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キリシタンのあしあとを求めて各地を旅してめぐります♪

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 蒼き切支丹回廊 8


宮崎めぐり一日目、天気は晴れ。関東ではまだコートを着ているのに、こちらではシャツ一枚の人がほとんど。南国だなと感じます。

ちょっとびっくりだったのが、外を歩き始めてしばらくしたら地面が揺れたこと。中くらいの地震ですけど、知らない土地で遭うと怖いですね。気を引き締めてレッツゴー。




午前中は徒歩圏を


今日は11時に髙田先生と待ち合わせていただきました。それまでは一人でホテルから徒歩圏の史跡めぐりを。

スマホのおかげで迷子になりにくくなったのはいいけれど、画面見たり周りを見たりすると疲れるので、やっぱり地図がいいなぁ。ちゃんと町歩き用の地図を作って来なかったことを後悔 (~_~;)



西郷隆盛がいた


まず向かったのは、宮崎駅からも近い「西郷隆盛翁駐在之跡」。「駐在」と言っても、何か仕事をしていたのではなく、西南戦争後しばらく滞在していたということのよう。

石碑には「敬天愛人敬天愛人」の文字。解説板には、この言葉を愛したということは、「西郷は心温かい大変思いやりのある人だったことがうかがえます」とあります。

うーん、その意見に反対するつもりはないけれど、何でそんなに褒め称えるんでしょうね?(←今日の私はブラックかもしれない。。



石井記念こひつじ保育園


閑静な住宅街にあるこちらは、石井記念こひつじ保育園。運営しているのは石井記念友愛社です。

この社会福祉法人は石井十次の“愛と心”を記念する目的で設立されたそう。基本理念は、「天は父なり 人は同胞なれば 互いに相信じ 相愛すべきこと」。

石井十次についてはまた明日、経緯地に行った時に書こうと思います☆



日本基督教団 宮崎教会


少し歩くと日本基督教団 宮崎教会です。教会堂は新しいですが歴史は古く、創立は1887(明治20)年。

宮崎県のプロテスタント史は、1879(明治12)年に宮崎県在住の医師がアメリカン・ボードに伝道師派遣を要請し、これに応えて組合教会の新島襄や同志社大学の神学生だった小崎弘道が来宮したことに始まります。

1887(明治20)年にこちらの教会が、翌年高鍋教会(どちらも現在は日本基督教団)が創設されました。高鍋は石井十次の故郷ですね。受洗したのは大学に進んだ岡山で金森通倫からですけど。

この教会はアメリカから来たクラーク宣教師夫妻によって長く牧会されたそうで、HPによると教会の筋向かいにある栄町児童公園内にクラーク宣教師の銅像があるのだとか。うっ、見逃した・・・orz



日本基督教団 宮崎清水町教会


駅とは反対方向に15分くらい歩くと、今度は宮崎清水町教会が。

元々は「日本ホーリネス教会宮崎ホーリネス教会」として1920年に設立されたそうで、現会堂の完成は1985年。ちょっとイタリアっぽいですね。

宮崎駅周辺にいくつも大きな教会あって、クリスチャン多いのかなと思いました。



円南寺


午前中で仕事を終えた髙田先生と待ち合わせて、初対面のご挨拶をして円南寺へ向かいました(これから三日間すごーくお世話になることを、この時はまだ知らない...)

宮崎市加江田(かえだ)にある円南寺には伊東マンショの母、町の上が、マンショを思って作らせた木像があるということです。

普段公開していないものですが、髙田先生が先方に連絡して見せてもらえることになりました。早速お世話になってます<(_ _)>


伊東マンショについて


あのう、伊東マンショについては何をした人か言っておかなくて大丈夫ですかね? 世界史の教科書にも載っているので、大体のことは知られていると思いますけど、天正遣欧使節の一人で、正使です。

日本巡察使だったヴァリニャーノ神父が、日本宣教の様子をヨーロッパに知らせ、また日本人にキリスト教の本場であるヨーロッパを見せることが、爾後の布教に役立つだろうと考え、九州のキリシタン大名3人に働きかけて、その名代である4少年を送ったのが天正遣欧使節です。

