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キリシタンのあしあとを求めて各地を旅してめぐります♪

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 燃えさかる岐阜 vol.1


 本日の主な訪問地


松阪駅
岩出城跡
円通寺
十七条城跡
古橋


墓参のため年に一度は訪れる三重県。いつもついでに近辺の史跡を回って帰るのですが、今回は岐阜へ。自分のルーツを辿っていると何となく気分がローになってしまうのが難点ですが、東海地方は行きたい所が多いのでいい機会にしようと思います。今日は三重と岐阜を半々で~(o^^o)



松阪駅


降り立ったのは松阪駅。街の様子は私の小さな頃と比べるとずっと静かになったような気がします。日本中、地方はそうなのかもしれませんね。

ここからレンタカーでまずはお墓参り。そしてお土産を持って親戚めぐりですかね。



岩出城跡やーい


所用を難なく終えて、ここからは自由時間。キリシタン城主の牧村利貞(まきむら・としさだ)がいた岩出城跡を目指します。

岩出城跡は松阪市の南に位置する度会(わたらい)郡にあるのですが、度会郡に隣接する多気郡に私の先祖代々の墓があります。

それで以前から関心があったんですよね。だけどなかなか岩出城跡の場所が分からず、今回やっとネットの情報を参考に近くまで来てみたんですけど、やはりどこだか分かりませんね(汗)。どうしよう。。。

と思っていたら、第一村人発見。しかし「この辺りに城址なんてない」とのこと。でも食い下がって聞いていたら思い出してくれたようで、「ああそういえば、あの豚舎の方に城だか何だかの碑があったかも」と教えてくれました。

ありがとう、度会ダンディ!あの青く見えるのが豚舎だそうで、向かってみます。岩出城跡やーい☆



岩出城跡


来てみると碑が!

しかし、「岩出城開墾碑」と書かれていますね。

つまり城跡は開墾されてすっかり農地になりましたという・・・ことですよね。

もしかしたら土塁や堀の遺構が周りに少し残っているのかもしれませんが、素人目には畑や土地の境界と見分けがつきません。めっちゃ平城だったんですね。いい感じの農地になっています。で、でも牧村利貞がここにいたことは確かだろうから、その跡地に来られたことは祝うべきですね♪


牧村利貞について


牧村利貞は信長・秀吉に仕えた美濃の武士。祖父は稲葉良通(いなば・よしみち。=一鉄)で、その庶長子である重通(しげみち)の子として生まれました。外祖父の牧村政倫の養子となり牧村家を継ぎ、信長麾下の武将として、紀州雑賀攻めや荒木村重攻めに参戦。信長の死後は秀吉に従って、小牧長久手の戦いや九州攻め、小田原攻めなどでも軍勢を率いて戦っています。

1590(天正18)年、秀吉より伊勢国内で2万650石(「稲葉家譜」所収の秀吉朱印状によると多芸郡2万557石と度会郡岩手150石、うち息子兵丸への堪忍分300石)を与えられ岩出(手)城主となりましたが、文禄の役で渡った朝鮮において病没しました。

牧村利貞の名は「牧村兵部大輔」として、名護屋の船奉行の中に石田三成・大谷吉継らと共に見え、渡海後の戦いでは、秀吉から昌原の戦いでの戦功を称され、晋州(チンジュ)城包囲軍としても400人を率いて加わっています。没年は判明しているものの、生年が未詳で、亡くなったのが何歳の時だったのかは説が分かれていますが、30代~40代で没しただろうと考えられます。


「利休七哲」、そしてキリシタンとして


華々しい戦績だけでなく、利貞は茶人として、そしてキリシタンとしても特筆されるべき存在です。「江岑夏書」(こうしんげがき)などによれば、利貞は千利休の高弟「利休七哲」の一人に挙げられており、いくつかの茶会記にも記されています。

また利貞がキリスト教に入信したのは1584(天正12)年のこと。フロイスの「日本史」にその経緯が述べられていて、利貞の人となりと信仰がうかがえます。まずきっかけになったのは高山右近で、親友である彼に勧められたことが大きかったようです。

