本文へスキップ

キリシタンのあしあとを求めて各地を旅してめぐります♪

トップページ > 旅行記 > ふわり三都物語 4      スマホ版は⇒コチラ

 ふわり三都物語 4


朝はマックで


朝はマックでモーニングセット。この時期限定のバーガーを、私の推し作家が推していたので(わかりにくい^^;)食してみました。うーん、ちょっとカロリーが心配かなぁ。


カトリック宝塚教会


では阪急電鉄で宝塚南口駅にあるカトリック宝塚教会へ。前から行きたくて場所等を調べていた教会です。

何と言っても建築がいいですよね。村野藤吾の作品です。カトリック信徒で、他にも広島のカトリック幟町教会 世界平和記念聖堂(国指定重要文化財)なども手掛けてします。

だけど世界平和記念聖堂とこちらは全く違った趣。向こうが荘厳ならば、こちらは自由で軽やかな印象。ほんと、同じ人の手によるものかと訝しく思うほど。私はこちらの方が好きですね♪



カトリック宝塚教会

カトリック宝塚教会


カトリック宝塚教会入口


入口は閉まっていて残念賞。

敷地に広がる建物は、どこから撮っても全体をフレームに収めることができません。

すぐ隣が線路で、住宅にも囲まれているから。


その分、どちらから見るかによって違う表情が違い、幾通りもの建物のように思えるから、それはそれで面白いです。中には入れなかったけれど、建物をいろんな方向から眺めながら、心の中でお祈りを。憧れていた建物に来させてもらい、直接見られるなんてありがたいことだなと思い。



宝塚教会入口

住宅地側から

建物

村野藤吾の作品

賀川豊彦ゆかりの地を


それでは再び阪急に乗って今度は三宮駅へ。神戸のすごーくおしゃれな繁華街ですが、そこから15分ほど歩いた葺合地区は、昔はスラム街だったそう。賀川豊彦が単身飛び込んで行って社会活動をした所です。

その葺合地区の中に賀川豊彦の資料を展示する賀川記念館があります。

私は鳴門市の賀川豊彦記念館と東京の賀川豊彦記念松沢資料館は訪れたことがあるのですが、こちらは初めて。神戸に寄れたらここには行きたいと願っておりました。



賀川記念館


駅から真っ直ぐ大通りを進み、迷うことなく到着。賀川記念館は、1階にイエス団本部、2階に幼稚園が入っていて、カフェなどもあるようですね。

「天国屋カフェ」かぁ、いいネーミング☆彡

館内に入ると子供たちの元気な声が聞こえてきます。



天国屋など

賀川記念館

賀川豊彦

エレベーター

賀川豊彦像


ミュージアムのある4階で下りると、出迎えてくれる賀川豊彦さん(以下敬称略)。

100年以上前の葺合地区の地図には、賀川がどこでどんな活動をしていたかが記されています。

これをウォーキングマップにしたものがあったので、受付の方にお願いして購入。次回来るときにはこれを片手に周辺を歩き回りたいです。



100年以上前

「死線を越えて」

武内勝の原稿

短冊

展示室


展示室では、賀川が手掛け発展させた様々な運動について、コーナーごとに映像と資料で知ることができます。

賀川の活動は多岐にわたるものだったので、その全容を一気に知ろうとすると、情報量が多くて眩暈がします。

初心者である私は、まずは業績よりも賀川の信仰と人となりに注目していこうと思います。キリスト教信仰に関する多くの著作があるようですね。もうちょっと読んでみなきゃな。



展示室

平和運動

教会活動

自筆原稿

随筆

神の国運動

愛の科学

著作

収蔵品展


展示室を抜けた資料室のような所では、収蔵品展が催されていました。

賀川の著作は316冊あるそうで、その一部が本棚に。簡単には読みきれそうにないボリュームですね。賀川の研究者は大変だなぁ (^_^;)

