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キリシタンのあしあとを求めて各地を旅してめぐります♪

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 蒼き切支丹回廊 3


おはようございます。今日と明日午前中までは景教研究会の発表で、その後キリシタン史跡めぐりのツアーに出るので、そこまでまとめて書いていこうと思います。

明日行く予定の由布院のキリシタン墓地については、観光地に近いので訪れた人も多くて話はよく聞くのだけれど、私は行ったことがなく楽しみです☆



朝食


宿での朝食は今日はパンで。バルミューダのトースターとか、こういう細かいこだわりが女心をくすぐります。

焼き加減がうまく調整できずに、ほとんど生パンで食べましたが(オシャレなものは大抵コントロールできない汗)。今日も元気に行ってきます。

2日目の発表


景教研究会国際大会2日目は、金奎東(キム・ギュドン)氏「東方キリスト教の十字架の研究」、私、ブラッドフォード氏「モンゴル総主教とヨーロッパへのミッション」、安東邦昭氏「大分臼杵を中心としたキリシタン遺跡について」、黄錫千(ファン・ソクチョン)氏「東アジアのキリスト教」というプログラム。

3日目は川口一彦氏による「東方キリスト教(景教)の入門」でした。人と比べちゃいけないと思いつつ、自分の足りなさを痛感して軽い落ち込みに襲われております (´・ω・`)ホフ...
しかしまぁ、多少落ち込むくらいでなければ発奮もできないので、これで良しとしましょう。

私の知らなかったことを教えてくれたという意味では、金氏とブラッドフォード氏の発表が興味深かったです。金氏は「長安の春」(韓国語)という著書もある研究者(Ph.D.)。景教遺跡で出土した十字架石碑の説明に入る前に、景教史の概観を解説してくれ、全体的な理解を助けてくれました。ノート3ページ分メモ取りました。後で復習しよっと。


モンゴル総主教がヨーロッパ歴訪していた!


ブラッドフォード氏は英語文献を基に、13世紀にモンゴルから派遣された也里可温(エリカオン。元代になると景教は也里可温と改名する)教徒のラバン・バール・サウマ(ソーマとも。モンゴル総主教だった)がヨーロッパを訪れた記録を解説してくれました。サウマ一行はエルサレムこそ巡礼できなかったけれど、パリに行ってフランス国王フィリップ4世に会い、聖遺物を見せてもらっています。

イギリスでは国王エドワード1世に会い、この時エドワード1世は司教であるサウマから聖体拝領することを頼み、彼から受け取りました。それは、異なる教派だけれども、対話することで同じ信仰があることがわかったので実現したことでした。またサウマはモンゴル使節としてローマで教皇に謁見し、ミサなど全ての行事に参加しています。これもれっきとしたキリスト教徒だと認められたことを意味します。

ここに、異端とされた「ネストリウス派」ではないことが証明されたと言えます。つまり13世紀の時点で異端性は認められなくなっていたにも関わらず、適当な呼称が見つからず、「ネストリウス派」が使われ続けたということです。確かに、ペルシャから伝わっていった時点では波斯(ペルシャ)教、唐代には景教、元代では也里可温教と名前を変えたので、統一した名称を付けにくいのはわかります。でも付けるべきでしょう。

金氏の講義の様子を少し撮ったので、ご本人の承諾を得てアップしますね。雰囲気だけでも☆彡




東に広がったキリスト教


さて東方キリスト教会の東漸史は、昨日東シリア教会のところまでいきましたので、今日はその続きを。ペルシャ帝国内で国民的宗教となったため「ペルシャ教」と呼ばれたキリスト教は、イラン、中央アジア、中国、ペルシャ湾岸、アラビア半島、インドへと伝えられていきました。正史として認められていることを資料ベースで振り返ります。

イランは4世紀には修道院、6世紀には学校が建てられ、メルブとヘラートの2都市に主教座が置かれ、そこから中央アジアや中国へと宣教師が送られました。

中央アジアでは、いわゆるシルクロード(「シルクロード」という名称は、19世紀のドイツ人学者リヒトホーフェンが付けたものだが)を通して伝えられていきました。伝承では3世紀、明確な記録では6世紀にはこの地域にキリスト教徒の共同体が成立していました。

その担い手になったのは、隊商貿易に携わるソグド人で、シリア語文書から各地の言語に翻訳していました。9世紀にはサマルカンドに主教座が置かれました。現在のトルキスタン領内では都市遺跡でキリスト教会が数ヶ所発見されています。


