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キリシタンのあしあとを求めて各地を旅してめぐります♪

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 虹色の我愛你(ウォーアイニー) 1


台湾って、いつか誰かが誘ってくれて行けるんだろうと思ってました。でも意外と行けるチャンスは来ないもので、待っててもダメそうなので、自分で計画して行っちゃうことに。その方が行きたい所に行けますしね。

ということで、初めての台湾一人旅。中国語は你好(ニイハオ)と謝謝(シェシェ)しか知らないぞ!(自慢にならないw)。無事に行って来られますように♪



羽田空港


今回台湾へは羽田から。我が家から近い羽田から国際線が飛ぶようになって、とっても便利になりました。成田より多少割高だけど、成田までの時間と費用、労力を考えると、こっちが楽。早く着き過ぎてしまったけれど。汗


「台湾」?「中華民国」?


さて私などは何も考えずに「台湾台湾」と言ってますが、正式名称は「中華民国」。しかし1971年に中華民国は国際連合を離脱したたため、国際的には「中華民国」という国名が使用されることはありません。 オリンピックなど国際的なスポーツ大会では、「チャイニーズタイペイ」とコールされていますよね。

よく「この大会には、100の国と地域が参加しています」とか言いますが、その「地域」扱いなのが台湾なのです。実質的には「国」なんだけど、「国」扱いすると中国が強く反発するので、「チャイニーズタイペイ」。もっと言うと、日本政府も台湾を国として認めていないんですよね(複雑だなこれ・・・)。

イメージしてる「台湾」と、国際的な地位や状況は違うんだなと感じます。




府中駅


台湾桃園空港へ着いて、MRT(鉄道・地下鉄)で府中駅に。今日から5日間こちらが最寄り駅です。駅前にファミリーマートがあるのは心強いところ。明るくてほどほどに開発された町みたいですね。

日本から予約していった宿は「板橋王旅館」というリーズナブルな宿。シングルのはずが、ダブルベッド2つに広いバスタブ付きのいい部屋を当てがわれました。ゆっくりできそうです♪


「台湾」との国交は断絶中!?


さきほど「台湾」なのか「中華民国」なのか、「国」なのか「地域」なのかについて触れましたが、もう少しインフォメーションを。台湾ツウの人なら十分知っているようなことなのかもしれませんけど。なんと・・・日本は台湾との国交がないって知っていました?

「え、人気の旅行先なのに?」って感じですよね。「国として認めてないから?」とも。そう、「国」じゃないからというのもありますが、国交が断絶されているんです。きっかけは1972年の日中共同声明。これにより日本が中国と国交正常化したために、日本は台湾と国交断絶することになったのです。

でもそれじゃあ実際的に困るでしょうと、互いに連絡機関(日本側は日本台湾交流協会、台湾側は台湾日本関係協会)が設置されて今に至っているのです。何と言うか、暫定措置みたいな感じでしょうか。国の呼称であれ、国交であれ、中国のプレッシャーから自由になれなくて、私が台湾人なら相当フラストレーション溜まると思います。。

だけどまあ、呼び名は「台湾」でいいんだと思います。「国交がない」ってことも意識しなくていいくらい両国の関係も友好ですし~☆



ホテル

室内

前の道

庶民的な町

とりあえずご飯


駅前から少し歩くとかなり庶民的、かつローカルになる町のようで、地元民しか相手にしないお店が多そう。

まずはご飯を食べて落ち着こうと、一見さんにも入りやすいチェーン店のカフェへ。歩道に張り出したテーブルはご愛敬 (^^ゞ

バーガーと豆乳は素朴な味わい。台湾は中国や韓国より胃腸にやさしい食べ物が好まれるのかな。


店内と歩道

メニュー

アンパンマン・・・?

