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キリシタンのあしあとを求めて各地を旅してめぐります♪

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 ふわり三都物語 3


鴨川


秋の京都を旅するなんて、こんな贅沢なことはないですね。今日は私鉄で京都入りして出町柳駅で待ち合わせ。

何年ぶりかな。昔ベトナムに旅行したとき現地でお世話になったH氏に会うのは。今は京都大学で働いています。着実にキャリアアップして、今も頑張っていて、すごいなぁと。



川べり


川べりを散策しながらよもやま話を。

共通の知り合いのその後や、自分たちの近況など話は尽きません。

昔に比べて身近な話題(家族、健康)が多いのは年齢のせいでしょうね (^_^;)



鴨川

対岸に渡れる

散策路

ふたば


美味しいと評判の和菓子屋さん「ふたば」で、塩大福をたくさん買ってもらいました。

商店街に長い行列ができていて、かなり待つのかと思いきや、店の応対が早くて(速くて@@)あっという間に注文できました。

京都なら和菓子屋さんも相当あるだろうに、人気店は違うんですね。ここまで買いに来る客が多いということも、こだわりある地域性をうかがわせます。




紅葉

京都大学YMCA会館 地塩館


外国からのお客さんを迎えているということで、H氏が研究室を抜けられるのは3時間ほど。大学に向かいながら話すことに。

すると、何やらアピールしてくる建物が。京都大学YMCA会館 地塩館(ちえんかん)と書かれていますが・・・これ、ヴォーリズ建築ではないでしょうか?

下調べしていたわけではないけれど、この形と雰囲気、色合い等々が、昨日見学したヴォーリズ建築を彷彿とさせます。何より窓枠材の水切りが斜めになっていて、これぞヴォーリズの特徴。

ググってみると確かにそうで、この道通って正解でした! 僥倖に感謝。建物が今も現役で使われているというのもとってもいいですね♪



正面玄関

地塩館

国登録有形文化財

地塩館

京都大学


京都大学は名前の高さに比して外観は大人しめ。飾らない校風なんでしょうか。その分研究に打ち込めそうですね。

軽く案内してもらって、H氏とはここでお別れ。百万遍のバス停から今度は南禅寺方面を目指します。

京都は行きたい所が多くて困ります。一回では到底回れないので、何度も訪れて少しずつ制覇していっていますがまだまだ・・・☆



京都大学

記念撮影

校舎

構内

知恩院


百万遍の知恩院は以前来たので今日は寄らないことに。蒲生氏郷の正室 冬姫のお墓があるんですよね。冬姫は織田信長の娘(次女)です。夫や息子はキリシタンでしたが、彼女が受洗したという記録はありません(詳しくは旅行記「千年の都から永遠の城へⅠ」に)。

うむむ、説明板を読んでいると寄りたくなってきてしまうのですが、心を鬼にして行かねば。京都でそれやったらキリがないですからね 。



説明板

散策路

よーじや

お茶屋


哲学の道から南禅寺へ


哲学の道


バス停「銀閣寺道」を越えた所でバスを降り、哲学の道をカメラマンとなってトコトコ。

腕が悪くてうまく撮れませんが、秋の京都は格別だと感じます。日に透ける紅葉の美しさよ。

植物の種類ごとに違う赤の深さや軽やかさ。緑の中にポツンポツンと点る実も趣があります♪



哲学の道

紅葉

ネコ

散策路

南禅寺


途中、観光客の多さに辟易する場面もありましたが、それさえ気にならなくなる美に耽溺しながら南禅寺へ。

昔来たことがあるはずだど、こんなに三門(重要文化財)が大きかったっけ?という感じです。

記憶って当てになりませんね。そのときのことは湯豆腐しか印象に残ってない。。だから風情のわかる大人になってから再訪する意義があるのでしょう。ああ、この巨大な建造物が1628(寛永5)年に建てられて、そのまま残っているなんて――。

最初の三門は1295(永仁3)年に建造されたのですが焼失し、藤堂高虎が大阪夏の陣に倒れた家来の菩提を弔うために再建したのが1628(寛永5)年だそうです。1200年代とか1600年代とか、数百年をすぐに飛び越えてしまうのが京都ですね。