色紙に書かれた「一枚の最後に残ったこの衣 神の為に尚 脱がんとぞ思ふ」「愛は私の一切である」――。直筆の文字が胸を打ちます。



多くの著作

「一枚の・・・」

色紙

「愛は・・・」

講演の際に書かれた


こちらは常設展示されているもののようでしたが、賀川が講演の際に模造紙に書いた要旨が液晶ディスプレイに映し出されていました。

なかなかの迫力で、圧倒されつつも惹きつけられます。文字からほとばしる熱気が今も籠っているように感じます。

どんな講演だったのか、アツく伝えておられたことがうかがえます。いずれも聖書解読というか、信仰的な講演のときのものみたいですね。賀川の「気」に触れられました。



賀川の書


賀川が書画にも優れていたことを、鳴門の記念館で知って驚倒したものですが、こちらにはずらり。

書と画が一体になったものが特に素晴らしいように感じます。

字がうまくても、こうは書けないですよね。何だろう、人そのものの力がないと生みだせない書があると思うんですが、それだと思います。ウソのつけない世界ですね。真実な何かが伝わってきます。



賀川の絵

賀川の書画

賀川の書

聖書と書

聖書の解説

書画

短冊

ステンドグラス

礼拝堂


同じ階に礼拝堂も設けられていて、祈りの時も持つことができます。シンプルで良いですね。

ステンドグラスはごつごつとした宝石のようで、抽象画の中から光が射しているみたい。

共済運動や労働運動、震災復興、平和活動などいろんな分野で活躍したのは、それらがバラバラのことではなく、自分の関心ある一事「救い」に関することだったからではないでしょうか。事業としては複数形でも、賀川の中ではつながりを持っていたんだろうと思いました。



礼拝堂

ステンドグラス

YMCA

共済運動

労働運動

海外伝道運動

賀川豊彦

1950年

シュバイツァー


各国各界多様の人たちとのつながりも興味深いところでした。

シュバイツァーやアインシュタイン、ガンジー。日本では、早稲田人にはお馴染みの安部磯雄や、法学部生なら誰でも知っている末広厳太郎など。この他枚挙いとまがないことでしょう。

さて、ここで触れるべきかどうか迷ったのですが、他に書くタイミングがないかもしれないので、景教博士 佐伯好郎との交流にも言及しておきたいと思います。ちょうど昨日東寺で空海と景教について書いたので、その流れで書くのが良いかと思いますし。賀川は景教に関する本を翻訳し、その校訂を佐伯好郎に頼んでいるのです。まずはその本の説明から――。


ジョン・スチュアート『東洋の基督教 景教東漸史』


30年にもわたりインドで宣教にあたったジョン・スチュアートという長老派(キリスト教プロテスタントの一派)の牧師が、1928年に著した本があるのですが、その本を読んだ賀川豊彦は、他のもう一人の日本人と共に日本語に翻訳して1940年に『東洋の基督教 景教東漸史』出版しました。その際校訂を引き受けたのが佐伯好郎です。

この本を読んでいたところ、序文で賀川がこんなことを述べていたので驚きました。

翻って蒙古地方に於ける景教伝播の跡を見ると、感慨無量のものがある。今日、蒙古の沙漠のところに十字架が発見される。それでシリア語の感化は蒙古にまで及び、恐らく日本の東北地方にまで波及したのではないかと思われる。

最近東北地方に喧伝されている青森県八戸在のキリスト伝説の如き、或はこうしたシリア・キリスト教の破片の一つではないかと思う。日本に於ける古代景教の遺跡の研究は、まだまだ研究の余地が残っている。

静岡県浜名湖畔の奥山半僧坊の本尊は、景教宣伝僧の形をしているように私には思われる。半僧坊は一名また秋葉山と言われているが、アキバという言葉が、ユダヤ人の名に多いことも面白い。
(旧字仮名遣い現代語に直しました)
                         (『東洋の基督教 景教東漸史』翻訳者序p2)


どうやら賀川は、日本に景教が伝わっており、青森のキリストの墓(私も行きましたが、明らかに一人の人によって捏造されたデマです)もその関係の遺跡ではないかと考えていたようです。この本が出版された頃は今ほど遺跡の発掘調査、様々な文献の研究が進んでいなかったので、賀川がそう考えたのも無理はありません。


森安達也の解題と指摘


この本は、1979年に森安達也の解題を付けて復刻出版されました。解題で本書の意義と問題点とが適切に整理・指摘されているので、そこを把握して読めば現代にも通用する本だと言えるのかもしれません。ただし以下の指摘は重要です。

第七章は「日本および支那に於けるキリスト教の伝播」との題で、ネストリオス派のキリスト教が日本にももたらされたかのごとき記述(緒言にも同様の断定がある)が見られるが、当該箇所をよく読めばわかるように、八世紀末の日本にペルシア人が渡来したとの記録はあっても、キリスト教そのものが伝えられたとの記録はなく、またその痕跡も残っていない。従って前述のような題のつけ方は大いに誤解を招きやすい。