何か祀ってある所

地下鉄


台北市民の足MRTは、ほとんど地下を走り、郊外だけ地上を走ります。これが日本とシステムが似ていて便利。

日本のスイカみたいな交通カード(悠遊カード)もあります。コンビニ等でも使えるので、交通カードに大目にお金をチャージ。

駅がやたら広くて近代的です。



鄭南榕紀念館のあるビル


MRTを板南線から文湖線に乗り換えて、「中山国中駅」にやって来ました。

駅から徒歩10分くらいの所に鄭南榕紀念館があり、ここが最初の目的地。

鄭南榕(てい・なんよう)は台湾民主化運動の先頭に立った人で、台湾人なら知らない人がいないくらい有名だそう。私はこの人のことを最近知ったのだけれど、とても興味を持って。

今回台湾に来たのも、鄭南榕のことを知りたかったのが目的の一つだったりします。単に「台湾に行ってみたい♪」という気持ちが大きいのも事実ですが (^_^;)

紀念館はビルのワンフロア(3F)みたいですね。ブザーを押して待つと応答があり、来意を告げて中に入れてもらいます。あー、やっぱ中国語もしくは英語か。果たして私の英語力でいけるのか心配だ。。



ビル

入口

インターホン

鄭南榕紀念館


紀念館に入っていくと代表の方と数人のスタッフが迎えてくれました。

予め行く日時と日本人であることを連絡していったら、日本語のできるガイドさん(学生ボランティア)が来てくれていました。ありがたや。

ガイドについて見学スタート。まずは台湾の民主化運動の歴史から。いやこれが、ほんとに知らないことばっかりで。たぶん私だけでなく多くの日本人が、台湾にこんな過酷な闘争があったと知らないのではないかと思いました。


台湾民主化運動の軌跡


上に述べたように、今も中国との関係がネックとなっている台湾ですが、中国からの支配を受けない民主政治を手にするまでにはものすごい困難がありました。第二次世界大戦後、台湾は中国から渡って来た国民党政府が支配しており、1987年に戒厳令が解除されるまでの期間、反体制派とみなされた多くの国民が投獄・処刑されました。これを白色テロ(政府側から市民に対して行う暴力行為)と言います。

中でも知られているのが二・二八事件。1947年に起こったこの事件で、外省人(中国から来た人々)を中心とする国民党政府は、本省人(台湾人)を弾圧・虐殺したので、政府に対する抗議デモが全国で起こることとなりました。しかしデモは鎮圧され、政府による統制は一層強められました。


鄭南榕と台湾独立運動


鄭南榕は、二・二八事件の年に、外省人の父と、本省人の母との間に生まれました。1981年頃から台湾独立と民主化の必要性を主張する言論活動を始め、1984年、「100%言論の自由」と謳う雑誌「自由時代」を発刊。政府による言論統制も恐れず、当時の政治の舞台裏を暴き、数え切れないほど発禁処分となりました。

次第に主張を行動にも移し、38年にも渡り戒厳令が布かれている(世界最長)ことの異常さを訴える集会を開きました。1988年12月には週刊「自由時代」に「台湾共和国新憲法草案」を掲載。この憲法草案の作者は、当時日本に亡命中であった独立運動家で学者の許世楷(きょ・せいかい)でした。

展示物と解説パネルではその一連の流れを詳しく知ることができます。恥ずかしいですが、初めて知ることが多く、台湾のイメージがどんどん変わっていきます。



228事件の記録

卒業証書

座り込み

抗議でも

展示室

雑誌

雑誌編集の様子

展示品

焼身自殺した現場


衝撃的だったのが、鄭南榕が抗議の焼身自殺をした部屋がそのまま残されていたこと。

政府軍に囲まれ、そのように亡くなったことは知っていたけど・・・。

そうか、それで今も紀念館はここにあるわけですね。雑誌発行をしていたビルのまま。煤で黒くなった室内に、焼けて曲がった窓枠などがそのまま保存され、そこに鄭南榕の遺体がどのように横たわっていたかまで写真で示されています。目の前にあるこの光景が、あまりにリアルで言葉になりません。





鄭南榕の姿

室内

焼けた天井

窓枠

十字架


鄭南榕はクリスチャンではないけれど、台湾独立運動には多くのキリスト教者が参加し、バックアップしていました。展示品の中には十字架も。

憲法草案を作った許世楷は、現在の台湾独立建国連盟で活動していましたが、同じ頃クリスチャンの金美齢も同連盟に参加していました。

十字架の解説文には「鄭氏が雑誌社に立て籠もった当時、台湾長老派教会が雑誌社に赴き祈祷に使ったもの。」と書かれています。鄭南榕も一緒に祈ったことでしょう。



室内図

印鑑

遺品

夫人が立候補

ビル


紀念館のあるビルが今も現役で使われているくらい、そんなに昔でないのが鄭南榕の抗議活動。台湾民主化運動・独立運動はたった30年ほど前のことだったんですね。

いや、独立運動はある意味今も続いているのか。

「2つの中国」という問題は、今も解けておらず、台湾の国会では民進党(民主進歩党)と
国民党(中国国民党)がしのぎを削っているんですから。

紀念館で見た動画(↓)に映っているのが、正に今いる所なんですね。外装の赤い部分とかが当時のままです。来る時何気なく見上げた外観が、ニュース映像と同じであることに気づき驚きました。





