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キリシタンのあしあとを求めて各地を旅してめぐります♪

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 蒼き切支丹回廊 7


今日は半分移動日。午前中だけ天草の本渡を回り、午後には高速バスで熊本市へ、バスを乗り継いで宮崎へと向かいます。

限られた時間だけど、見るべきものを見て、自分に何かを刻めますように☆




宿の朝食


民宿の朝食は純和食。中庭の鯉を眺めながら、落ち着いたひと時を過ごせました。今日天草を発つというのがちょっと物寂しいですね。それだけ楽しく過ごさせてもらったということだから感謝なんですけど (๑˃ᴗ˂̵)

延慶寺


徒歩で向かったのは延慶寺。天草五人衆と小西行長・加藤清正連合軍が戦った天草合戦の際、木山弾正の妻お京の方が討ち死にしたと伝えられる寺ですね。

天草が関わった戦や一揆、イエズス会のレジデンシア等々を思うと、その年代をしっかり頭に入れておかないと混乱してしまいますので、ここで年表的なものを書いてみましょうか。今更!?って感じですけどw。

やっぱりイエズス会のカタロゴが一番当てになるので、それに日本史上の出来事をプラスして作成された年表¹の記述を抜き出しつつ、多少私のアレンジ(修整)を加えて書きますね。島原天草一揆までですけど。


天草キリシタン史年表


1565(永禄8)年 志岐麟泉、イエズス会のコスメ・デ・トルレスに志岐伝道要請
1566(永禄9)年 アルメイダ、ベルショールを伴って志岐に来島。志岐レジデンシア創設
1567(永禄10)年 志岐でキリシタン児童(7~8歳)の教育始まる
1568(永禄11)年 トルレス、志岐に来島
1569(永禄12)年 アルメイダ、河内浦に渡来し、布教に着手。天草鎮尚の布教許可に弟たちが反乱を起こす
1570(元亀元)年 ポルトガル船、志岐に入港。7月、志岐で会議行われる。10月、トルレス、志岐で没す
1571(元亀2)年 志岐麟泉、棄教。布教長フランシスコ・カブラル河内浦に渡来。天草鎮尚、受洗
1577(天正5)年 志岐レジデンシア停止に
1579(天正7)年 天草鎮尚、弟たちに勝ち、追放する。アルメイダ、司祭叙階のためマカオへ
1580(天正8)年 天草のキリシタン、9000~1万1000人の記録。アルメイダ、帰島。
1581(天正9)年 志岐で第一回イエズス会会議開催。アルメイダ、天草のカーサの上長となる
1582(天正10)年 天草鎮尚、没す。天草のキリシタン数、1万6000人
1583(天正11)年 アルメイダ、河内浦で死去
1584(天正12)年 天草久種、島津義久により鹿児島に抑留される
1586(天正14)年 島津が豊後の大友攻めを企て、天草五人衆は参戦させられる
1587(天正15)年 豊臣秀吉軍の南下で島津勢敗走。天草五人衆は豊後の一万田城に孤立するが、キリシタンのよしみから志賀親次に救われる
1589(天正17)年 佐々成政、国衆一揆の不始末から肥後国を没収され、替わって肥後は北半分が加藤清正の、南半分は小西行長の所領となる。天草五人衆は小西の与力付を命じられる。ノビシャード、有家から河内浦に移設。9月、志岐鎮経と天草久種、宇土城普請を拒否し、天草合戦起こる。本渡レジデンシア破壊される。11月、志岐城開城、次いで本戸城が落ち、天草合戦終わる。志岐代官に小西配下のビセンテ日比屋了荷が就任し、レジデンシア復興に着手
1590(天正18)年 ビセンテ兵右衛門、全キリシタンを対象としたコンフラリアを組織
1591(天正19)年 志岐の画学舎創設(~1600年まで)。大村のノビシャード、河内浦に移設。5月、加津佐のコレジヨが河内浦に移設。7月、天正遣欧使節がコレジヨに入る
1592(文禄元)年 文禄の役起こる。天草久種、栖本親高、大矢野種基、小西軍について朝鮮へ渡る。天草のキリシタン数、2万3000人。天草本作られる
1597(慶長2)年 ノヴィシャードとコレジヨ、長崎へ移転。
1600(慶長5)年 小西行長、関ヶ原合戦で敗れる。天草久種、戦場を逃れ、小早川秀秋に保護される。小西没後、肥後は加藤清正領となり、天草の国衆は清正配下となる。志岐・上津浦・大矢野のレジデンシア閉鎖
1601(慶長6)年 清正の天草と豊後鶴崎の替地が叶い、天草は唐津城主寺沢広高領となる
1603(慶長8)年 天草のキリシタン数、3万から1万4000人に減少。寺沢広高、キリシタン迫害開始
1607(慶長12)年 寺沢広高、没す。堅高が家督を継ぐ(1609年)
1609(慶長14)年 天草のキリシタン数、1万人
1612(慶長17)年 﨑津のレジデンシア消滅
1614(慶長19)年 江戸幕府キリスト教禁令を全国に公布。天草で本格的迫害始まる。3月、アダム荒川殉教
1616(元和2)年 寺沢堅高、検地を行う。松倉重政、島原城主となる
1621(元和7)年 三宅藤兵衛、天草番代として赴任
1630(寛永7)年 松倉重政が没し、勝家が継ぐが暴政を極める
1633(寛永10)年 高浜で転び証文を実施(恐らく天草全島で行われた)
1634(寛永11)年~ 日本各地で凶作が続き、天草では餓死者続出
1637(寛永14)年 12月、島原天草一揆起こる
1638(寛永15)年 10月、一揆終焉