第九章の後半ではインドのアショカ王石柱碑文、仏教に対するキリスト教の影響、インド天文学の起源などに関する著者の見解が述べられているが、その多くは今日では省みられない説である。


                          (『東洋の基督教 景教東漸史』解題p10)


つまり、日本に景教が伝来した記録も痕跡も無いにも関わらず、伝来したと自分が考えているために、そう誤認させるタイトルを付けていることへの指摘ですね。

「インドのアショカ王石柱碑文」「仏教に対するキリスト教の影響」とは、本書で、アショカ王の碑文の文字や内容にキリスト教の影響が見られるので、インドのキリスト教徒によって書かれたのかもしれないと述べていることです。現代では、牽強付会という外ないものです。



アインシュタイン

ガンジー

イエスの友会

安部磯雄、末広厳太郎

葺合地区


賀川記念館を後にして、三宮駅へ。歩きながらなんですけど、もう少し景教の話をさせてください。

賀川豊彦がその当時盛んだった日ユ同祖論的な考え方をある程度受け入れたのは、その時にはまだ他分野からの検証が成されていなかったことを思うと、理解できるところです。景教が古代日本に伝来したという話に、信仰的な期待を抱いた気持ちもわからなくはありません。

だけれど「今」その言説が広まるのは、受け入れることができません。佐伯説には多くの誤謬があり、それが故意なのかは不明ですが、その誤謬によって事実を歪曲しているからです。具体的に説明していきますね。話は『続日本紀』にまで遡ります。


『続日本紀』の李密翳


『続日本紀』は、697(文武1) 年から791(延暦10)年までの編年体の正史で、かの菅野真道らによって797(延暦16)年に完成されました。その中の736(天平8)年の条に渡来人に関する内容があります。

八月庚午 入唐副使従五位上中臣朝臣名代等、率唐人三人 波斯人一人拝朝

十一月 戌寅天皇臨朝、詔授入唐副使従五位中臣朝臣名代従四位下、唐人皇甫東朝 波斯人李密翳等授位有差


八月の条は、遣唐使が帰朝した折に「唐人三人 波斯人一人」を連れて来たという意味で、十一月の条で述べられているのは、そのうちの「唐人」が「皇甫東朝」という名前で 「波斯人」は「李密翳」という名前だということです。


佐伯好郎による恣意的な改変


しかしここに出てきた「唐人」を佐伯好郎は勝手に「景人」と改変しています。「唐人」は言うまでもなく、中国の唐から来た人物という意味ですが、これを「景人」と改変した佐伯は「景人=景教徒」だとして話を進めていきます。

また「波斯人」はペルシア人という意味で、ここ部分は佐伯は改変してはいないのですが、「李密翳」の「翳」を「醫」と何の説明もなく書き換え、「醫」の字が使われているのだから医者であったとしています。

佐伯好郎の『景教碑文研究』を引用します(旧字仮名遣いを現代語に直し、句読点を打ちました)。赤字の箇所に注目ください。

又曰く
十一月 戌寅天皇臨朝、詔授入唐副使従五位中臣朝臣名代従四位下、
景人皇甫東朝 波斯人李密醫等授位有差」(筆者註:「波斯人李密翳」の箇所に〇でマークが施されている)

と聖武天皇の天平八年は唐唐玄宗皇帝の開元二十四年即西暦七百三十六年なり景教が唐太宗皇帝の貞観年間に支那に伝来せし以来既に一百余年を経過したるの後にして、当時
景教宣教師が概ねエデサ(Eddessa)若しくは波斯の医学修道院の僧徒たりしを思わば、この我国に来朝せし李密醫が如何なる人物なりしやを忖度するに難からざるなり。

(中略)

天平八年の頃に当りて「波斯教」又は「波斯寺」が景教又は大秦寺の俗称にして
「波斯人」又は「波斯僧」は景教徒の通称たりしを知ればなり。
                           (佐伯好郎『景教碑文研究』p15)


「唐人 皇甫東朝」を「景人 皇甫東朝」と改変して、「景教徒の皇甫東朝」とし、「波斯人 李密翳」を「波斯人 李密醫」と書き換えて、「波斯人」とは景教徒の通称(違います!)で「醫」は医者の意だろうから、「景教徒の医師、李密醫」と2人とも景教徒にしてしまっています。

これは佐伯の改変があってこそ成り立つ論理であって、全く信憑性のないものです。『続日本紀』に景教徒が来日した記録があるという主張は、記録の書き換えによる歪曲された言説です。

このような改変・歪曲に惑わされないためには自分で調べることが必要だと思います。今は国立公文書館のホームページ上にあるアーカイブに「続日本紀」と打ち込めばすぐに見ることができます。ずらっと出てきて一瞬戸惑うかもしれませんが、年を手がかりすれば割と簡単に見つかります(私でも30分ほどで探せました☆)



水道橋?