階段

出入口

入口

ビル


中正紀念堂へ


中正紀念堂、遠い・・・


再びMRTに乗って、中正紀念堂駅へ。地上に上がると中正紀念堂が見えますが・・・遠っ!

「広い」というより「遠い」と形容するしかないこのスケール感が、ザ・中国ですね。

広場の両側にある中国風の建物が劇場とコンサートホールだとか。国家の威光を表す建物群だなと思います。



中国風建物

軒先

両側に建物

植栽

中正紀念堂


たっぷり10分はかかって中正紀念堂へ。何やら人が集まっているのは、儀仗隊の交代式が行われているからのよう。

人の後ろからだったので、背の低い私に見えたのは儀仗隊の帽子くらいでした。目当てにして来たわけではないので大丈夫ですけど (;´▽`A``

中正紀念堂の真ん中にどっかと座っているのは蔣介石。「中正紀念堂」の「中正」は蔣介石の本名で、ここは初代総統である蒋介石の顕彰施設なのです。

孫文はクリスチャンだけど、蔣介石はクリスチャンではないですよね。だけど奥さんの宋美齢はクリスチャン。宋美齢が台湾独立運動にも参加していたというのは不思議なねじれ現象に思えます。また宋美齢は孫文の奥さんである宋慶齢の妹ですね。この2人を含む宗家三姉妹も興味深いところです。姉妹のお父さんは元々メソジストの牧師ですし。



中正紀念堂大きい

中に人いっぱい

蔣介石

儀仗隊交代式・・・

広場・・・

中正紀念堂

階段修復中

自由廣場


中正紀念堂の反対側にある「自由廣場」と書かれた門の所まで歩いたら、ゆうに15分かかりました。

もうこの距離感、何!?

北京で見た天壇に似てるなーと思っていたら、中正紀念堂は天壇を模して作ったものだそう。どうりで距離感も似てるはずですよ。天壇でも驚くほど歩かされました(そのときの旅行記は「初めまして!北京三日目」に)。台湾は島なのに、中国の大陸的な距離感やスケールを踏襲しているようですね。Formosa(美しい島の意で、台湾の古い呼称)に持ち込まれた大陸を感じます。

以前はこの門に「自由廣場」ではなく、「大中至正」と書かれていましたが、2007年に総統だった陳水扁 (ちん・すいへい)が広場を「自由廣場」と命名し、扁額の文字も変えたのだとか。個人崇拝色を取り除こうとしたんでしょうね。でも中正紀念堂自体が個人崇拝バリバリだから、少し薄まった程度かも。



「自由廣場」

門も巨大

門と中正紀念堂

外をてくてく


門から出て塀の外をてくてく。中心部を回るのにMRTに乗ることもできるけれど、駅から歩くことを思うと、結局同じくらい歩くことになるので、もう徒歩で行っちゃおうと思い。

街路樹にフェニックスやソテツ、ガジュマルというのが南国ですね。

あ、8月なので、当然暑いです。蒸し蒸しもすごくて。でも日本人には死ぬほどではないですね。




お大師さん?

建物

街路樹

台北迎賓館


横断歩道の先に見えてきたのは台北迎賓館(台北迎館とも)。今日は公開日ではないから入れないもよう。ちょっと見てみたかったですけどね。涙

台北迎賓館は、日本統治時代に台湾総督官邸だった建物。今も国賓をもてなす施設として使われています。台湾赴任中の新渡戸稲造も来たことあったんじゃないかな(想像)。

今回旅行に先立って調べてみて、台湾では日本統治時代の建物が多く残されていて、それらが今は台湾を代表する観光スポットになっていることを知りました。それはきっと両国の友好関係が反映されていることで、とても良いことですよね。



