先生が隠し十字だとおっしゃっていました。家紋ではなく、この模様が残っているのはこの家しかないそうです。大変貴重なものを見させていただきました。いえ、貴重な体験をさせていただいたというか。

山下家でも堀口家でも、その家の方々と写真を撮っていただきました(撮影者は浜崎先生)。普段そんなことお願いしないんですけど、浜崎先生に勧められて。それも記念になりました。ひたすら感謝です。




世界遺産・﨑津集落♪


﨑津教会


﨑津方面に戻ってくると、「ここから撮るといいんだよな」と、﨑津集落の撮影スポットで停めてくれました。

﨑津は、天草に初めて来た宣教師アルメイダが「サシノツ」と呼び、(民衆に対しては最初に)宣教したという所ですね。

それにしても、漁村と教会のミスマッチどころかベストマッチな組み合わせが堪りません。日本らしさとキリスト教は、こんな風に寄り添うことができるんだよと教えてくれているようです。昔は今とは違う風景だったでしょうけど、アルメイダもそれは感じ取っていたのではないでしょうか。



もう一つの撮影スポット


少し行くと、﨑津集落の対岸に撮影スポットが公園として整備されていました。

「あそこに十字架建ってたんだけど、」無くしちゃったんだねぇ」と、残念がる浜崎先生。いろんな意見があるし、観光や行政の事情もあるのかと。

それにしても今日はVIP待遇ですね。長年天草で研究してきた第一人者にマンツーマンで案内していただき、その方にドライバーやカメラマンまでしていただくなんて (;´∀`)

「こんな小娘(正確には小さいおばさん)になんでワシがここまでしてやっとるんじゃろ」と、きっとお思いになっていることでしょう。。この度かくれキリシタン研究会の会長職を引き継いだ安東先生が頼んでくれたからで、私のことをキリシタンに関心がある美人(やめてー;;)と紹介してくれたからなんですが、表面的にはそうでも、神さまのおかげだと個人的には思っています。だから神さまと人に両方感謝♪



アルメイダ上陸地碑


「サシノツ」から、アルメイダ上陸碑のある河内浦(現・河浦町)へ。当時宣教師が「浦」と言ったらここのことを指していました。

「南蛮船停泊地跡」とも書かれていますが、直接南蛮船がここまで来たのではなく、大きな船から小舟に乗り換え、湾から川を遡ってここにここに来たのだと教えてもらいました。疑問氷解。

周りは干拓地で、農地を作ろうとしたんだと思いますが、人手不足なのか作物が植えられている様子はないですね。昔は川幅ももっと広かったのでしょう。


河内浦の天草鎮尚


河内浦は天草氏の根拠地で、天草鎮尚は天草五人衆の中で最も力を持っていました。よく「キリシタン大名は南蛮との交易を望んで洗礼を受けた」と言いますが、鎮尚の場合は違います。

最初はもちろん貿易の利を目論んだのですが、天草氏領の複雑な海岸線に南蛮船は寄港することなく、それでも鎮尚は受洗してドン・ミゲルとなり、全家臣が入信したと伝えられています。盛時には天草氏領内に35の教会と1万5千人のキリシタンを数えたとか。

明日案内してくださる天草市役所の中山様と浜崎先生が、さっき電話で案内するエリアを相談してくれていたので、河内浦城とかもっと奥まった所には明日連れて行ってもらえるようです。これもまた感謝な事なり、です。



アルメイダ上陸地碑

アルメイダ解説板

河内浦

安養寺


浜崎先生がラストに選ばれたのは安養寺(あんにょうじ)。ここにもキリシタン墓碑が一基あるのだとおっしゃって。

由緒あるお寺のようで、山門が立派。山門脇や境内に蘇鉄が植えられているところが九州だなあと感じます。

蘇鉄は棕櫚に似ているから、キリシタンは好きだったでしょうけどね。

ん? 解説板には、フロイスの「日本史」を引用して、ここが天草コレジオ跡推定地だと書かれていますよ! えっ、本当!?