川に橋

道端

豊中へ


豊中へやって参りました。飛行機の時間まであと一か所寄れそうということで、 聖堂が美しいというカトリック豊中教会へ。

初めて下り立った駅ですけど、街を歩くと道しるべなどがあり、昔から人の往来があった所なのだとわかります。

さて・・・、あともう少し景教について書いても良いでしょうか。 しつこくてすみません。今度改めてまとめたものを載せようと思いますが、とりあえずはここで書かせてもらおうと思います。


「景教博士」佐伯好郎の影響


「唐人」を「景人」、「翳」を「醫」と書き換えることは、これ以前の本では見られないので、この改変は佐伯の著書『景教碑文研究』(1911年)が初出だろうと考えられます。その後の研究者たちがこの部分を検証していたら「書き換えられている」と気付いたはずですが、「景教博士」の佐伯に全幅の信頼をおいたのか、後世の人々は佐伯の改変をそのまま引き継いでいきます。

代表的なものとしては、比屋根安定『日本基督教史』(1949年)『世界宗教史』(1955年)、「キリストの幕屋」を主宰した手島郁郎の機関紙『生命の光』各号(1973年など)があります。もちろん最初に挙げた賀川豊彦が翻訳したスチュアート『景教東漸史』の本文にも、佐伯の本が引用され、佐伯説に従って「李密」はMilisのことで、大秦景教流行中国碑の中に名が刻まれた人物ではないかとまで述べています(同書p233)。

「景教博士」佐伯の説を、著名なキリスト教者である比屋根、手島、賀川が援用したとなれば、高い信憑性が与えられ、多くの人が信じるところとなったのも仕方ありません。


中には見破っていた人も!


中には、神直道(じん・なおみち)『景教入門』(1980年)のように、ちゃんと自分で『続日本紀』を調べ、恣意的な改変を見破っている人もいます(ただし佐伯ではなく比屋根が書き換えたと解している)。

宗教史家比屋根安定氏は、その著『世界宗教史』(1955年、日本基督教団出版部)で次のように述べている。

天平八年(七三六)、入唐副使中臣名代が帰る時、波斯人・景人を同伴したが、彼らは中国におけるネストリウス派基督教徒である。
(筆者註:「景人」と「ネストリウス派基督教徒」の部分に傍点が付いている)

(中略)

今より1200年前に、すでにわが国にはキリスト教が伝えられていたと推定される確かな記録があるとして、『続日本紀』の天平八年八月の条をひき、さらに十一月の条で授位されたペルシア人の名「李密」をあげて医師であり宣教師をかねていたと推察している。

実際の『続日本紀』の記録は次の通りである。

(中略。前掲の部分を参照ください)

ここでは翳が醫に変えられ、「唐人三人」「唐人皇甫東」を「景人」と解するなど、資料の恣意的な変更を平気で行なっている。「翳→醫」の問題は、『続日本紀』の誤彫・誤写を鵜のみにしたものと好意的に解してやりたいが「景人」となるとそう簡単ではない。

「景人」は、景教の信徒の意味であり、唐人、波斯人などの国名ではない。景人であることの史的傍証がない限り、論者の我田引水論と批判されても仕方がないであろう。

                             (神直道『景教入門』p199)


しかし賀川らに比べ、神(じん)の知名度はあまり高くなかったという憾(うら)みがあります。


久保有政とケン・ジョセフ、M・トケイヤー


神(じん)の指摘を知らなかったのか、それとも無視したのか、M・トケイヤーと久保有政は『聖書に隠された日本・ユダヤ封印の古代史―失われた10部族の謎』を1998年に出版して「景人(景教徒)・皇甫、ペルシア人李密医らに位を授け」た記録があると手島が書いているのを引用(同書p254)して、景教徒来日説を積極的に展開していきます。

