境内
さて・・・、空海と真言密教の話だけして終わりたいところですが、空海が留学先の中国で景教に触れ、クリスチャンになったとかいうトンデモ説があるので、その件についても書いておきたいと思います。
それをすっかり信じちゃってるクリスチャンも相当いて、空海クリスチャン説を使って宣教しようとしている牧師までいらっしゃるので看過できないんですよね。
歴史学者のようにそんなトンデモ説は無視するということができたらいいんですけど、キリスト教の世界に身を置いているとスルーできないほどに蔓延しているのを感じるのです。多くの人が信じている仏教が実はキリスト教なのだという話になるから、ほんとは深刻な問題です。
中国へのキリスト教伝播
中国にキリスト教が伝播したのは、唐王朝時代の635(中国の年号で貞観9)年のことでした。宣教師 阿羅本(アロペン)が長安を訪れ、太宗の許可を得て布教が始まります。その後則天武后の時代(690〜705年)に迫害を受けるも存続し、玄宗の時代(712〜756年)に発展します。
そして代宗から徳宗の時代(762〜805年)に最盛期を迎えました。その頃建てられたのが、日本の高野山にもレプリカのある「大秦景教流行中国碑」です。建てられたのは781(建中2)年。
空海と景浄
空海が留学生として入唐したのは、景教の最盛期に当たる804(日本の延暦23、中国の貞元20)年のことでした。空海の滞在場所と景教寺院はさほど離れていないので、空海が景教寺院を訪れたことがあったのではないかというのが、空海クリスチャン説の人の想像。
空海がサンスクリット語を習ったインド人僧 般若三蔵が、それよりも前に景教徒の景浄の助けを受けてソグド語の仏教典を漢語に訳したことがあったので、般若三蔵をはさんで空海と景浄は間接的につながっているというのも、空海クリスチャン説の人が論拠に挙げる点です。しかし空海が景教に触れたという記録はありません。
空海が新約聖書を持ち帰った!?
「空海が唐から持ち帰った物の中に新約聖書がある」「最澄は旧約聖書しか持っておらず、新約聖書を貸してくれと空海に懇請して断られたことから、二人は仲違いした」との巷説も流布していますが、これも誤解です。空海が持ち帰った物は朝廷に提出した報告書『請来目録』に記載されていますが、その中に聖書はありません。分類した項目を列記すると以下の通りになります。
経軌142部247巻
梵字真言讃等42部44巻
論疏章等32部170巻
(合計216部461巻)
及び曼荼羅・法具・絵像・恵果和尚からの付嘱物
このうち「経軌」というのが、新訳の密教経典、同じく新訳の顕教経典、旧訳の密教経典を意味するのですが、空海はそれまで日本に伝来していなかった新しい訳の密教経典を請来(仏典を持ち帰ること)したので大いに時の天皇から認められ、留学期間を勝手に短くして帰還した違反行為を許されました。
最澄は新約聖書を読みたがっていた!?
最澄は空海よりも長く唐に滞在して、定められた期間を守って戻りましたが、新しい訳の密教経典は持っていませんでした。そこでそれらを貸してほしいと頼んだのです。これを、空海クリスチャン説の提唱者は、「新訳→新約聖書」「旧訳→旧約聖書」と勘違いして、「旧約聖書はもっていたが新約聖書は持ってなかったから読みたくて懇願した」と誤って解釈しているのではないでしょうか。
自己の請来した経典が最新のものであり、それが許されたのは自分だからだと主張することで、真言密教の優位性を示しているのですから、空海が新しい訳の密教経典の貸し出しを拒んだのは当然なことです。それを最澄までがキリスト教を学びたがっていたという想像を加えて解釈するから、話が一層こじれます。
大体この仏教界の巨人が2人とも、キリスト教を学びたくて仕方なかったかのように捉えている点が首肯できません。天台宗や真言宗はキリスト教に敵わないとでも言うのでしょうか。空海クリスチャン説の人は、空海は景教の隠れ信徒で、仏教に見せかけてキリスト教を伝えていたのだと言ったりしますが、それって随分な言い様ではないですか。怒るべきは、私ではなく仏教徒の方々かと思います。
留学期間と経典筆写の手間
空海の留学期間は約2年で、往復にかかった月日を差し引くと、1年と3か月足らず(804年12月末から806年3月まで)しか長安に滞在していませんでした。そのうちサンスクリット語を学ぶために要したのが3か月。それ以外の一年を青竜寺で恵果和尚に師事して密教の奥義を会得して、恵果和尚が亡くなると日本に帰りました。
日本に持ち帰るための経典を借りる許可を得て収集し、筆写(他の僧にしてもらう)するのも大変手間と費用のかかるものです。限りある時間と所持金を有効に使って、成果ある留学にしなければ、帰国してからの活動に支障が生じます。つまり、いかに空海が天才だったとしても、密教以外の教えを学んだり、手当たり次第に経典を蒐集する時間や費用は無かったと考えられます。
当時の長安は国際都市
空海クリスチャン説では、間接的にでも接点があったことを想像で膨らませて、空海は天才だったのだからキリスト教(景教)も習得して帰っただろうと言います。だけれど天才だったという翼で合理性を欠くところまで飛翔するのは問題です。例えば当時国際都市であった長安には様々な宗教が伝来し栄えていました。ゾロアスター教やマニ教などです。空海はこれらも学んだというのでしょうか。
それらの寺院も青竜寺から徒歩圏ですが、恵果和尚から密教を伝授してもらっている合間に、ちょくちょく通って教えを受けたと考えられるでしょうか。出入りしたのが景教寺院に限られたとしても、そんな風に他の寺院に出入りする者を、恵果和尚は奥義を全て伝授した者だとお墨付きを与えるでしょうか。
空海クリスチャン説の失礼さ
ちょうど私たちが東京でいろんな宗教の名を耳にするように、空海も長安で景教の名を聞いたことくらいはあったかもしれません。だけれど、私たちが新しい宗教に興味を示して習いに行くようなことはめったにありませんよね。宗教的な教えは、単なる知識ではなく信仰と結びついたものなので、あれこれ学べばそれだけ知識が増加して良いという類のものではないと知っているからです。
それなのに空海が密教の奥義を極める傍らで、キリスト教に魅力を感じて景教寺院に行ってクリスチャンになって帰っただなんて・・・。密教寺院は本当はキリスト教の教会だとか、儀式はキリスト教からもらってきているとか、空海クリスチャン説の人は言いますけど、それは仏教を下に見ていることと同義ではないでしょうか。仏教を隠れ蓑にして、本当はキリスト教を信奉して伝えていたのだと主張するからです。
空海クリスチャン説の人は、史実に基づいた考え方をする人のことを「頭が固い」「想像力が欠如している」と批判します。だけれど自分たちの主張が、空海や真言密教の信者に対して非常に失礼だということを見落としているようです。それも「想像力が欠如している」ことだと思うのですが、どうでしょうか。