そうだとしたら大変なことなんですが、引用された文には具体的な地名などはなく、ここと言っているとは限らないように思います。天草コレジオ跡の候補地の一つと解するのが良さそうです(あー、びっくりした)。



解説板

本堂

境内

境内

キリシタン墓碑


キリシタン墓碑は本堂の横手に。キリシタン墓碑は天草に千基もあると聞いたので、「一基だけ?」と思ったけれど、見て納得。

とても美しく成形されていて、特別な感じがします。天草のキリシタン墓碑は自然の野石に十字だけ刻んだものが多いということでしたが、これは石の種類もデザインも全然違います。

しかも二段ですね。下段は長方形、上段は縦長の家型。下段には花入れのようなくぼみがあり、上段の側面には精密な彫りが見られます。そして家型石の屋根の部分に、十字架が斜めに刻まれています。なぜかそこだけ精密ではなく、自然石に刻まれていたような感じの、少々素朴な十字の刻印が。

これは一体何を物語っているのか・・・。少なくとも被葬者は、とても尊敬されていて高貴な人だったでしょうね。浮かんでくるのは、地域性から考えても、アルメイダさんに天草鎮尚、鎮尚の奥方ガラシアなどですけど、勝手な想像は慎みましょうか。だけどとっても感じが良くて、心に残る墓碑でした (*´ω`)



キリシタン墓碑

本堂横手に

十字架

境内


浜崎先生とお別れして


日本基督教団 天草平安教会


浜崎先生に、今日から二日間泊まる民宿花月まで送っていただき(場所わからなくて結構探してもらった汗)、お礼を申し上げてお別れを。

チェックインして一息ついたら、夜のお出かけのための準備にかかります。2年ほど前からチェックしていた「レキバナ会」という歴史研究グループの集まりがあり、今夜はそこに伺うのです ( ^)o(^ )ワーイ

本渡の中心部に向かいつつ、教会めぐりもしていこうと思います。宿を決めたのも、周りにいくつか教会があったからなんですよね。こちらは日本基督教団の天草平安教会。



カトリック本渡教会


続いてカトリック本渡教会へ。1951年創建の歴史ある教会で、当初は聖コロンバン会によって司牧されていたようです。

HPによると現聖堂の祝別が1984年だそうですが、このデザイン、どこかで見かけたことがある気がします。可愛らしくてほっとする感じ。

庭にはルルドも。小さいけれど、よく整っていますね。



アーケード街


アーケード街に出ました。この辺りから市役所、バスセンターまでの一帯が本渡の中心部で、つまり天草下島で一番の繁華街になるんですかね?

落ち着いた感じで、店が閉まるのは早めなのかも。でも買い物などは不便ではなさそうだなと思いました。



祗園橋


そして祇園橋へ。前回は遠望しかできなかったけど、今日は触れる。うーれしいなっ (^^♪

「古色蒼然」という言葉がぴったりなこの橋の建造は1832(天保3)年。

5本ずつ9列、計45本の橋脚で支えられた、緩やかなアーチ形の橋は今も現役。車以外なら通れるようです。下を流れるのは町山口川。川底の岩が露出しているのは、最近雨が降らなくてでしょうか。

そうだとしても、元々浅瀬ではありそうです。町山口川渡河戦の時はどうだったんだろう。橋はまるで島原天草一揆の目撃者のような佇まいですが、架橋はずっと後のこと。一揆軍と寺沢藩兵が激戦を交えたのが祇園橋の付近だったと伝えられているだけです。言うなればこの橋はその戦いを想起させるためのモニュメントですね。おかげで、そういうことが実際にあったのだとよく感じられます。