この本とその続編である『聖書に隠された日本・ユダヤ封印の古代史2―仏教・景教篇』(2000年、著者は久保有政とケン・ジョセフ)が、この手の本の代表格かと思います。彼らの本の中には50刷も重ねているものがあり、テレビで取り上げられたりもして、人口に膾炙するようになっていきました。

『日本・ユダヤ封印の古代史2』ともなると、「日本にやって来た景教徒」という小見出しが設けられ、景教徒の来日がまるで確認された事実であるかのように書かれています。

原始基督教徒・秦氏が日本に来たのち、景教徒たちも早くから日本に入って来ました。そして秦氏の信仰は景教と融合したようです。その信仰は本質的に同じだったからです。

日本に来た景教徒に関する公式記録は『続日本紀』(八世紀)にあります。ただし、これは景教徒が日本の朝廷を公式訪問した記録として最初のものであって、それ以前にも景教徒が日本に来ていたと考えるべき理由も少なくありません。

                          (『日本・ユダヤ封印の古代史2』p166)


と書き、続く文章で、景教徒であり医者でもあったとしながら李密医と皇甫の名を挙げています。もう臆面もなく書き連ねていますね。この方々の本になると、日ユ同祖論も景教(原始キリスト教)伝来も、すっかり既成事実のようになってしまっています。

でもそれは、記録の恣意的な書き換えによる歪曲した解釈です。彼らの本を「歴史ロマン」として面白がって読む心理はわかりますが、発行部数を伸ばすことで更なる信憑性が与えられていることも事実です。彼らの動画はYouTubeで50万回以上も再生されていて、その影響を考えると看過できないレベルです。


中村敏『日本キリスト教宣教史―ザビエル以前から今日まで』


ところで、佐伯好郎の改変から始まった言説が引用されているのはトンデモ本ばかりではありません。中村敏『日本キリスト教宣教史―ザビエル以前から今日まで』(2009年)には、「第一部 ザビエル前史」として項が割かれ、広く網羅する形で日ユ同祖論や秦氏、景教伝来、空海などについて触れられています。

まとめとして中村が述べて内容(以下に引用)を見ると、ザビエル前史を肯定するかのようにも取れます。皆さんはどう思われるでしょうか。

この項における著者の見解は、こうである。ザビエル以前にキリストの福音が日本に伝えられた可能性はあるが、その歴史的根拠は十分とは言えず、現時点において確立した学説とは言い難い。また日ユ同祖論についても、大胆な仮説や推論に基づく所が多く、もっと厳密な歴史的検証が必要であると考える。

しかし宣教的動機も含めて、その主張には日本キリスト教史の研究の上で無視できないものもあり、今後の一層の研究の進展と建設的対話が望まれる。

とにかく、福音の核心部分とまでは言えないとしても、キリスト教の影響はさまざまなルートや手段を通して、日本人の精神史に及んでいる可能性が考えられる。いわば「秘められた地下水」のような形で日本の精神史の中を流れてきて、ザビエルの来日に至って再び地表に現れてきたとも言えるのではないか。

                          (中村敏『日本キリスト教宣教史』p32)


私としては、「ザビエル以前にキリストの福音が日本に伝えられた可能性はある」「その主張には日本キリスト教史の研究の上で無視できないものもあり」と言っている時点で、「ちょっと大丈夫なの?」と思ってしまいます。特にこの本は教科書的に読まれることもあるでしょうから。

「秘められた地下水」のような形でキリスト教が日本人の精神の中に影響を及ぼしていたから、16世紀にキリスト教が宣べ伝えられたときにキリシタンがあれほどまでも増えたのだという話を、景教(原始キリスト教)伝来説を唱える人たちはよく言います。偶然かもしれませんが、この文章を読む限り、彼らと同じ見解を持ってらっしゃるようです。





神社

YMCA

カトリック豊中教会


やって来ましたカトリック豊中教会。

聖堂は、市内の信者からの寄付をもとにチェコ人ヤン・ヨセフ・スワガーの設計で建設され、1939(昭和14)年に献堂されたということです。

スワガーは大正時代末期に、同じくチェコ人の建築家A・レーモンドの事務所員として来日し、その後独立しました。他に手掛けた聖堂は、大阪田辺教会聖堂(現存せず)、横浜のカトリック山手教会(司教座聖堂)、保土ヶ谷教会聖堂など。太平洋戦争中の1941(昭和16)年に離日していますから、とても短期間に多くの聖堂を設計したようです。