中国への宣教


中国では6世紀という早い時期に、既にキリスト教徒が住んでいたという主張もありますが、キリスト教が広まったのは唐の時代(618~907年)でした。皇帝太宗(在位626~649年。第2代皇帝)は、宣教師 阿羅本(アロペン、アラボン)を公式に受け入れました。781年に建立された大秦景教中国碑には、当時のキリスト教(景教)の隆盛ぶりが詳しく書かれています。

インドへの宣教は、伝説では使徒トマスがしたといいますが、年代的な矛盾があります。少なくとも3世紀半ばにはキリスト教共同体が確立され、9世紀初めにインド主教が任命されました。東シリア教会の系統であることは、彼らが今なお典礼をシリアの伝統に則って行っていることからも証明されます。

ペルシャ湾岸、アラビア半島、ソコトラ島へも宣教師が遣わされ、共同体ができていましたが、ここでは省略しますね。これらのことを俯瞰すると、東方諸教会の一つ東シリア教会は、10世紀までに他に類を見ないほど広大な地域に宣教を果たしていたことがわかります。

早さと広さという観点では、西方キリスト教会に勝るとも劣らないものだったと言っても過言ではありません。従来の歴史家たちはこれを見逃し、過小評価してきたのではないでしょうか。


この教派に対する呼称


いつまでも「ネストリウス派」と呼んでてはいけないので、以上までのところを踏まえて呼称の定義を書きますね。

東方諸教会の一つである「東シリア教会」が、中央アジアを経て中国に伝えられ「景教」の名で繁栄したが、それは唐代で終わり、迫害を受けて消滅した。その後、元の時代に再布教され「也里可温教」として認知された。しかし明朝となると弾圧され、中国からの撤退を余儀なくされた。それ以降はごく狭い地域で「東シリア教会」として信じられ、19世紀以降は名称を「アッシリア教会」と変え現在も存続している。

図式にすると、
東方キリスト教会>東方諸教会>東シリア教会=景教、也里可温教、アッシリア教会 です。



「状況証拠」って?


ではこの流れが、景教として日本や韓国にも伝わったかという問題ですが、韓国では「慶州で十字架が発見されたから伝来していた」と言い、日本では「伝来したことに関して状況証拠しかない」と言っていたりします。韓国ではアカデミックな世界の人も大抵、自国のキリスト教史を景教から書き始めています。

日本では学術的研究がほとんどなされないまま、「状況証拠」を云々する段階で留まっています。私は両国とも、伝わったかどうか疑問だと思っています(韓国についてはまだ詳しく調べてないのでここで意見は述べません)。例えば「状況証拠」だとして日本で挙げられていることは――。

「続日本紀」に「波斯人一人」が渡来したとあるが、その人物は景教徒だっただろうとか、広隆寺境内の「いさら井」という井戸は「イスラエル」から来ているとか、大避(おおさけ)神社の「大避」はダビデだとか、どこかの神社の行事がユダヤの祭のようだとか、伊勢神宮は幕屋と同じ構造だとか、空海の「遺告」にはキリスト教思想が入っているとか、「いろは歌」はイエス・キリストのことを暗示しているとか、群馬県で出土した埴輪はユダヤ教徒に見えるとか、何かの文様に十が入っているとか・・・。

どれも想像か、根拠に乏しい推論です。これらについて、私も一応本を読み主張に耳を傾けました。一笑に付さずに検討したつもりです。でもやはりこれらが景教伝来の「状況証拠」になるとは思えません。ある一面から見れば、信憑性があるように思えるかもしれませんが、他の面からも検討すると、あり得ないことがわかります。