三門から境内を眺め、歌舞伎で石川五右衛門が、「絶景かな!絶景かな!」と言ってる景色がこれなのかと思いながら深呼吸。一段高くなった三門の基台から見ると、境内の樹木が若干下の位置になり、上からずっと見通せるようになっています。今なら紅葉が眼下に連なる様子が眺められ、春なら満開の桜を見晴らせるのでしょう。

なんと計算し尽くされた「絶景」でしょうか。四季を織りなす自然と建築、そこに人が立つことによって成立するだなんて。寺院でありながら総合芸術だなと。




三門

紅葉

境内

境内

石灯籠


さて何気なく置いてあるこの石灯籠ですが、1628(寛永5)年の落慶の際に奉納された巨大(6メートル)なもので、佐久間勝之の寄進。

佐久間勝之と言えば、上野の東照宮にあるお化け灯籠の寄進者ですが、ここにも奉納していたんですね。

勝之は、一時期蒲生氏郷に仕えていたこともあり、のちに信濃長沼城1万8千石の大名になっています。

銘文は金地院崇伝


ただ大きいだけならば、南禅寺のスケール感からするとさほどでもないので、スルーするところですが、一つ注目しなければならないポイントが。それは、銘文が金地院崇伝(以心崇伝とも)によるものだということです。

金地院崇伝のことは、南禅寺公式ホームページに「中興本光国師」とあり、1605(慶長10)年に南禅寺の第270世住職となったと書かれています。そして「徳川家康に招かれて駿府へ赴き、幕政にも参加するように」なり、「キリスト教の禁止や、寺院諸法度、幕府の基本方針を示した武家諸法度、朝廷権威に制限を加える禁中並公家諸法度の制定などに関係」したと。


崇伝とキリシタン迫害


金地院崇伝の名は、キリシタン迫害の歴史では措くことができない名前ですね。徳川家康によって出されたキリスト教禁令は、崇伝が起草したものです。「それ日本は元これ神国なり」で始まる文章を、崇伝はたった一晩で起草して、翌日家康に献じたというのですが、それは天才さを物語るエピソードではなく、前々から構想があったからではないかと、私には思えます。

崇伝の没年は1633(寛永10)年で、こちらの石灯籠にも銘文が刻まれていることからみても、三門の寄進も崇伝時代と考えて間違いなさそうですね。つまり、家康に顔が利く崇伝に良く思われようと、三門も石灯籠も寄進された可能性があるということです。

南禅寺に来たら崇伝の痕跡を探したいと思っていましたが、思わぬところで見つけられました。



水路閣


境内を奥に進むと、ドラマなどでお馴染みの水路閣がありました。「あー、これ見たことある!」と、誰もが思う名所ですね。

写真映えするから人気で、記念撮影は前の人が去るまでかなり待たねばなりません。そうじゃないと、人がピースしてる写真撮っちゃうことになりますから...(;^_^A

水力発電のために琵琶湖疏水を引く水路が、歳月を経て独特の雰囲気を醸し出し、こんな美的景観になったのは面白いこと。水路閣がなかったら、南禅寺を訪れる観光客はもっと少なかったでしょう。



解説板

水路閣

水路閣のデザイン

水路閣のデザイン

境内の木々

境内

境内

境内

琵琶湖疏水


地下鉄「蹴上駅」に向かう途中に、琵琶湖疏水が見られる地点がありました。疎水に沿って歩くのもデートコースになっているようですね。

琵琶湖疏水や日本初の水力発電所を建設した田辺朔郎(たなべ・さくろう)という人は、名前からして「朔日」(ついたち)生まれっぽいですね。

wikiで調べると、朔郎は、岩倉使節団の一人、田辺太一の甥で、使節団が横浜に帰港した際、迎えに行き、外国船を見学したことから工学に興味を持ったのだとか。蹴上発電所は京都の近代化に寄与したわけですが、このように京都の産業化・近代化が景観にマッチした形で行われたことによって、京都が昔だけで終わらない魅力を持つ街になったのでしょう。