外から少し見えた

台湾総督府

建物

二二八和平公園


来ました、二二八和平公園。広い公園内には市民が憩える様々な設備があるようです。

1908年の開園当初は「台北新公園」という名前でしたが、1996年に「二二八和平公園」に改名されました。

改名したのは先ほども出てきた陳水扁。当時は台北市長でした。

陳水扁は民進党で初めて総統になった人物。半世紀に及ぶ国民党政権を、民主的な直接選挙によって終焉させた意義はとても大きいと言えるでしょう。2008年に収賄などの容疑で起訴されて、判決確定後の2010年から収監。2013年にはトイレで自殺未遂を起こしましたが一命を取りとめ、現在は仮釈放されていると聞きます。



二二八和平公園

園内地図

台湾について

様々な社会運動

台北二二八紀念館


それでは園内にある台北二二八紀念館へ。今日はしっかり台湾の独立運動を学ぶ日にしようと思ってますので。

この紀念館のある所は、日本統治時代に「台北放送局」というラジオ放送局があった所。二二八事件の際には市民がここを占拠し、全国に向けて放送を流しました。

台湾では、事件の起こった場所に紀念館を建てて記憶を残すことが多いんですかね。意味ある場所を大切にするというか。


台湾の独立運動


台湾における独立運動は、1945年まで50年間統治してきた日本に対して、まず起こりました。しかしそれほど規模の大きなものには発展せず、第二次世界大戦後にも、台湾の人々は「中華民国」となることと、中国国民党(以下「国民党」)による支配を人々は受け入れました。

しかし次第に中国から来た外省人と、元から台湾に住んでいる本省人との違いが浮き彫りとなり、「台湾人」として生きたいという願いが高まるようになりました。これは「一つの中国」を主張してきた中国との対立を意味し、外省人を中心とする国民党政権は、独立運動の火種を消そうしたため各地で軋轢が生じました。


独立運動と民主化運動


独立運動は、台湾の民主化運動と同時に行われていました。民主化しなければ、国のあり方を自分たちで決めることができないので、まずは民主化が先となり、独立運動は現在も形を変えながら継続されています。

しかし民主化する際に相手となったのが国民党(今でも正式名称は「中国国民党」)で、「独立国」になる際にネックとなるのも中国です。国民党の人たちは基本中国人で、中国側の考え方(「一つの中国」)を踏襲しているので、独立と民主化は2つに分けて考えることができない問題なのです。





放送塔

民主が響き始める

撒かれたビラ

第二次世界大戦下

二二八事件


国民党支配に対する不満が高まってきたときに、一つのきっかけで勃発したのが二二八事件です。

1947年2月27日、闇タバコを売る女性が警察に取締りを受け、助けようとして集まった市民に警察側が発砲。市民の一人が銃弾に倒れ、抗議デモが起こりました。

デモを抑え込もうとする警察と市民とが衝突し、実力行使に出た市民は放送局を占拠。このようなことが台北で起こっていると伝えました。すると全国にいた知識層の人々も加わるようになり、対立は激化。台湾全土で政府による市民への暴力、処刑が全国に拡大しました。

国民党政権は中国から援軍も送り(当時国民党本部は中国にあった)、武力で鎮圧しましたが、犠牲者の数は1万8千〜2万8千人に上りました。何が悲しいって、処刑する方もされる方も同じ国の人間だということです。この傷は深く残るものでしょう。

解説板と展示品とはその様子を物語るもの。所々に日本語も添えられています。



二二八事件の勃発

足下に地図

展示室

犠牲者に捧げる詩


当時の写真

武装対抗

時系列で解説

受難曲


「受難曲」と書かれた扉の前に、百合の花が捧げられた白い回廊が伸びていました。

ここからは追悼する気持ちで見学していくことにしましょう。

二二八事件は台湾の受難の序章です。事件のときに発令された戒厳令は一旦は解除されましたが、1949年5月に改めて発令され38年後の1987年まで継続したのです。こんなにも長期間戒厳令が布かれていた国は他にありません。

この間台湾の司法・行政の全ては、国民党の下におかれ、白色テロによる恐怖政治によって、多くの台湾人が投獄、処刑され続けました。戒厳令が出されていたのは、総統でいうなら蒋介石(1975年まで)とその子の蒋経国(1988年まで)です。