こうして見ると、いくつかの転換点が見えてきます。でも天草の人たちではどうしようもなかったことばかりですね。この動かしようのない状況の中で、潜伏への道を選び、それが露見して「異宗」へと変わっていったことは、当然本人たちの責めに帰すべきことではありません。

歩んだ道は長崎の浦上キリシタンとは違うけれど、天草のキリシタンに寄り添いたい気持ちが生じるのは、その悲劇性からですかね。浦上や他の地域のキリシタンは島原天草一揆を経験していないのですから。もちろんそれぞれの十字架があるので比べることはできませんけど。


¹ 今村義孝「近世初期天草キリシタン考」(天草文化出版社、平成9年) p217


兜梅


おっと、すっかり兜梅(かぶとうめ)をスルーするところでした。臥龍梅ですね。枝張りは東西約11メートルもあるそうです。

お京の方は、夫の木山弾正が戦死した後、夫の鎧・兜に身を固めて、娘子軍と共に打って出ましたが、この寺の梅の小枝に兜を取られて女性であることが判り、雑兵の手にかかって落命したのだとか。

お京の方が梅の木を呪って「花は咲けども、実はなるまじ」と言ったとされ、この木には実がならないという伝説があります(天草コレジヨ館のガイドさんは、兜梅の話をして「花が咲かないはずだが、咲いている。呪いが解けたんでしょうかね」と言っていた気がする。伝説だからいろんなバージョンがあるのかも)。

はい、年表を確認しましょう。天草合戦は1589(天正17)年のこと。木山弾正は本戸城の客将で、加藤清正と一騎打ちして戦死しました。じゃあ、お京の方を討ったのは誰だったんだろう。戦いにキリシタンが参戦していると、その人がやったのでなければいいなと思ってしまいます。



明徳寺へ


次は明徳寺(みょうとくじ)へ。天草島原一揆後、キリスト教から改宗させ、民心を安定させる目的で、1645(正保2)年、初代代官 鈴木重成が建立した寺です。開山は山口の瑠璃光寺の禅師 中華珪法(ちゅうかけいほう)。

この先訪れる所は、以前も来たことがある所なのだけど、その分もっと詳らかに見てくることにしましょう。一人だから物思いに耽り放題だし (*´ω`)



明徳寺


歩くこと5分で明徳寺に到着。石段の下から山門を見上げると、「権威」という言葉が浮かびます。鈴木重成が民に示そうとしたものでしょうね。

その「権威」に歯向かえば命を落とすけれど、従えば怖いことはないのだという無言のプレッシャーを感じます。

ふと見ると、案内標識が「天草学林→」となっていますね。天草学林(コレジヨのこと。訳語として不適切なため、もう「学林」という言葉を使うところは無いと思ってたんですが)が、右方向にあると言っています。この標識を建てた人(団体)は、キリシタン時代にコレジヨが本渡(つまりこの近辺)説を採っているようです。

でもこの本渡説も、研究が進んで今ではほぼ否定されているんですけどね。今でこそ本渡はバスターミナル等があって天草下島の中心となっていますが、昔は天草氏の居城する河内浦が栄えていて、宣教師も河内浦のことを「天草」と呼んでいました。


コレジヨは河内浦にあった


エビデンスを挙げておきましょうかね。資料を確認しておかないと後でモヤモヤするので。

1601年9月30日、フランシスコ・ロドリゲス神父による年報
「天草では迫害の時、長い間コレジヨがひっそりと置かれていた河内浦という町に、一人の神父が着いたある日、志摩殿(寺沢志摩守)配下の役人が三人の信者を捕らえた。殿の命令に背いて森の木を伐採したので、彼らの首を切るように命令したところに、神父が未信者であった役人に、気の毒な信者のために取り次ぎを願って送ったメッセージだけで直ちに許された。」¹