紅葉

石碑

解説板

北山バプテスト教会


それでは今度は北山方面へ。古田織部美術館を目指して歩いていると、教会がありました。北山バプテスト教会です。街並みに合った建物なのがいいですね。

美術館が見つけられずスルーしてしまい、表千家北山会館に到着。もしかして館内にあるのか?と覗いてみましたが、違うようなので、引き返して行きつ戻りつしていると、小雨がパラパラと降ってきました。寒ぅ。。



北山バプテスト教会

北山バプテスト教会

京都府立植物園

表千家北山会館

古田織部美術館


よく見たら、小道に面したビルの前に看板と企画展案内が出ていました。美術館はビルの地下一階に入っているんですね。

さて古田織部(諱は重然)とはどんな人物かといいますと、茶人で武将。特に茶の湯の世界では、利休亡き後、「天下一」と称されたほどの人物でした。最近ではマンガ「へうげもの」の主人公として知名度が上がっています。

創作した茶器の中には、十字模様などの南蛮的意匠が描かれたものもあることから、キリシタンであるという説もまことしやかに囁かれ、それゆえ織部が考案したとされる織部型の灯籠を「キリシタン灯籠」と呼ぶ人もいます。


古田織部キリシタン説


しかし私は古田織部キリシタン説には反対です。というかキリシタン説の信憑性ある証拠に出合ったことがないから、キリシタンでないとするのが妥当だと考えるのです。ふつう何かを研究するというのなら、自分がどう思うかよりも、文書や遺物などの史料を調べて考えるのが通常だと思うのですが、〇〇(〇には人名が入る)キリシタン説を唱える人が挙げる証拠はすべて自分の主観であって、偏った知識によるこじつけとしか考えられません。

長崎や熊本の潜伏キリシタン関連遺跡が世界遺産登録されたのを機に、そういったこじつけの「〇〇はキリシタンだった」という信憑性のない説が一掃されることを願ってやまないのですが、「キリシタン」の響きに惹かれるのか、〇〇キリシタン説は各種唱えられていますね。千利休キリシタン説とか千姫キリシタン説とか。

困ったことに、キリシタンと交流があった人物をどんどんキリシタンだと認定していく郷土史家さんがいて、その上「キリシタン灯籠」がある所には多くの信徒がいたと解釈しては、それを本に書いて広めるんですね。本には、「キリシタン灯籠」が徳川家の城や天皇家の宮にもあるからと、そこにも数多くの隠れキリシタンがいたのだと書かれていたりするんですが、それを読んでその通りだと思ってしまう人もいるわけで・・・。もう反論する気も失せて閉口するばかりです。


古田織部美術館編「キリシタンと茶の湯」


そんな中で、古田織部美術館編「キリシタンと茶の湯」を読んで、雲間から光が射すかの如く感じました。千利休キリシタン説や、豊後岡藩(現・大分県竹田市)の中川家がキリシタンだったという説にも触れていて、古田織部キリシタン説に関わる魑魅魍魎を一刀両断してくれています。

まず、キリシタンであったかについては、千利休や古田織部がキリスト教や宣教師が行うミサなどの儀式に触れることは多かったろうから、茶の湯に工夫を凝らし、わび茶を大成しようとしていた両者が、キリスト教の精神性などを取り入れた可能性はあるが、二人ともキリスト教で禁じる自殺をしたことからキリシタンでなかったことは明白だとし、十字紋も「十字があるからキリスト教に関連する」とは簡単には言えないとしています。

「なぜなら、十字紋はどの文化においても最も基本的、原始的な記号であり、その起源はキリスト教とは何の関係もない場合が殆どであるからだ」と。中川久留須と呼ばれる家紋によって、中川家の当主たちがキリシタンであったとする説があり、「(中川)秀成が初代藩主となった豊後岡藩では領内に隠れキリシタンが比較的多くいたとされ、傍証と見做されるが、実のところ中川家の人々が入信したとする記録はない」。