白い百合

妊婦と子供、老婆像

犠牲者の名前

犠牲者

証し

言葉

調査が進められている

鄭南榕像


順路に従ってめぐって行くと、最後にあるのが鄭南榕の胸像が置かれた部屋です。二二八事件の精神は鄭南榕に引継がれ、台湾独立・民主化運動が次の段階まで押し進められるようになったことを示しているようです。

鄭南榕は1987年、二二八事件平和促進会を立ち上げ、事件の真相解明と名誉回復、本省人と外省人の和解を訴えました。

これらは鄭南榕の生前ははかばかしい成果が上がりませんでしたが、彼の死後(あるいは、死により)、運動の火は一層強くなり、民主化後(1996年から)の台湾では事件の真相が次々と明らかにされ、謝罪と名誉回復が行われています。


台湾の民主化


民主化が1996年だなんて、ほんとに「つい最近」という感じがします。蔣介石・経国父子の死後、国民党主席についた李登輝が台湾の民主化を進め、1996年に初めて人民が総統を選ぶ直接選挙が行われ、これを「民主化」と呼んでいます。しかしこの選挙で選ばれた総統は李登輝で、国民党の支配は続きました。

それが変わったのは第二回目の総統選で、その当選者が民進党の陳水扁。現在政権を握る蔡英文も民進党です。しかし中国を背景とする国民党の巻き返しも強く、次はどうなるのかわかりません。国民党も民進党も参画して民主化は実現されたけれど、台湾の独立に関しては2つの党の意見は分かれています。

これからどうなるのだろうという懸案が、重く心に残ったまま館を後にしました。



真相調査

最後の部屋へ

和平運動

名誉回復

賠償

馬英九

鄭南榕

解説


二二八事件のモニュメント


外に出て、園内地図で見つけた二二八事件のモニュメントを見に行きました。1995年に建立されたそうです。民主化の前ですね。その頃にはもうだいぶ民主化の兆しが見えていたのでしょう。

モニュメントは池の上に建てられていて、水は真ん中に流れ込むようになっています。中央がモニュメントの陰になって暗いので、水が流れている様子が、私には怖くてたまりませんでした。

この水やモニュメントは何を表しているのか、解説がなくてわからなかったけれど、私が受けた印象は「明けきらぬ朝」と「伏流水」ですかね。 天に伸びる切っ先は、切実な願いのような。



モニュメント

中央

二二八紀念碑碑文

公園

国立台湾博物館


1895~1945年まで50年間、日本の統治を受けてきた国――。そんなことさえも、台湾を訪れるまで頭に上ることがありませんでした。

だけど来てみると、否が応でも認識するようになります。植民地時代からの建物が今も残され、それが観光名所となっているから。

国立台湾博物館もそうですね。ギリシャ神殿風の破風と柱、その上にローマ風のドームという出で立ちは荘厳ですが、日本人には既視感が。ここは上野か?という感じ。広い公園もありますし。。



正面玄関

展示室

マンモス

展示室

館内


館内に入ると、ここは上野か?という思いが一層強くなります。

1915年に完成したこの建物の建築にあたったのは、野村一郎という人で、先に見た台湾総督官邸(台北賓館)や、朝鮮総督府も手掛けたのだとか。なるほどですね。

大理石とタイル、高い天井。手すりや窓枠には木材を用いて落ち着きを出し、細部に石膏で意匠を加えた辺りなんて、日本に同時代に造られた建物とそっくりです。そして私にとっては非常に好きなテイストですね。ご飯何杯でもいけそうな感じです(?w)。しかもレベル高いです。要素の構成密度も。



階段

タイル

ギリシャ風モチーフ

天井と柱



手すり

天井

展示室


展示内容は、上野の国立科学博物館と国立博物館とを併せて一つにしたみたいです。マンモスや台湾の動植物の展示あり、民俗的な物の展示もあり。

建物と展示物とのコラボで魅せるという点も、世界の趨勢なのかもしれませんが、日台に共通することのようで。

見ていると美しさも感じて、博物的な興味の上をいくんですよね。





展示

展示

展示

展示室

民俗的な物

日本人による研究

研究

自然の展示

台湾に残る日本


台湾に残る20世紀初頭の日本を感じて、美しさに感嘆する一方で、単純に喜べない気持ちも湧いてきます。

当時の、植民地支配を広げて意気揚々と、恐らく傲岸な顔をしていたであろう日本人の姿が浮かんできて。

1900~20年代はこういう建築物が日本と支配地でよく建てられ、1930年代になると帝冠様式という、鉄筋コンクリート造の洋式建物に日本風の屋根を乗っけた建物が流行ります。帝冠様式のものは、さすがに海外では建てられなかったようですが。