およそ7年をかけて数多くのことを学び帰国した少年たちは、ヴァリニャーノ神父に伴われて秀吉に謁見。バテレン追放令を出した後だったにも関わらず、大変もてなされ、たくさんの褒美も受け取っています。4人が楽器演奏を披露すると秀吉は上機嫌になり、誰か自分の家臣になれば良いなと思ったよう。ちょっと引用してみましょう¹。

(食事の後、秀吉は)彼らを一人ずつ眺め歩き、自分の前に現れる者に対して幾つか質問した。ことに伊東ドン・マンショとは、相当長らく留まって話を交わし、非常な愛情といつくしみを示し、彼に対して、汝の従兄弟を日向国へ復帰せしめた、もし汝ドン・マンショが(予)関白に仕える気持ちがあるならば多大の報酬をとらせよう、と語り、自らに奉仕することを勧告してやまなかった。

秀吉はマンショが特に気に入っていたようですね。実はこの翌日も呼ばれて聚楽第に行っています²。

その翌日関白は、昼食後、巡察使から贈られた時計の調律を教わるために、(伊東)ドン・マンショとともに、(ロドゥリーゲス)修道士を召還した。彼はその碑も午後から後は両人を邸内に留め、無数の質問をし(中略)さらに関白は新たに(伊東)ドン・マンショに向かって、汝は同僚たちといっしょに予の家臣になる気はないかと相談をもちかけた。(中略)だがドン・マンショはあらかじめこういう勧告があろうかと心得ていたので、さりげなく遁辞を述べたところ、関白はもっともなことだと答えた。

使節たちがこのような好意を秀吉から受けた話が、ミヤコでは持ち切りとなり、キリシタンはバテレン追放令以前の状態に戻るのではと期待しましたが、残念ながらそのようにはなりませんでした。


¹ ルイス・フロイス著、松田毅一・川崎桃太訳「完訳フロイス日本史5ー豊臣秀吉編Ⅱ」(2000年、中央公論社)p104
² ルイス・フロイス著、松田毅一・川崎桃太訳「完訳フロイス日本史5ー豊臣秀吉編Ⅱ」(2000年、中央公論社)p121


伊東マンショ像が入った厨子


本堂に入って右手の観音開きの棚にマンショ像が入った厨子が置かれていました。

思ったより大きいですね。約87センチほどだと聞きました。念持仏のようなもっと小ぶりなものを想像していたので意外。

この像には「異国に旅立つマンショを写生したものを、マンショの母・町の上夫人が彫らせたもの」という口伝があるのだとか。

彫ったのは、マンショの侍臣を務めた刀匠・国広ではないかと、マンショを語る会会長の高崎隆男氏は推測しておられます¹。


¹ 雑誌「マンショ創刊号」(2007年、鉱脈社) p75


伊東マンショ像


マンショ像は、ふくよかな印象。おっとりした感じなのに、目元がキリリとしていて貴族っぽいです。

服装と髪型(美豆羅というらしい)に特徴があり、奈良・平安時代の少年みたいですね。確か聖徳太子の絵像もこんな髪型です。貴族っぽい様子なのはそれだけ家の格式が高いことを意味するのでしょう。なんせ日向国の伊東氏ですからね。

袴には伊東氏の家紋、木瓜(もっこ)が配され、袴の腰板には藩主だけに許された庵木瓜(いおりもっこ)が描かれていることから、マンショが藩主と同格だったことがうかがえるということです。ペドロ・ラモンという宣教師がマンショを流浪の孤児だったと書いたことから、今でもその説が流布していますが、私はラモンの方に問題があって、そのようなことを書いたと考えています。

マンショの名誉のためにも、それはちゃんと書いて明らかにしておかないとダメだと思うんですけど・・・、ここで書きましょうか☆


ペドロ・ラモンの履歴と書簡


ペドロ・ラモンは1549年にスペインのサラゴサに生まれ、イエズス会士となり、1573年に司祭に叙せられました。1577年に長崎に着き、翌年からは豊後府内に駐在し、1580年臼杵に修練院が設けられると、そこの院長に任じられました。

しかし1586年12月、島津勢が豊後に侵入すると修練院は焼かれ、ラモンは山口に移らざるを得なくなりました。すると今度はバテレン追放令が発せられたので、平戸の生月島に赴くことに。そこで下に掲げるような書簡を、イエズス会総長宛てに書きました。読んでいただくとわかりますが、天正遣欧使節のことをけなす内容で、とりわけ伊東マンショの出自への攻撃が凄まじいです¹。