こちらはスワガーにとって日本で最後の作品。2015年に国の有形文化財に指定されています。



案内掲示板


司祭館

ハボタン

聖堂


聖堂は、和洋折衷&・・・もういくつか要素が加わった感じ。

鐘楼のある塔屋の中間部にめぐらされた欄干(だけどベランダみたいにはなっていないから飾り?)は中華風ですかね。

色もミルクチョコレート色にイチゴポッキー色というか。独特で、少し美味しそう(笑)。正面から見るとヨーロッパの教会建築のようですが、横から見ると日本の寺院建築のようでもあります。色合いも相まって、どこか違う世界に迷い込んだような気分になります♪



正面


玄関口

司祭館

聖堂内


こんにちはと声をかけて中に入っていくと、内部は正にお堂。

板張りの床と丸太柱、格天井(ごうてんじょう)が心を落ち着かせてくれます。

日本人が祈るにはぴったりなのではないでしょうか。

でも、よく見ると身廊と左右に側廊がある三廊式の建物だからやっぱり聖堂ですね。うん、お寺にも聖堂もいる感じがして不思議です。

祭壇には夢見るような色彩で描かれた聖母子絵像。アウグスチヌス木村圭三という人が描いたものだそうですが、チェコ人の聖堂建築にとてもマッチしています。世界観を共有していたのでしょう。

ひと息ついて、信徒席でお祈りを。旅の最後になんと素敵な色の中に身を置かせてもらったのだろうと感謝もひとしおで。



祭壇画

格子天井

聖堂

丸窓

ラーメン


乗り換え駅で柚子ラーメンを食べて、時間調整。荷物は伊丹空港に置いてあるので身軽です。

関西くらいならまたすぐ来られるかなと思いつつ、それでももうちょっと下調べしてから来ないともったいないなという結論に至りました。関西も見る所多いですね。



またまた景教


ここでまた景教の話をしたら「またかいな」という感じでしょうけど、あともう一つだけ。それは日ユ同祖論や景教徒渡来説が提起された頃の時代背景についてです。

開国後、西欧列強に植民地化されぬよう、明治政府は国を一つにまとめ、近代化を迅速に進める必要がありました。そこで採用されたのが、天皇中心の神道よって国民思想を統一する政策(国家神道)と、富国強兵政策です。

そうして日本は日清・日露戦争の勝利と不平等条約改正の達成しましたが、国の方針と国民の思想は急速に国粋主義に傾いていき、万世一系の天皇は外国の元首より優り、日本がどこよりも素晴らしい国であるという超国家主義(ウルトラナショナリズム)が広がるようになりました。

1910(明治43)年の韓国併合、1931(昭和6)年の満州事変はそのような流れの中で起こったことでした。佐伯好郎が景教に研究の著作を出版したのはそんな時代のことです。

佐伯の「古代日本にキリスト教が伝わっていた」「日本人は古代ユダヤ人の末裔だ」といった言説が本当ならば、日本がヨーロッパと匹敵する歴史を有し、西欧諸国で信じられているキリスト教の遺産を受け継ぐ国なのだということになります。

それは、日本こそ他に優る国であると考える人たちにとっては、プライドをくすぐる実に耳ざわりのいい話でした。それで佐伯説を信じたい人が多かったということを理解しなければなりません。

一方今も、「日本を愛する」と称するナショナリストたちが、日ユ同祖論や景教伝来説に興味を持ち、100年も前の佐伯の本を引用しながら、日本が特別なのだと主張しています。歴史を振り返って考えてみると、恐ろしいことではないでしょうか。

「日本は歴史も文化も素晴らしいスゴ~イ国だ」とメディアはもてはやし、政治家の口からは「2000年にわたって同じ民族が、同じ言語で、同じ一つの王朝を保ち続けている国など世界中に日本しかない」などと、戦争に突き進んでいった頃と同じ内容の言葉が飛び出しています。

また一部のキリスト教者たちも、「天皇にユダヤの血が流れている」「失われた10部族である日本が世界的な使命を果たすべきだ」など、戦前の日ユ同祖論者と同じことを言っています。

日本の右傾化を憂うのがまずありますが、それに景教や古代日本の歴史が改竄され利用されていくのも許容できません。そのために景教および日本史が欺瞞なく伝えられていくことを切に願っています。

「またかー」と言われるかもしれませんが、またきっと書きます。歴史を見つめる目と不断の努力が、平和には欠かせないと思うから――。





                                  旅行記一覧へ >>