しかし歴史的な背景を鑑みると、いずれも日本の帝国主義と結びついていて、うーん。。という思いがしてきます。上野がここにあることを台湾の人は受け入れてくれているようですが、韓国では同じ人が設計した朝鮮総督府が、日帝時代を想起させるとして壊されています。その意味では、台湾と朝鮮の違いも考えさせられるところですね。



細部

エントランスホール

ドーム天井

窓辺

出入口にあるトラの絵


出る前に見ておきたいのが、出入口にあるトラの絵。これ、旗だそうです。

日本統治時代に入る直前にほんの5ヶ月だけ存在した台湾民主国という国があったのですが、その国旗の複製だそうです。

国旗というと、今の台湾の「青天白日旗」を思い浮かべてしまうので、これを一目見て国旗だとわかる人は、外国人ならかなりツウかと。

最初の抗日運動の成果であった台湾民主国は、もろくも日本に敗れて、国旗は戦利品として日本に持ち去られましたが、複製がこちらに戻ってきたそうです。

この旗を近年修復したところ、旗がリバーシブルになっていて、虎の目のところが違うことがわかったそうで、とても大切にされているのだとか。台湾民主国という国の存在を知らない人が、(日本には)多いと思うので、何か目に見える物が残っていることは貴重ですね。



台湾民主国の国旗

照明


玄関

野外展示


博物館外のには石器が野外展示されています。台湾には古代から人が住んでいたのだから、その頃の遺物も多くあるはず。これからより古い時代の物も注目されていくことでしょう。

だけど、交流による文化的影響とは違う形の、大陸と日本の痕跡を目にするたび、これらを受容した台湾の人たちの心はどうだったのだろうと考えてしまいます。

日本統治時代が終わり、国民党の支配となったことを、台湾の人々は「狗去豬來」(犬去りて、豚来たる)と言ったといいます。これを「犬(日本人)はうるさくても番犬として役に立つが、豚(中国人)はただ貪り食うのみで役に立たないという意味だ」という解釈を聞きましたが、そうかな?と。たぶん犬も豚も軽蔑を込めた例え。「どちらも低俗で嫌な奴らだが、豚がもっと酷い」という意味じゃないかなと思いました。



石造物解説板

公園内

人物像

素麺


初日から歩き過ぎたと反省しながら、疲れた体で宿の近くの食堂へ。グーグルマップで見つけたベジタリアン用の素麺店です。もう飲食店ならガイドブックに頼らなくてもいい時代になっていますね。

ここを選んだのは同じビルの上階に教会が入っているから。もしかしてクリスチャンの経営かなと思ったのですが、全くわかりませんでした。日本語はもちろん英語も通じませんが、漢字のおかげで何とかなっちゃうところが有り難いです。台湾人のホスピタリティにも感謝して完食 (^^♪



メニュー

店内

外観

教会がある




名は体を表す


名は体を表すと言うけれど、本当だなと思うことがしばしば。賢い賢太くんとか、聡明な聡美さんとか。だけど政府が付けたネーミングには、イデオロギーの臭みを感じることがあります。革命を成し遂げた人や建国の父の名前をいろんな所に付けているのは、主に社会主義国だったりするからです。

それらの国々には、遺体を冷凍保存したり、巨大霊廟やモニュメントを建設しているところもあります。建国の功績を個人に帰しているためにそうなのだと思いますが、そのような行為や個人名を冠することは、外国人には個人崇拝に映ります。

2006年陳水扁は、「中正国際空港」の名称を「台湾桃園国際空港」に変更しました。中正紀念堂のところで書きましたが、「中正」は蒋介石の名前だから(介石は字)ですね。一つ個人崇拝を排したことになるかと思いますが、実情も同様に変わってきているのでしょうか。

国名からして、まだ台湾は呼び名で揺れているのかもしれません。実体を表す「名」を持って、国際的舞台に立てる日が来るのか――。来るとは思うけれど、そこまでの道のりが遠いような気がして、台湾を応援したい気持ちが湧いてくる一日目なのでした。






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