しかし利貞は自分がキリシタンになっただけに留まらず、右近と一緒に他の者も勧めていくようになりました。1585年のフロイス書簡¹によると、蒲生氏郷が入信したのは、右近と利貞が説得したからだということです。

そのように宣教が成功したのは、「彼(利貞)は万人に愛好され、多くの武将たちの前で進んで自分がキリシタンであることを公言し、従前とは違った生き方を示すことで(人々に)大いなる影響を与え」た故だと書かれています。


日本側資料に書かれていない人物像


人から好かれる性格や「はなはだ行状よく何事にも熟達してい」た利貞の姿は、日本側の資料からはうかがい知ることができない面です。フロイス偉いっ!

惜しむらくは、この地の領主となった利貞が、それからほんの3年ほどで異国で他界してしまったことですね。戻って来たならその信仰を生かした領地経営もしたかと思うんですが。それでもその領地内から私の先祖が出たのですから、まぁちょっとは残っていたものがあるのかもしれませんね (*´∀`*)エヘヘ


¹ 松田毅一監訳「十六・七世紀イエズス会日本報告集」第Ⅲ期7巻(同朋舎) 1585年8月27日付フロイス書簡


日本基督教団 大台めぐみ教会


三重県の南部は伊勢神宮の影響エリアで神道が強いように思います。だからキリスト教の教会はとても少ないです。

この辺りにある教会を検索して、日本基督教団 大台めぐみ教会にやって参りました。

外観を見ただけですけど、かつてキリシタン城主がいた地域に、今も教会に通っている人がいるのはうれしいことです。




岐阜へ参ります♪


円通寺


それでは岐阜へ!やって来たのは戸田家歴代の菩提寺である円通寺です。

戸田氏と言えば、大垣藩10万石の藩主の家系。初代藩主戸田氏鉄(うじかね)は、島原天草一揆の際に幕府軍側で活躍した武将です。

氏鉄の名は『嶋原天草日記』を見ると、「去元日、原城を攻むるの処、板倉内膳討死の旨、告来 る。伊豆守士卒を甲斐守に付与し、戸田左門氏鉄を伴い、嶋原城に至りて寓宿し、明日陸路より有馬に着く。」「廿日。賊徒の為四郎母五十歳計り、姉女廿二三歳、妹、小左衛門廿七歳姉婿、甥小平、肥後国に禁獄す。伊豆守信綱、左門氏鉄の命により、これを以て来る。」「伊豆守直ちに戸田左門の仮屋に至り、列陣の御譜代衆を集め、暫く閑談有り。」等、松平信綱と並んで名前が随所に出てきます。

さて、島原天草一揆でキリシタンを殲滅したそんな戸田家なのに「歴代藩主の墓地にはキリシタン灯籠があるから家中に多くのキリシタンがいたに違いない。キリシタン戒名(キリシタンぽい文字が入った戒名)もみられる」と言っている人がいます。「キリシタン灯籠」も「キリシタン戒名」も、私は無いと思っています(学術的立場でこれが有ると言っている人はいないんです)が、頭ごなしに「デタラメだ」と言うのも何なので、ちょうど近くまで来たので寄ってみたのです。

門前には下のような解説板が設置されています。
岐阜県指定史跡 戸田家墓所
大垣藩10万石の歴代藩主が眠る戸田家廟所は、寛永12年(1635)初代藩主戸田氏鉄(うじかね)公が尼崎から大垣へ国替えとなった際、同時に戸田家菩提寺の円通寺を移したことに始まる。先の戦災で大きな被害を受けたが、昭和38年(1963)市政45周年を期に墓の復旧をはかると共に東京の連光寺にあった9代氏正(うじまさ)公・11代氏共(うじたか)公の墓も移すことになり、翌年4月戸田家11代歴代藩主の墓が揃い完成した。大垣市教育委員会