中川家の通称「クルス紋」は


そもそもこの家紋は、中川清秀が和田惟政を討ち取ったときに、その記念として兜の轡十字を奪ったことから家紋の替紋に採用されたもの。なので「この轡紋を根拠として、中川家の歴代が信者であったというのは間違いなのである」と断じています。「同様に、茶道具などの器物に十字紋があしらわれていたとしても、そのことを根拠にキリスト教徒の遺物であると即断することは慎まなければならない」としています。

あー、スッキリです。これは、2018年に古田織部美術館で開催された企画展「織部はキリシタンか?」に合わせて制作された10ページにも満たない図録ですけれど、茶の湯の専門家によって書かれており、専門知識を土台に茶道とキリシタンの関係がよくまとめられています。

古田織部キリシタン説、千利休キリシタン説、歴代岡藩主キリシタン説(それゆえ、領内のキリシタンを見て見ぬふりをしたという「隠し」キリシタン説まで生まれている)の人たちに読んでほしいです。だけど、そもそもこういった学術的に明らかになっていることを見て見ぬふり(!)をするから、そういう説になってしまうんですよね。。



案内板

「キリシタンと茶の湯」


では東寺方面へ


矢取地蔵尊


今度はバスで南に下って東寺方面へ。空海が創建した東寺が目当てではあるのですが、その前に羅城門跡を見ておきましょう。

ここが、26聖人が京都を発つとき通っていった「東寺口」だと考えられるので。切られた左耳から血を流しながら、ここから長崎まで歩いていったんですね。冬空の下を。これくらいで寒いとか言ってちゃだめです。

私は写真でしか見たことがないけれど、そのときペドロ・バプティスタ神父が信徒に渡したとされる十字架が今も現存しています。胸にかけていた十字架を形見にあげたんでしょうけれど、それが残っているということが何かを物語っているように思えてなりません。


空海伝説の矢取神社


ここは矢取神社というらしいです。解説板によると、824(天長元)年、東寺の空海と西寺の守敏が雨乞いをしたのですが、雨を降らせたのは空海でした。それを恨んだ守敏が、羅城門の近くで待ち伏せして矢を射かけたところ、するりと黒衣の僧が現れ、空海の身代わりとなって矢を受けたので、空海は難を逃れました。

実は黒衣の僧は地蔵菩薩の化身で、後の人々はこの身代わり地蔵を矢取地蔵と呼んで、羅城門跡地のこの地に地蔵尊を建立し敬ったのだとか――。まあ、よくある空海伝説で、空海伝説は空海が行ったとは到底考えられない全国津々浦々にまでありますが、ここはすぐ横に東寺があるので、話の原型みたいなことはあったのかなと思える立地ですね。



矢取地蔵

地蔵尊

石造物

周辺マップ

羅城門遺址


周辺まっぷを見ると、小道を進んだ所に「羅城門跡」と書いてあったので、そちらにも来てみました(徒歩30秒)。

「羅城門遺址」と刻まれた大きな石碑がありますが、建てられているのが児童公園の真ん中で、少々シュールな組み合わせです。

「え、さっきの所とどっちが本当の羅城門跡?」と思いましたが、解説を読んでスッキリ。羅城門って巨大な二重閣の城門だったようです。だから一帯が跡地。平安時代なら高層建築だったでしょうね。平安京南端の正門として建てられた羅城門は、10世紀半ば頃まではあったけれど、倒壊して再建されなかったので、その後は「東寺口」と呼ばれるようになったみたいですね。疑問氷解~☆