天正遣欧使節の少年たちは、日本にとっては単に非常に貧しく哀れな者に過ぎませぬのに、御地で彼らを日本の王侯などと称して待遇されたことを聞きますと、それこそ恥ずかしくて顔を覆うほどであり、当地(日本)では驚いております。

私はドン・マンショと称された少年をよく知っておりますが、彼は豊後国王の甥でもなく、なにかそういう縁の者でもなく、ただの親戚のまた親戚というにすぎませぬ。ただし、豊後の屋形フランシスコ(大友宗麟)の妹と日向の屋形が結婚したことは事実でございます。

そして日向国は滅亡し、マンショの父は殺され、母は逃げ出しましたので、豊後では、誰一人も、その親族の者さえ、まして豊後国王も彼らを意に介してはおりませんでした。その不幸な母は、生活するすべもないので、貴人でもなく、金持ちでもない一人の男と縁を結びましたが、それもしばらくその男と同棲し、後には片方か、または両方で飽いたわけでしょうか別れてしまいました。

それらは世人と豊後屋形の目の前でおこったことでございます。この見捨てられたマンショは、豊後では軽蔑されていて、教会では可哀想に思い、私が豊後の府内にいた時に迎え入れたのであります。彼は御地でシャツに相当するものを一枚身につけていただけでありましたので、私は着物を着させたのでございます。



結城了悟師の見解


日本二十六聖人記念館館長の結城了悟師は、この書簡を原文で読み、他の史料と突合せた上で「噓つきラモン」と評しています。ラモンは使節派遣に反対したが受け入れられず、マンショらの身分を疑わしいと讒言することで、この計画を立案実施したヴァリニャーノ神父を非難することが目的だとしています。

ラモンは1581年に長崎で行われた宣教師会議の時からヴァリニャーノの布教計画に反論しており、その6年後に実際に迫害が起こり、やはりヴァリニャーノの計画が間違っていたと確信したものと考えられます。しかもちょうどその時に島津勢によって臼杵の修練院が焼却され、逃げ出さなければならなかったので、精神的ショックも相当でした。

結城師は、書簡に表れている、事実の忘却や矛盾する内容の併記、針小棒大な訴えが、重なったショックによってラモンの精神状態が正常でなくなっていたことを示しているといっています。


一方、松田毅一氏は


一方、フロイスの「日本史」の完訳でも知られる松田毅一氏は、基本的にラモンの書簡に書かれたことをそのまま事実と考える立場を採っています。しかし、それでも「彼はヴァリニャーノに対して何か反感を抱くようなことがあり、それがあのような報告を執筆する動機になったのではあるまいかと想像せざるを得ない」と述べています。

ラモンの書簡だけでは「マンショ流浪の孤児説」が正しいのかもしれないと考えられるかもしれませんが、秀吉のマンショに対する待遇を見ると、「流浪の孤児」ではなかったろうとわかります。一地方にいる宣教師(ラモンは日本語に堪能ではなかった)には入ってくる情報に限界があり、日本の習俗・しきたりにも十分な知見を有していませんでしたが、秀吉は伊東家とその周辺の情勢を詳しく把握していました。

十分に裏付けられた情報によって、秀吉はマンショを好意的に接するのが良いと考えたわけです。ラモンの書簡は使節一行がインドにいる時に書かれたので、ラモンは使節が秀吉からこれほどのもてなし受けるとは思わず、「日本に帰って来ても、あの少年たちの言うことなど、皆が無視するに違いない」と書いています。その「予言」が大きく外れたのは、ラモンの情勢認識が間違っていたということですね。


世情を知らなかったラモン


国内情勢全般についてラモンはあまりよく知らなかったようです。まず日向国に伊東氏を復帰させたのは秀吉です。しかもラモンが「日向国は滅亡し」と総長に送った1587(天正15)年10月の3か月前、つまり1587年7月に、伊東氏は日向国に領地を回復しているのです。この時秀吉によって「本領御安堵」された祐兵はキリシタン。

私が見てもラモン書簡は全体的に事実誤認が多くて、自分が保護を受けていた大友宗麟と伊東氏の婚姻関係を間違って認識(そんな勘違いする?という間違い)していて、高山氏は家格が高いが伊東氏は低いとか言っていて(逆ですね)、恨みがましい文体と相まって、ちょっと心配な人だなぁという感じ。