この年報は、ローマのARSIでなく、イギリスのBritish Museum,Add.Mss.9857にあるので、以前は見逃されていたのかもしれません。しかし「コレジヨが天草にあった」という記述は、フロイスの「日本史」その他に多々見受けられる表現で、宣教師にとって「天草」は河内浦を指していたのですから、それを本渡と解することはあまりに不自然です。

ちなみにARSIとはローマにあるイエズス会文書館のことで、文書には全て番号が記されています。複雑化する仕事を整理するため、イエズス会では各地の報告書や手紙を「年報」や「カタロゴ」(名簿)として作成するよう指示していました。

その記録が、日本に関係する文書だとARSI Jap-Sin、インド関係の記録にはARSI,Goaなどと分類されて今に残っているのです。日本では1579年、ヴァリニャーノ神父が最初に来日した時からそれらが作成され始めました²。イエズス会の歴史意識の高さがうかがえると思います。


¹ 結城了悟「イエズス会宣教師の記録における天草コレジヨ」(2001年、日本二十六聖人記念館)p44
² 同 p9


明徳寺山門


明徳寺山門は天草市の指定文化財。二層の楼門は格式高さを物語っています。

二体の仁王像が睨みを利かす隣には、双聯(そうれん)と呼ばれる細い札が。

ここにキリシタンをディスった文句が書き留められているのは有名ですね。曰く、

祖門英師 行清規 流通佛陀之正法
将家賢臣 革幣政 茡除耶蘇之邪宗


だとか。・・・う、漢語苦手。読む気になれない ( ;∀;)
たぶんここだけわかればいいと思うのが、「茡除耶蘇之邪宗」(やそのじゃしゅうをせんじょす)ですね。何度塗り直したかわからないけど、今もピカピカ金字でクリアに読めるこの文字列。表面的には棄教したキリシタンたちは、これを何と思って見ていたんだろう。



明徳寺本堂


麗らかな春を迎えた天草の、力と権威を示す堂宇の前で、今を生きるキリシタン(キリスト教徒)の私には、どんなことが感じられるのか、自分の心に耳を澄ませてみました。

まずは哀しみ、続いて空しさ、それから宙に浮かんで行くような止揚性でしょうか。

信仰と弾圧という対立するテーゼから、ここではないどこか、もう一つ高い次元へ止揚しようとする意識が湧いてきます。

キリシタンが止揚(アウフヘーベン)なんて言葉を知っていたはずはないけれど、二律背反するどちら側でもなく、自分たちのもう一つの道を模索したようには思います。それが「潜伏」。踏絵を踏みながらも、経消しのオラショを唱えながらも、メダイの代わりにアワビを見つめながらも、自分たちの信仰を持とうとしていたその姿は、もう一段階高い生き方、彼らが見出した答えだったと考えることはできないでしょうか。

それを外部の者が批判したり、キリスト教信仰の変質と断じだりするのは、傲慢なことかもしれませんね。「潜伏」を一種の「止揚」と捉えるなら、もっと違った評価ができそうです。



本渡城跡へ


歴史に哲学用語を持ち込むなんて、物笑いのタネですね。やめときましょう(^^;

明徳寺の山門前の道は、天草キリシタン館の裏手に続いています。桜は散ってしまっているけど、日陰に椿が残ってて、犬の散歩にもってこいな感じ。

さて天草がコミットする戦乱を4つほど年表の中で赤字で示しましたが、1つ目にあたる”1569(永禄12)年 天草鎮尚の弟たちの反乱”に触れておきたいと思います。

この年アルメイダが天草鎮尚に会って布教の許可を得たのですが、それに反対する鎮尚の弟 大和守と刑部大輔が、薩摩の島津氏を後ろ盾に反乱を起こしました。宗教問題が絡んでいますが、実質お家騒動ですね。この乱のために、鎮尚はひとまず本戸にあった支城に難を逃れました。それがここ本戸(渡)城です。鎮尚がこの城に逃れることができたのは、妻が本戸城主の妹だったからです。

アルメイダも河内浦から佐志ノ津(サシノツ。﨑津のこと)に移り、そこで宣教を開始しました。後に﨑津や大江に多くの潜伏キリシタンが残ったのは、この時からアルメイダが布教の先鞭をつけたからだと考えられます。


弟たちの反乱について


資料を確認しておきましょうね。フロイスの「日本史」からですけど。

「かの殿の主な居宅は河内浦という地にあり、殿には四人の息子と二人の(兄)弟がいた。」¹

「殿の弟たちは非情な異教徒たちであった。その一人は大和守(ヤマトノカミ)、他は刑部大輔(ギョウブノタユウ)と称した。」²

「(天草の)殿は五、六ヵ月間、大いに困窮しながら本渡の城に引きこもっていた。弟たちが自分に対して完全に優位を保っていたので、ふたたび自領に戻される希望はほとんど持てなかった。と言うのは、弟たちは久玉(クタマ)城を接収した後、激しい勢いで河内浦に突入し、たちまちいっさいを掌握してしまったからであった。」³