両軍の血で真っ赤に染まったという川は、少し強めの瀬音を立てて流れています。ここで激突する時までは一揆軍が優勢で、藩兵を率いていた三宅藤兵衛は討死。藩の討伐軍は富岡城に撤退し、一揆軍が城へと押し寄せるのですが、そこで形勢は逆転します――。橋のたもとに立つと、数百年も前の情景が幻のように浮かんできます。モニュメントの効果ですかね。



国際交流会館ポルト


レキバナ会が行われる国際交流会館ポルトへ到着。途中で買ったベーカリーのパンで腹ごしらえ。カフェスペースがあって便利です。

集まりの行われる広い会議室に入っていくと、十数名の人が。

論文を読み史跡探索をしていると聞いていたので、もっとシブい雰囲気を想像していたのですが、身近な歴史をカジュアルに「愉しむ」感じで、女性も4割ほどみえました。



レキバナ会


主宰者の青木様に初対面のご挨拶をし、この後、信心具に関する発表もしてくださるという中山様とも名刺交換を。気が早いですが、明日もよろしくお願いします<(_ _)>ペコリ

有り難いことに皆さんフレンドリーに接してくださり、私も緊張せずに挨拶などできました。

そしてレキバナ会スタート☆



潜伏キリシタンの信心具について


天草市の学芸員さんで、世界遺産推進室主査(当時)を務める中山氏による「潜伏キリシタンの信心具について」は、ほんと勉強になりました。

各地で講演もしてらっしゃるからか、お話も上手で。まず世界遺産登録までの道のりとポイントをおさえた上で、他の潜伏キリシタン集落と崎津との違いを説明。

その特徴が信心具(キリシタンが信仰の対象として所持していた物)に表れているとして、本格的に信心具の話に入っていきました。一番の問題点は、信心具をどうやって本物と認定するか。これはキリシタン遺物と重なる問題です。

キリシタンに関する物は骨董的価値が高く、古物商によって類似品(誰かが作った物)が出回っているという実態があります。なので来歴が確かであることと、本物であることの証明(調査)が必須。伝来した地域から出てしまった物や、古物商の手を通った物は、信憑性の薄い物と判断されます。

しかし禁教下の信心具は、その性質上、本来表に出てこないものなので、真実性・完全性(世界遺産の登録基準の一つ)の証明が容易ではありません。特に潜伏期の物は、信仰形態が変容し、信徒が何をどのように信じていたのか不明な点が多く、現代人の思考パターンでは判断がつきません。


天草ならわかる!


ところが!それができる方法が天草にはあるのです。天草崩れの時の記録が残っているからです。上述の天草崩れのところで出てきた上田家に残る文書ですね。ここに信徒から没収された信心具のリストがあるので、それを見ればどんな物を尊んでいたのかが窺えるということです。

ただリストを見ていくと、メダイやクルス、聖遺物入れはわかるとして、丸鏡、古銭、引手、目貫で「えええ?」となり、大黒天、アワビ、鉛、石、唐子人形が信心具だったと知り絶句するしか。弘法大師や西行法師、(坂田の?)金時や七福神の像までも拝んでたとなると、「それってキリシタン!?」という感じです。

中でも大黒天はちょっとしたブームで、「サンタ丸やさま」「ジュワンさま」などとして供出されています。大黒さまだって、「ワシがマリヤさま?」と思ったはず (^-^;ヨバレテビックリ

これらは「正直に出せば許す」と言われて、村民たちが実際に出した物なので、当時の信仰形態(対象物、信心の内容)が現れているはず。だけどどう考えても、キリスト教からは離れてしまっていると言わざるを得ません。ちょっと衝撃的なくらいのズレ方ですね。何と言っていいのか。。


私も少し話させてもらい


不肖ながら私めもパワポを用意して少し話させてもらいました。違う地域の者から見た時に、天草のキリシタンにどんな特徴があり魅力的なのかという内容で。 項目を挙げるなら以下の7つでしょうか。
①キリシタン時代
②天正遣欧使節
③島原天草一揆
④潜伏キリシタン
⑤天草崩れ
⑥復活
⑦世界文化遺産登録
もう少しプラスするとしたら殉教地があることやコレジヨ、画学舎が置かれたこと、それから活版印刷機による天草版の制作ですね。これらを網羅する地域は他にないので、特別さ、固有性を持っていると言えます。ただし「潜伏」の実態が、長崎などと違うということを今日ひしひしと感じました。