お交わり


そんなこんなで複雑な思いでいっぱいですが、食事など皆さんとの時間はとても楽しいものでした。

教会用語でいう「お交わり(=交流)が祝された」、ですね。全員クリスチャンで半分以上が牧師という、激レアな集まりですけど。



由布院に参りました♪


キリシタン・ツアーへ


2日半の大会の後は、2日半のキリシタン・ツアーへ。例年はこういうツアーはないそうですが、今年は開催地が九州なので企画されたようです。

私にとっては有り難い限り。

教会のバンに乗って向かったのは由布院。有名な温泉地ですが、キリシタンがいた地域としても、私にとっては有名(笑)。


由布院(峯崎)キリシタン墓群


由布院の峯崎キリシタン墓群への道は、整備されてはいるものの、どこか人の侵入を拒む感じも。ちょっと入って行きにくい雰囲気っていうんでしょうか。

湯布院町教育委員会が建てた解説板には以下のように書かれていました。

当地のキリシタンは、約410年前の天正八年(西暦1580年)湯布院郷士の一人、奴留湯左馬介(ぬるゆさまのすけ)が、部下とともに洗礼を受けた事にはじまります。その翌年には、伝導所が設置され天正14年には立派な教会堂が建てられ、領主フランシスコ大友宗麟の庇護もあり、信者は1500人とも2000人とも言われた。しかし徳川幕府の禁教により、慶長19年(西暦1614年)以降、きびしい「宗門改め」が行われ、キリシタンは一応終えんしたが、いわゆる隠れキリシタンとなったのも多くいた。歴史を物語るように町内には、多くのキリシタン墓があるが、一番多いのが、この並柳・峯先墓地で十字章のあるもの三十基、隠れキリシタンのものと見られるもの約四十基があり、苔むした墓に昔の面影が偲ばれる。」



墓碑


少し登ると、左右に墓地がありました。向かって左手に整然と並べられているのがキリシタン墓碑のよう。

元々このような形に置かれてなかったことは、周りを見渡すとわかります。

十字などのキリシタン墓碑らしい意匠が刻まれているものは文化財指定を受けて並べられていますが、それ以外の墓碑は端に追いやられて散らばっています。この中にもキリシタン墓碑はあるだろうということで、解説で「隠れキリシタンのものと見られるもの約四十基」と言っているんでしょうか。

登り口から向かって右側になる墓地には、近年のものと見られる仏教式の墓碑があり、その周囲にまた石がが散らばっています。自然石を利用しているものもあって、山から転がって来たのか墓碑なのか、判別できないくらい全体的に雑然としています。



十字架


文化財指定を受けた墓碑は、一つひとつ標柱が建てられているので、よくわかります。

確かに大きな十字が。

墓碑の真ん中に四角形の穴が彫られているものは、そこに十字架か何かを差して立てていたのでしょう。

どれも苔や藻類に覆われて、葉陰で息を潜めているような印象。キリシタンの姿と重なります。



散らばる墓石


この散らばったままになっている石の中にもキリシタンの墓碑があるだろうことは、誰の目にも明らか。だけど今となっては判別する手段もなく、全部を保存することも困難なのでしょう。

居たたまれない気持ちにはなりますが、自分が何か具体的なことをできるわけでもないので、黙るしか。

しかしこうやって訪れる人がいれば、それを見て地元の人がもっと整備してあげようと思ってくれるかもしれません。誰かが足を運び続けることで、地元の関心を喚起できたらと思います。


奴留湯左馬介について


さて由布院のキリシタン史は、どんな解説でも奴留湯左馬介から始まっているのですが、その典拠となっているのはフロイスの「日本史」¹。全部引用すると長いので、要点だけ整理してフローにしますね。

府内から二里離れた大在と称する地に若い貴人(奴留湯左馬介)がいたが、日向の戦に参加して深手を負い、瀕死の状態となった。家来の一人(仮にAとする)は、危険を冒して主人を助ける決意をした。この時は左馬介もAも異教徒だった(つまりキリシタンではなかった)。
 ↓
Aは死屍累々の戦場から左馬介を見つけ出し、敵勢が多くいる所から助け出そうとしたが、発見され捕らえられた。Aは「これは私の兄だ」と偽って同情を買い、捕虜として留め置かれたものの、左馬介を介抱することは許された。しかし敵は左馬介を他の敵に売り飛ばしてしまった。Aは別のところに売られたので離れ離れになった。
 ↓
それでもAは諦めず、左馬介が薩摩のある家に奴隷として売られたことを突き止めて、他国の一商人(仮にBとする)に頼んで、その家から左馬介を買い戻してもらった。そして左馬介は豊後の故郷に戻って来た。死んだと思っていた左馬介が生きて帰って来たので、村では家人も民衆も大喜び。
 ↓
デウスは左馬介に「光明を授け給い、彼は妻子、および家人を挙げてキリシタンになった。そして彼にはパンタリアンという教名が与えられた。奴留湯殿はさらに父や兄弟をもキリシタンにしたが、彼らの間ではキリシタン信仰熱が大いに高まって、家臣、親族、友人、知人などがその後短期間に改宗して、府内から七里のところにある由布の地では千名を超えるキリシタンが誕生した。」
 ↓
聖ミゲル教会が建立され、由布地区のみならず、玖珠でも信徒が増加。パンタリアンはイエズス会に並々ならぬ愛情を抱き、人々に感化を与えたので、大在地区の7人の頭(左馬介はその1人だった)のほとんど全員がキリシタンとなった。パンタリアンは自宅の近くにも教会を建てたが、そこには府内のコレジオから司祭が来てミサを捧げた。
 ↓
パンタリアンは自分の命を助けてくれたAがどこに売られ奴隷をしているのか万策を尽くして知ろうとしたが、わからなかった。恐らく死んでしまったのだろう。「奴留湯殿はこの家来の話をする時には、たとえひとり息子しかいない母親でも、この家来が自分に示したほどの深い愛情を表すことは不可能であろうと言っていた。」