とにかくいろんな意味で、ラモンは駐在していた九州南部の状況も含め、日本の世情に疎かったと結論付ける外ありません。大体、マンショの父親が戦いで「殺され」たのは事実ですが、生活できないくらい貧しい境遇で、母親が子供を捨てて男に走り、その男とも飽きて別れたとか、マンショは「豊後で軽蔑されている」とか書くのって、どうなんでしょうね。ショックで妄想が高じたにしても弁護できません。


「クワトロ・ラガッツィ」の若桑みどり氏は


学術的にも評価されベストセラーにもなった「クワトロ・ラガッツィ―天正遣欧使節と世界帝国」の著者 若桑みどり氏は、ラモンがマンショを流浪の孤児だと書いたのは「無知か悪意からである」としています。また侍臣として刀匠の国広を伴っていたとすれば、流浪の孤児というイメージからは遠くなる、と。

侍臣を伴って大友家に身を寄せていたとすれば、宗麟を訪ねてきたヴァリニャーノと知り合った可能性があり、そこから有馬のセミナリヨに行くようになったとも考えられると述べています。

そしてこんな書簡を書いたラモンの動機としては、元々ラモンは日本人を西洋人と対等と考えておらず、日本を教化すべきだと考えていた。しかしそれが1585年、使節たちがローマで王侯のように迎えられていると知り、驚きかつ憤慨したのであろうと。

それで「あれは王子ではない、乞食だ」と叫びたかったのではないかと推察しています。若桑氏の専門は、キリシタン史ではなく西洋美術史とジェンダー史ですが、より人の気持ちをうがった見解ではないかと思います。


¹ 岡本良知ほか編訳「九州三侯遣欧使節行記 続編」(昭和24年) p62~70


堀切峠


堀切峠は眼下に日南海岸の中でも有数の鬼の洗濯岩が広がり、太平洋の澄んだ海を一望に眺むビュースポット。山桜がとてもきれい。山桜は開花時期が短い

鬼の洗濯岩


鬼の洗濯岩”は波の浸食作用により断層の硬い層だけが残り洗濯板のように連続した突起になった岩。鬼の洗濯岩”は青島からいるか岬付近まで続いている。

道の駅フェニックス


日南海岸を走る国道220号線(日南フェニックスロード)は日本の道路100選。

アコウの木


内海のアコウ。国の天然記念物 樹齢約300年
野島神社境内右手にあるアコウ(このアコウも大きな木であり、側道に張り出している

ガジュマルに
アコウの種子は鳥類によって散布されるが、その種子がアカギやヤシなどの樹木の上に運ばれ発芽して着生し、成長すると気根で親樹を覆い尽くし、枯らしてしまうこともある。そのため絞め殺しの木とも呼ばれる。これは樹高の高い熱帯雨林などで素早く光の当たる環境(樹冠)を獲得するための特性


鵜戸神宮


鵜戸神宮は、主祭神日子波瀲武鵜葦草葦不合命(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)

第十代崇神天皇の御代に建立されたと伝えられ、その後第50代恒武天皇の頃、天台宗の僧・光喜坊快久が、勅命により当山初代別当となり、神殿を再興し、同時に寺院を建立し「鵜戸山大権現吾平山仁王護国寺」を賜った。




本殿


桜門をくぐり、千鳥橋右手に絶景の太平洋を見ながら(写真下右)しばらく歩くと、急な階段を下りて御本殿に向かう(
本殿は、太平洋に面し、ぽっかりと空いた大きな洞窟の中にある(右の写真)、この洞窟は、主祭神の産殿の址と伝えられる霊地


見出し


鵜戸神宮付近の海岸は、一帯を覆う砂岩層の柔らかい部分が太平洋の荒波によって削られ、形を変え、独特の奇岩で形成されている

日南駅



飫肥城跡 駐車場




見出し


飫肥城の石造物から伊東家ゆかりの報恩寺、長持寺、大龍寺の墓域に残る墓碑や石造物を見て回りました

豫章館




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五百神社




伊東家の墓所




町の上とマンショの墓




平部橋南の墓




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聖杯?




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願成寺



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夢見橋













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