天草にはコレジヨ(今の大神学校)があり、天正遣欧使節もいたくらいなのに、つまりキリシタン界のエリートたちが多く集っていたのに、一般信徒は偶像崇拝をしてはいけないことも知らなかったようです。年月が経つうちにある程度教えが薄まるのは理解できるとしても、ここまでご利益信仰になってしまったのは、最初から教理的な理解が乏しかった可能性があります。


キリスト教理解の欠如と「復活」


領主が入信したことにより、民は集団改宗したので、キリスト教への理解が少し弱かったのかもしれませんね。また宣教後、時間が経っても理解が深まらなかったのは、キリスト教のエリート層(宣教師や神学生)と一般信徒たちの間にあまり交流がなかったのだろうと想像されます。

だけれどそれならば、そんな「異宗」の信仰に変質(信仰が混淆したか、変質したか、混在しているかは議論のあるところですが、とりあえず)してしまっていた彼らが、どうして「復活」できたのかが次なる問題です。彼らにはバスチャンの預言もなかったから、自由に信じてよい時代の到来を待っていたわけでもありませんでした。

これ、実はかなりシビアな問題ですね。「潜伏」か「異宗」かという二者択一なら困ったことになります。私がイメージするのはその中間みたいな概念ですね。「先祖が信じていたキリスト教という認識はある。だけどどういうものかよくわからなくなっている」という。浜崎先生はこれを「伝承キリシタン」と名付けてらっしゃるのだと思います。

明日はキリシタン時代の史跡地や、明治になってから再布教された﨑津や大江にも行けると思うので、その辺りをもっと考えてみたいです☆彡



夕食


終わってからは先ほどのアーケード街にある居酒屋さんで食事会を。お刺身の盛り合わせが豪華。おでんとカサゴの唐揚げが珍しかったです。

何より、こんなに見ず知らずの私に「一緒にご飯食べよー!」と言ってくれる人がいるのがうれしいことですね。SNSで同好の士と出会い、共に語らい笑うという・・・時代の恵みを享受しました☆


おでん

カサゴ

似顔絵~



「説」と「小説」


歴史は、残されたあらゆる記録を忠実に調べ、恣意的なものを排除して真摯に事実を掘り起こし、数多の史料による検証を経て書かれるストーリーです。

その中で様々な解釈が提起され、「説」が生まれるわけですが、その解釈が同時代の他の記録と対立する場合は、「説」ではなく「小説」、つまりフィクションになります。

私は「小説」を好んで読むし、フィクションだからこそのロマンを楽しむこともしますが、「小説」が「説」になってはいけないと思っています。そこを分けて言っていることを理解してもらえなくて、「ロマンを解さない人間」と批判されるんですけど。

また私設のミュージアムは別として、公の博物館・資料館で歴史を展示するならば、「小説」ではなく正史とされるストーリーを紹介するのが適切ではないでしょうか。何らかの目的で、ロマンある「小説」を一つのコーナーとして臨時的に扱うことはあっても、それがメインの常設展示となることはふさわしくないように思います。

もし歴史に絡めたロマンやミステリーを紹介しようというのであれば、「ロマン館」「歴史ミステリー館」、観光に結び付けた休憩所なら「観光情報館」「交流スポット」などにしてはどうでしょう。それならば、「博物館」「資料館」と銘打つ施設ほどの水準は不要なので、自由に想像した「小説」を提供して構わないと思います。

その辺をどうか関係各位にはご理解いただきたいと思いますし、私がそこを分けて考えているということも諒解していただけたらと存じます。少々固いことを申しますが、よろしくお願いいたします。






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