このフローを読んで、皆さん疑問に思われないでしょうか?
左馬介がいかにしてキリシタンになったのかが全く述べられていません。フロイスの筆では「(デウスが)光明を授け給い」となっていますが、実際には誰かが宣べ伝えたから、左馬介は信じるようになったはず。この点をフロイスは書き漏らしているようです。

左馬介が一番話を聞きそうなAは異教徒(非キリシタン)なので、布教はできません。故郷に連れ戻すのに関わったBが、左馬介にキリスト教の証をして、宣教師につなげたのでしょうか。それが可能性が高いかと思われます。文中に出てくる玖珠には、由布よりも前にイエズス会司祭と修道士がいて、キリシタン宗団を育成していたことがわかっているので、そこから人が来て「命を助けてくださったのはデウスだ」と宣べ伝えたのかもしれません。

しかしそれでも、フロイスの書き漏らしは痛いですね。わざと具体的なことを書かなかったのかもしれません。全てがデウスのご威光であると強調したいがために。だけどもうちょっと事実ベースで書いてほしかったです。デウスのご威光と感じるかどうかは、後世の人に任せて。


¹ ルイス・フロイス著、松田毅一・川崎桃太訳「完訳フロイス日本史7 大友宗麟篇Ⅱ」(2000年、中央公論社)p212~217,p322


由布岳


こちらは由布岳。ツインのピークにちょうど雲がかかっているのが残念ですけど、それでも良い眺めです。

フロイスの「日本史」によると、この山頂に大きな十字架が建てられていたようですね¹。

由布岳は古来、神のおわす所として信仰の対象となっており、由布院にある宇奈岐日女神社(うなぐひめじんじゃ)の御神体はこの山そのものでした。が、天正8(1580)年にキリシタンたちがこの神社に乱暴狼藉を働き、社宝を棄却しています。その流れで、御神体である山には十字架が建てられたのでしょう。

信仰に基づく文化財の破壊行為が、どれだけ大きな禍根を残し、カウンターパンチを食らうことになったかは、豊後の歴史を見ると明らか。宗教的熱心さでそういうことをすると恨みを買いますよね。彼らも信仰に基づいて宝と思うものを敬い、儀式を執り行ってきたのですから。


¹ ルイス・フロイス著、松田毅一・川崎桃太訳「完訳フロイス日本史8 大友宗麟篇Ⅲ」(2000年、中央公論社)




金鱗湖


こちらは金鱗湖。観光客が多くいます。人気なんですね。

立ち寄ったお土産屋さんでグレゴリオ聖歌が流れていたのですが、そこである人が私に語ってきたのが、「何か感じません?やはり日本は古来からキリスト教受け入れた、信仰の国なんですよ」という話・・・。

景教が日本にも伝来し、そこかしこにその痕跡が残っているのだから、それを知って日本人は目覚めるべきだという主張ですね。景教に関心を持っている人の中に時折見かけるタイプです。そこまで確信していなくても、日本には昔きっと景教が伝わっていて、仏教や神道の中に溶け込んでいるのだから、日本は隠れたキリスト教の国だと信じている人がいます。

個人でどんな考えを持つかは自由ですが、あれもこれもその証左だと言い出したら妄想の域ではないかと心配になります。だけれど景教を勉強する牧師の中には、それを宣教に役立てようとする意図を持っている人も少なからずいて、そういう人たちとの付き合いをどうしていいのか、途方に暮れることがあります。


そんな風に日本宣教をすべき?