羅城門遺址

解説板

羅城門跡地

東寺口


それでは東寺へ参りましょう★


東寺


さて、東寺口は京の七口の一つに数えられ、西に続く西国街道に面していました。多くの旅人が行き交った道ですね。

掘割と塀越しに五重塔が望めます。なんとまぁ、あの木造のタワーは、最初に建てられたのが9世紀末。

再建された現在の五重塔とて1644(寛永21)年からあそこにあるんですから、100年200年なんて軽くひとっ飛びですね。ほんとに千年の都恐るべしです。



五重塔

西国街道

南大門


私は東寺は初めて。小学校の文集で、「好きなタイプの人は?」の問いに、「空海」と書いた私にとっては、憧れ中の憧れの地です。

小学生の頃から来たかったのですが、タイミングが捕らえられず今日になってしまいました (;^_^A

でもいいんだもん、今から入るんだから!
東寺は世界文化遺産の構成資産の一つですね。この南大門だって国の重要文化財。

そっか、当時の門って、大きかったんですね。羅城門は上にもう一階あったのだから相当だったのだとわかりました。


いざ中へ♪


南大門から中に入ると正面に見えるのが金堂。金堂とその北にある講堂を横目に行き過ぎて、ぐるっと回った反対側に拝観受付があります。境内は広くて、国宝や重要文化財がいっぱい。一度で見切るのは難しそうなので、今日はとりあえず主だった所だけを。幸いなことに、五重塔内部の特別拝観期間にあたっているようです。心の中でよっしゃ!とガッツポーズ。



金堂

五重塔

境内マップ

金堂

夜叉神堂

東寺境内

礎石

東寺境内

講堂


では拝観受付から近い講堂から入ってみましょう。この建物自体が重要文化財です。中は撮影不可だから、目に焼き付けるように見学。

内部には、立体曼陀羅を構成する21体の彫像が安置されています。5体の如来像に5体の菩薩像、5体の明王像と、それを守るかのように配置された梵天・帝釈天像、四天王像です。

開眼供養は空海没後ですが、構想は空海によるもの。21体のうち15体は創建当時からのものです。5体の如来像はいずれも重要文化財で、他の16体は全部国宝。それも驚くべきことですが、ここに入るだけでざっと1200年のタイムトリップって、もうすごくないですかっ。


金堂も


もちろん金堂(国宝)も堪能させていただきます。安置されているのは、中央に薬師如来、その左右に日光菩薩・月光菩薩。すべて重要文化財です。国宝や重要文化財を見過ぎて、ちょっとインフレ起こしそうですけどね。

こちらは立体曼陀羅ほどの派手さや躍動感はないのですが、金堂は東寺の中心となる堂宇で、最も早く建設されたものだとか。修学旅行生も来ていたのですが、さっと見て出て行くので、どちらのお堂でも見学者が私一人になる時間がありました。お陰で仏像と一対一で向き合えて、「見る」よりも「会う」感じが。「会えるアイドル」みたいに「会える仏様」、いいかもしれない(握手はできませんがw)。



講堂

講堂

講堂

境内

五重塔


来ました、国宝五重塔。スカイツリーにも応用された地震に強い心柱構造で造られています。

独創的なのは、その心柱を大日如来と見なし、諸像と両界曼荼羅を配して、世界観を作り上げていること。中に入って、ぐるっと2周しながら(空いてたので^^)じっくり観察。


家光と秀頼・・・


今の五重塔が出来たのが1644(寛永21)年と言いましたが、寄進者は徳川家光。寛永ですもんね~。キリシタン迫害者に思わぬところで遭遇です。ちなみに、先ほどの金堂が再建されたときの寄進者は徳川秀頼です。豊臣時代に建設された城や石垣は、徳川時代に破却されたりしていますが、東寺ではそういったことが行われなかったということですね。寺院に寄進したものだから当然と言えば当然ですけど。



五重塔

国宝

如来像について

五重塔

境内

礎石

五重塔


境内


さて・・・、空海と真言密教の話だけして終わりたいところですが、空海が留学先の中国で景教に触れ、クリスチャンになったとかいうトンデモ説があるので、その件についても書いておきたいと思います。

それをすっかり信じちゃってるクリスチャンも相当いて、空海クリスチャン説を使って宣教しようとしている牧師までいらっしゃるので看過できないんですよね。

歴史学者のようにそんなトンデモ説は無視するということができたらいいんですけど、キリスト教の世界に身を置いているとスルーできないほどに蔓延しているのを感じるのです。多くの人が信じている仏教が実はキリスト教なのだという話になるから、ほんとは深刻な問題です。