県指定史跡であり、大垣市の肝いりで整備されたということですね。中に入ってみましょう。



戸田氏鉄墓所


こちらが件の氏鉄墓所。藩主の墓はそれぞれ独立した形で新しめの基壇の上に据えられています。

整い過ぎているせいか、歴史を感じさせる要素が少ないようにも思いますが、これが良いという人もいるんでしょうね。

「キリシタン灯籠」は・・・、見たところ無いようですけど、どこかに片付けられてしまったんでしょうか。まあ、一部の人が今も「キリシタン灯籠」と呼ぶ織部灯籠がここにあったとしても、それが戸田家にキリシタンがいた証拠にはならないので、私にとってデメリットは無く、残念でもないんですけど。

一応一つの機会だと思って、完訳フロイス「日本史」を編纂した松田毅一の書いたものから、「織部灯篭とキリシタン宗門」という文章を上げておきますね。私はこれが結論だと考えています。

さて、問題の「隠れキリシタン灯篭」と言われるもの、またはその一部に対する誤った呼称、織部灯篭は近世初期から愛用され、茶室のみならず、寺社、庭園、墓地など、その使用は全国各地に分布している。通常、竿石上部が横にふくらみを持ち、下部に人像が刻まれている点が大きな特徴とされる。この種のものがあたかもキリシタンと関係があるかのように、世間で言われるようになったのは、大正12年(1923)頃からで、静岡の某氏が宝台院の一基の下部に人物像があることに注目して、同地の教会のフランス人司祭に見せた所、カトリックの聖人像で、服装はローマの法服であると認定したと言う。

この種の灯籠と同型の石造物はどこにでもあり、それがキリシタンと関係があるかのように言われ始めると、大正末期から昭和初期にかけてキリシタン研究が活況を呈し、高槻山中や長崎などキリシタン遺物が紹介され、人々のキリシタンに対する関心がにわかに高まった事と相まって、各地で騒ぎ出すようになった。昭和23年(1948)に西村貞は「キリシタンと茶道」において、織部灯篭の一部をキリシタン宗門と関係づけよう論証に努めたが、今日に至るまで織部灯篭をキリシタン宗門と関係があると、立証したものは誰も居ない。

もとより古田織部その者もキリシタンではない。竿石のふくらみや仏像の彫刻を含め、その灯籠そのものも、笠塔、卒塔婆、五輪塔など、中世以前から存在した仏教関係の古い石造文化財の影響を受けている。殊に竿石上部の記号は、灯籠とは別に、17世紀中期から供養塔、墓標、庚申塔が急に造立されて以来、そこに刻まれるようになったものが、竿石にも印刻されるに至ったようだ。以上述べたように、織部灯篭は隠れキリシタンの灯篭ではない。隠れキリシタン灯篭と言うことにすることで、世間の人たちの興味をそそるだけの事である。




大垣聖ペテロ教会


円通寺を後にして、市内の教会も回ってみることに。こちらは日本聖公会に属する大垣聖ペテロ教会です。

大垣市内信徒会HPによると、現在は「無牧で信徒数も少人数ながら、毎主日の礼拝を守っています。現在、岐阜と一宮の司祭による聖餐式が月2回、他は、信徒による礼拝をささげています。」とのこと。

落ち着いた感じですね。



カトリック大垣教会


こちらはカトリック大垣教会。
広い敷地にゆったりと建てられていて、ちょっとカナダっぽい感じ?

HPによると「まるで、建物が宣教するかのように多くの方が訪れるようになりました。困難や苦しみのになった人、喜びと感謝をささげる人様々ですが、共に分かち合い励まし合える場所になりますように願っています。」ということです。



空が!


市内を走行していると、強く照らす夕陽の中に雲が流れて、得も言われぬ光景に。

なんと神々しいことか・・・!