「高野山に景教碑があるんだけど、それは空海が景教を学んでいたからだ」とか、「浄土宗の思想には明らかに聖書の影響がある」とか言って、キリスト教に興味を持つよう話を持っていったり、「だから先祖が浄土宗でも、あなたは教会に通ったらいいよ。心配しないで、根っこは同じなんだから」と言っている牧師を知っています。

こんな風に宣教することが、私にはいいことに思えなくて、そこにアレルギーがあるんですよね。「広隆寺は本当はキリスト教の教会だ。弾圧されないために巧妙に秘されているけれど」とか、「隠された十字架」だとか言うんですが、その時代はキリスト教、禁じられていませんから。誰かが先進思想として持ち込んだのなら、別に仏教や神道の文物に仮託せずともいいのです。

その辺が妙にこじれている人がいるのですが、どこから解こうにも、信じ過ぎていて、私のことを物事を表面的にしか見ることのできない堅物(一種の阿呆)のように認定してくるので話にならなくて。そんなトンデモ説にアカデミックな世界に身を置く人たちは時間を奪われたくないのか、ほぼスルー。だから大学で景教を教えることのできる人は皆無です。

トンデモ話が幅を利かせていて、そこから抜け出すのにものすごい労力が必要だからであろうと推察します。でも誰かやってほしいですよ。正史を基にちゃんと学びたい人もいるはずですし。



湯布院のお土産街


ある人がまた、「あれ見て。軒下に動物がいるけど、日本にいない動物だよ。聖書の中の動物だ。あそこには魚。イクソスだよ。隠れキリシタンの証拠がたくさん残っている」と話しかけてきて、何と答えていいか困りました。

「隠れキリシタン」と景教がこんがらがっているみたいですが、景教ならば隠れる必要がなく、桁に取り付けられている魚は懸魚(げぎょ)という、木造建築に施される火除けのまじないです。古今東西どこにでもあります。破風やら屋根やらいろんな所に設置され、形のバリエーションも豊か。

とりあえず景教に関しては、十字架以外の形象を使わなかったと考えられています¹。少なくともイクソスは聞いたことないですね。景教は、もし日本に伝来したんだとしても、中央アジアや中国を経てきたはずなので、そこに無かった形象(デザイン)が、日本で急に現れるはずはないですよね。

もちろん景教の分野にも「あれが景教徒の印だ、これは聖書に出てくる〇〇だ」と主張する人はいるんですけど。あ、それ考えたらキリシタン遺物の研究家たちとダブってきた・・・ここはもう号泣しようか (ノД`)・゜・。


¹ 桑野淳一「中国、景教の故地を歩く」(2014年、彩流社)


菜の花


湯布院の土産屋ストリートは鎌倉の小町通りのよう。規模は小さいけれど、センスの良さが光ります。

買い物もできて良かったです。ご当地スイーツも美味しくて。

由布院には教会だけでなく、レジデンシア(宣教師の駐在所)が置かれていました。その推定地もわかっているようですが、今日はいろいろ回れないので、再訪を期すことに~。


由布院のレジデンシアと教会


ヴァリニャーノもカブラルも来て、大友宗麟も来たはずなので、教会やレジデンシアの跡地にはいつか行きたいですね。レジデンシアはどこにでも置かれたのではなく、先に福音が入った玖珠ではなく、玖珠と由布院と合わせて一つのレジデンシアが由布地区に置かれたようです¹。それだけ有望な宣教地だったのでしょう。そこに詰めた宣教師はゴンサロ・ラベロ。日本人修道士マチヤスも派遣され常駐しました。

豊後ではそれまでに、府内にコレジオとカザ(住院)、臼杵にノビシャード(修練院)とカザ、野津にレジデンシアがあったので、由布院のレジデンシアはイエズス会にとって豊後で四番目の拠点となったわけです。また由布院の聖ミゲル教会は、臼杵の教会と等しいものだったとか²。

臼杵の教会は大友宗麟が情熱と財力を注ぎ込んで天正10年に完成させたもので、大変壮麗だったと記録されています³。それと同じくらいの聖堂を、自分たちで材料を寄進して建てただなんて、由布院のキリシタンの頑張りがうかがえます。