中国へのキリスト教伝播


中国にキリスト教が伝播したのは、唐王朝時代の635(中国の年号で貞観9)年のことでした。宣教師 阿羅本(アロペン)が長安を訪れ、太宗の許可を得て布教が始まります。その後則天武后の時代(690〜705年)に迫害を受けるも存続し、玄宗の時代(712〜756年)に発展します。

そして代宗から徳宗の時代(762〜805年)に最盛期を迎えました。その頃建てられたのが、日本の高野山にもレプリカのある「大秦景教流行中国碑」です。建てられたのは781(建中2)年。


空海と景浄


空海が留学生として入唐したのは、景教の最盛期に当たる804(日本の延暦23、中国の貞元20)年のことでした。空海の滞在場所と景教寺院はさほど離れていないので、空海が景教寺院を訪れたことがあったのではないかというのが、空海クリスチャン説の人の想像。

空海がサンスクリット語を習ったインド人僧 般若三蔵が、それよりも前に景教徒の景浄の助けを受けてソグド語の仏教典を漢語に訳したことがあったので、般若三蔵をはさんで空海と景浄は間接的につながっているというのも、空海クリスチャン説の人が論拠に挙げる点です。しかし空海が景教に触れたという記録はありません。


空海が新約聖書を持ち帰った!?


「空海が唐から持ち帰った物の中に新約聖書がある」「最澄は旧約聖書しか持っておらず、新約聖書を貸してくれと空海に懇請して断られたことから、二人は仲違いした」との巷説も流布していますが、これも誤解です。空海が持ち帰った物は朝廷に提出した報告書『請来目録』に記載されていますが、その中に聖書はありません。分類した項目を列記すると以下の通りになります。

経軌142部247巻
梵字真言讃等42部44巻
論疏章等32部170巻
(合計216部461巻)
及び曼荼羅・法具・絵像・恵果和尚からの付嘱物


このうち「経軌」というのが、新訳の密教経典、同じく新訳の顕教経典、旧訳の密教経典を意味するのですが、空海はそれまで日本に伝来していなかった新しい訳の密教経典を請来(仏典を持ち帰ること)したので大いに時の天皇から認められ、留学期間を勝手に短くして帰還した違反行為を許されました。


最澄は新約聖書を読みたがっていた!?


最澄は空海よりも長く唐に滞在して、定められた期間を守って戻りましたが、新しい訳の密教経典は持っていませんでした。そこでそれらを貸してほしいと頼んだのです。これを、空海クリスチャン説の提唱者は、「新訳→新約聖書」「旧訳→旧約聖書」と勘違いして、「旧約聖書はもっていたが新約聖書は持ってなかったから読みたくて懇願した」と誤って解釈しているのではないでしょうか。

自己の請来した経典が最新のものであり、それが許されたのは自分だからだと主張することで、真言密教の優位性を示しているのですから、空海が新しい訳の密教経典の貸し出しを拒んだのは当然なことです。それを最澄までがキリスト教を学びたがっていたという想像を加えて解釈するから、話が一層こじれます。

大体この仏教界の巨人が2人とも、キリスト教を学びたくて仕方なかったかのように捉えている点が首肯できません。天台宗や真言宗はキリスト教に敵わないとでも言うのでしょうか。空海クリスチャン説の人は、空海は景教の隠れ信徒で、仏教に見せかけてキリスト教を伝えていたのだと言ったりしますが、それって随分な言い様ではないですか。怒るべきは、私ではなく仏教徒の方々かと思います。


留学期間と経典筆写の手間


空海の留学期間は約2年で、往復にかかった月日を差し引くと、1年と3か月足らず(804年12月末から806年3月まで)しか長安に滞在していませんでした。そのうちサンスクリット語を学ぶために要したのが3か月。それ以外の一年を青竜寺で恵果和尚に師事して密教の奥義を会得して、恵果和尚が亡くなると日本に帰りました。

日本に持ち帰るための経典を借りる許可を得て収集し、筆写(他の僧にしてもらう)するのも大変手間と費用のかかるものです。限りある時間と所持金を有効に使って、成果ある留学にしなければ、帰国してからの活動に支障が生じます。つまり、いかに空海が天才だったとしても、密教以外の教えを学んだり、手当たり次第に経典を蒐集する時間や費用は無かったと考えられます。