言葉も失うほどだったので、車を停めてもらってしばらく眺めていました。刻々と変わる光の乱舞は、まるで神様の手によって行われるショーのよう。ただただ感嘆するほかありませんでした♪



十七条城跡


瑞穂市に入って、十七条という地域にある熊野神社へ。ここは春日局の夫、稲葉正成が居城した十七条城の跡。

稲葉正成の養子が稲葉政貞なんですけど、横山住雄著「尾張と美濃のキリシタン」に「慶長十三年には、美濃の稲葉十兵衛政貞が洗礼を受け、同十七年になって政貞は夫人のために修士を招き、子供や家族五十人ほどに洗礼を受けさせている」(p19)と書かれていたので来てみました。

しかしここまで来てみても、稲葉政貞のことはどこにも書かれておらず、何も分かりませんね。予想はしてましたけど・・・。この人に関しては情報が少なくて、もっと知る手立てはないものか考え込んでしまいます。特にこちらでは「春日局ゆかりの地」ということが前面に押し出されていて、稲葉正成さえも影が薄いくらい。

うーん、どうなんだろう。正成が当地に1万石の領地を与えられ大名に列した(十七条藩)のが慶長12(1607)年のことで、政貞が受洗したのが本に書かれたとおり慶長13(1608)年だとしたら、キリシタンになった政貞がここに来たことがあったとしてもおかしくはないですよね。はっきりしなくてもどかしいですけど。

とりあえず春日局(&稲葉正成)ゆかりの地に来られて良かったということで (๑'ㅂ')アハ



古橋


では最後は地名しか分からない「古橋」へ。地名が記されたバス停があり、こちらと一緒に周囲の風景をカメラに収めることが最後のミッションになりました。

今から400年ほど前、古橋にはイエズス会の教会がありました。

前掲書のp35には「つぎに古橋(巣南町)には信忠の家臣が多数おり、町の長さ約2キロ、巾1キロほどの所であった。ここでもイルマンが4・5日説教したことによって古橋の領主を始め18人の入信があった。」とあります。その元となる資料を提示できなくて申し訳ありませんけども<(_ _)>



味噌煮込みうどん


本日の夕飯は岐阜羽島駅にあるお店で味噌煮込みうどん。うどんと言っても面が平べったく、きしめんなのが東海ならでは。

あまりしっかりゆでず、芯が残っているのも地元だなあという感じです。一日の疲れが味噌で解かれていくように感じます。



岐阜羽島駅


岐阜羽島駅は岐阜県内唯一の新幹線駅なんですが、JRで他に乗り継げないため不便。一応名鉄の羽島線に乗り換えられますけど、名古屋方面にしか使えない感じで。

新幹線駅なので駅前はビジネスホテルがいくつも建っていますが、ここを拠点に県内各所に行こうとするとどうしてもレンタカーするしか。

こういう街もあるんだなーと一つ勉強になりました。「新幹線停まるなら、そりゃ何でも便利になってるはずでしょ」というのは私の思い込み。日本にはいろんな常識が存在しているんですね。今日から三日間お世話になるのでよろしくお願いします☆





GOZA様


最近出されたの本に呉座勇一著「陰謀の日本中世史」というものがあり、これを読んで溜飲が下がる思いがしました。この本では巷間に言われてきた陰謀論、トンデモ説に対して一つひとつ論拠を挙げながら間違いであることを明らかにしているのですが、そのキレがとても鮮やかで。

例えば本能寺の変に関しては、朝廷黒幕説、足利義昭黒幕説、イエズス会黒幕説、家康黒幕説などがあるのですが、それらはどんな資料をどう解釈しているのかを示した上で、その解釈のどこがどう間違っているのかを説明しています。

このGOZA様(呉座氏を評価する人がネット上でそう呼んでいる)のように各種トンデモ説に対して、歴史学者が一つひとつ間違いを指摘していけばいいのでしょうけど、そこまで手が回らないというのが現状のようです。

すぐに荒唐無稽と分かるような説の間違いを証明しても学会では研究業績にならないし、思い込みと憶測で次々と生み出されるトンデモ説、奇説珍説は、叩いても潰してもモグラ叩きのようにキリがないからです。

私は、これと同様のことがキリシタン史やキリシタン遺物の世界でも起こっているように思います。歴史解釈がどれほどの重要性があるのかわかりませんが、ことキリシタンに関しては日本人の宗教心を捉える要素として、読み間違えてはいけないことだと感じます。

キリシタン界にはびこる誤謬の闇をGOZA様みたいに一刀両断できるといいですけれど・・・。私の実力では厳しいでしょうかね。足りなさは自覚するところですが、一応努力だけでもしてみようと思います (^-^;




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