¹ 「耶蘇会日本年報第一輯」1581年9月15日附、パードレ・フランシスコ・カブラルより耶蘇会総長に贈りし書簡
²「耶蘇会日本年報第二輯」1586年10月2日附、臼杵発、パードレ・ゴメスよりパードレ・アレッサンド・バリニャノに贈りし書簡
³「耶蘇会日本年報第一輯」1582年2月15日附、長崎発、パードレ・ガスパル・コエリヨより耶蘇会総長に送りたるもの


湯布院温泉


お風呂はやっぱり湯布院の温泉に。ちょっと早い時間帯だからかほとんど貸し切り状態。サッパリしました。

同じ豊後国の朽網でそうであったように、由布院でも宣教師や信徒たちは温泉で疲れを癒したことでしょうね。現在の直入町原のINRI石碑は、朽網のルカスが建てた大十字架の上部だろうといわれていますが、由布院にも同様のものがあったと考えられます。

ルカス老人のような信徒指導者もいました。由布院にいた信徒指導者のジョウチンは殉教してしまったけれど。高田の鍛冶屋ジョラン一家も、国主 大友義統の命で処刑されました。豊後キリシタンの栄耀は一炊の夢のようです。ここまで来たので由布院のキリシタンの終焉まで書いておくようにしますね。


由布院のキリシタンの終焉


天正6(1578)年、日向の高城・耳川の戦いで大友軍を撃破した島津軍は、大友領に進攻して領地を切り取り手中に収めました。その後機の熟するのを待ち、天正14(1586)年、大友配下の豪族たちの内通を足掛かりに、豊後に侵入しました。

キリシタン嫌いの島津氏は、侵入地にあった各地のカザ・教会堂をことごとく破却。そのため豊後に駐在していた宣教師たちは、数名を残して山口に逃れました。この年の12月に島津軍は由布院にも及び、玖珠にあった角牟礼城を攻略。由布院にいたゴンサロ・ラベロは妙見のレジデンシアに逃れ、そこも安全ではなかったために、妙見にいた宣教師と山口に向かいました。

この時由布院と妙見のレジデンシアは打ち壊され、11か12個の教会が焼失したのですが、その中には出来たばかりの非常に大きく華麗な教会堂もあったと、ルイス・フロイスがイエズス会総長に報告しています¹。つまり立派な聖ミゲル教会が建造され、それが島津軍によって破壊されるまでの1年余りが、由布院のキリシタンの最も栄えた時期だったと言うことができます。


奴留湯氏と信徒たち


その後は奴留湯氏も離散してしまい、イエズス会は再びレジデンシアを由布院に設置することはありませんでした。残された信徒たちも生活の復旧に精一杯で、信徒指導者も処刑されたため、キリシタン宗団を維持できなかったと考えられます。

天正15(1587)年5月、大友宗麟が津久見で死去。イエズス会は豊後で最も強力な庇護者を失いました。伴天連追放令が出されたのは、その翌月。由布院の指導者ジョウチンが、義統の命を受けた家臣によって殺されたのは天正17(1589)年頃でした²。その後は「人蓄改帖」や転び証文で、元信徒が徐々に他界していく様を追うことしかできません。


¹ H.チースリク『妙見のレジデンシヤ』(キリシタン文化研究会会報第二号)、1587年10月2日附、平戸発、パードレ・ルイス・フロイスより耶蘇会総長に送りたるもの
² ルイス・フロイス著、松田毅一・川崎桃太訳「完訳フロイス日本史8 大友宗麟篇Ⅲ」(2000年、中央公論社)第76章




人間の幸せ


今日も熱く書きまくり、ふと「この情報、私以外で知りたい人いるかな?」と思って立ち止まり、ちょっと寂しくなりました。読む人の不便さを考えてなかったなと反省する気持ちと、「こんなの誰も読まないよ」という嘆息が入り混じって、深い穴に落ち込みそう。

だけど・・・。人に認められたくて書いているかと言えば、そういう部分があるにしても、全部ではないと思います。欲も欲求もありますが、それが私を一番幸せにするものではないことを、どこかで知っているから。

自分の欲求が満たされることを幸せだと思いがちだけど、価値があると思う仕事に忠実に取り組むことが、人間の幸せではないでしょうか。欲は満たせても心を満たすことができないことを見ても、それがわかる気がします。

「独りよがり」という言葉が浮かばないでもないけれど、それでもやっぱりと考え直し、旅を続けていこうと思います。でもたまにでいいので、誰かほめてくださったら喜びます。よろしくお願いします♪(←それが言いたかったのかw





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