当時の長安は国際都市


空海クリスチャン説では、間接的にでも接点があったことを想像で膨らませて、空海は天才だったのだからキリスト教(景教)も習得して帰っただろうと言います。だけれど天才だったという翼で合理性を欠くところまで飛翔するのは問題です。例えば当時国際都市であった長安には様々な宗教が伝来し栄えていました。ゾロアスター教やマニ教などです。空海はこれらも学んだというのでしょうか。

それらの寺院も青竜寺から徒歩圏ですが、恵果和尚から密教を伝授してもらっている合間に、ちょくちょく通って教えを受けたと考えられるでしょうか。出入りしたのが景教寺院に限られたとしても、そんな風に他の寺院に出入りする者を、恵果和尚は奥義を全て伝授した者だとお墨付きを与えるでしょうか。


空海クリスチャン説の失礼さ


ちょうど私たちが東京でいろんな宗教の名を耳にするように、空海も長安で景教の名を聞いたことくらいはあったかもしれません。だけれど、私たちが新しい宗教に興味を示して習いに行くようなことはめったにありませんよね。宗教的な教えは、単なる知識ではなく信仰と結びついたものなので、あれこれ学べばそれだけ知識が増加して良いという類のものではないと知っているからです。

それなのに空海が密教の奥義を極める傍らで、キリスト教に魅力を感じて景教寺院に行ってクリスチャンになって帰っただなんて・・・。密教寺院は本当はキリスト教の教会だとか、儀式はキリスト教からもらってきているとか、空海クリスチャン説の人は言いますけど、それは仏教を下に見ていることと同義ではないでしょうか。仏教を隠れ蓑にして、本当はキリスト教を信奉して伝えていたのだと主張するからです。

空海クリスチャン説の人は、史実に基づいた考え方をする人のことを「頭が固い」「想像力が欠如している」と批判します。だけれど自分たちの主張が、空海や真言密教の信者に対して非常に失礼だということを見落としているようです。それも「想像力が欠如している」ことだと思うのですが、どうでしょうか。



不二桜

不二桜解説板

境内

境内

京都でモス


たくさん歩いて疲れてしまい、京都での夕食は駅前のモスと相成りました。普通の味かもしれないけど、クラムチャウダーに癒されます。時間を超えて思考を飛ばしているので、味覚は現実的で良いのかも。ごちそうさまでした。



錯視


人間には錯視(さくし)現象が起こるそうです。テレビでやっていましたが、ある芸能人がホテルで火災に巻き込まれ、5階の窓から下を見ると、木の緑が目に入ってきたそうです。ドアからは逃げられないと思って眼下を見つめていると、緑がどんどん大きく見えてきて、そこに飛び降りれば助かるように思えたのだと。

それで飛び降りようとしたところ、同室者が強く手を引っ張って非常階段に連れて行き、助かったのだということでした。錯視現象とは、何かを見つめるあまりそれしか考えられなってしまい、実際以上に大きく見えたり、唯一の道のように思えたりすること。

人は認知する通りに行動するのに、その認知をゆがめてしまうのだから怖いことです。それを歴史を見る際に起こしてしまったらどうなるのでしょう。自分では錯視を起こしていると思わないから、どんどんその主張に凝り固まっていってしまいます。

だから自分の主張に合う物事ばかり見ようとせずに、広く学術的研究で明らかになっていることを眺め渡さなければなりませんよね。本を読んだり、学会で最新の研究成果に触れたりして、自分の主張の裏付けに使えない証拠こそが、もっと自分に必要なのだと肝に銘じて摂取すべきなのです。

景教に関してだけでなく、何らかの石造物を専ら自分の考えに沿ってキリシタン遺物だと認定する人も同じです。歴史的な錯視を矯正するには、人が引っ張って視点を変えてくれなければなりませんが、それを受け入れられる知的柔軟性を持っていたいものだと思います。




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