鎮尚が、この弟たちに勝って追放するのが1579(天正7)年と年表に書きましたが、フロイスは弟たちのその後のことも少し書いています。一人は相良殿の領地に行って、そこで相良殿が戦死した時共に死に、もう一人は大矢野に亡命して、大矢野種元が受洗する(1587年)と自分もキリシタンになったと⁴。


¹ ルイス・フロイス著、松田毅一・川崎桃太訳「完訳フロイス日本史9ー島原・五島・天草・長崎布教の困難」(2000年、中央公論社)p283
² 同 p286
³ 同 p294
⁴ 同 p295


弾正社


本渡城跡に着きました。天草キリシタン館の背後には、弾正社が。兜梅のところで触れた木山弾正の墓です。

木山弾正は元々肥後国木山の赤井城主でしたが、島津氏の侵攻をうけて落城。縁続きの天草種元を頼って本戸城の客将となりました。

そして年表2つ目の赤字”1589(天正17)年の天草合戦”において、天草氏側に立って戦い、加藤清正軍を佛木坂に迎え、清正と一騎打して戦死。長子傳九郎もお京の方も討ち死にしました。解説板と子孫の方が建てた顕彰碑があります。

ちなみに文中に出てくる天草種元は、天草氏の分家筋。本家の天草鎮尚・久種父子に仕えたキリシタン武将でした。本戸城が落ちると小西勢に投降し、与力となって文禄・慶長の役にも出陣したとか。・・・皆さん人生の起伏がすごくてジェットコースターのようだと、のほほんと生きている現代人の私には感じられます。



本渡城跡


本渡城跡は、「殉教公園」「城山公園」ととして整備されています。

ここ自体が殉教地ではないけれど、多くのキリシタンが関連した城であり、天草切支丹館やキリシタン墓碑群、殉教戦千人塚(島原天草一揆の戦没者を合祀した慰霊塚)があるからでしょう。

「殉教」という言葉が、少々誤解を生みそうですけどね。



天草キリシタン館


では天草キリシタン館へ。本渡城跡の一番高い場所にあります。

天草キリシタン館といえば天草四郎の陣中旗。

でも重要文化財に指定されているため、本物は最大でも年30日、一回につき一週間しか展示できません。なので今展示されているのはレプリカ。残念。これは本気でいつか再トライして見たいです。


陣中旗と展示コーナー


鍋島藩の鍋島大善の子孫に渡され、1995年に寄贈されたこの旗の正式名称は「綸子地著色聖体秘跡図指物」。制作者は、山田右衛門作か他の誰か。見ると、中央にはカリス(聖杯)、その上に十字架入りのホスチア(ご聖体)、その両側に手を合わせて向かい合う天使が描かれていています。洋風というのか、何だかイラストのようなテイストですね。

陣中旗を見終えて順路を進むと、大きな展示室に出ます。大きく「天草キリシタン史」「南蛮文化の伝来と天草」「天草・島原の乱」「乱後の天草復興とキリシタン信仰」の4つのテーマに分かれた展示構成で、まず目を引かれたのは、本渡城の中世城郭から出土した石製印鑑や陶器の皿など。

それから「天草のキリシタン墓碑」というコーナーです。かまぼこ型のキリシタン墓碑が一基置かれていたのですが、風化してボロっとこぼれ落ちそうになっていて、何か訴えてくるように感じました。解説パネルによると、天草ではキリシタン墓碑は有明海沿岸側の9ヶ所で見つかっているそう。二江、ぺーが墓、岩宗、鬼の城公園、キリシタン館、城山公園、正覚寺、湯島、天草四郎公園だと。


展示から感じられるリアリティ


また、本渡の瀬戸(せど)で発見されたという鐙(あぶみ)がリアルでした。人が死んだという感じがグッと伝わってきて。瀬戸は上島と下島の海峡で、今は瀬戸大橋がかかっている辺り。海を渡る途中討ち死にしたんでしょうか。

三宅藤兵衛の酒瓶付弁当箱はとても豪華。イメージと違い、結構贅沢な暮らしをしていたんですね。天草に鉄砲鍛冶が住んでいたことは初めて知りました。どこかで本で読んだことくらいあるのかもしれませんが、ちゃんとインプットできてなかったのかも。見て、驚いたりして、記憶しなきゃな (^-^;

壁いっぱいに拡大した島原陣図屏風は、見どころを解説してくれていて親切。中でも大江丸の部分が取り上げられ、「(すでに城中の食糧は尽き)戦いの足手まといにならないように老人、女性、子供は一揆勢自身の手で殺され、葬られることもなく捨て置かれていました」とあったのには衝撃を受けました。そうだったんですねぇ。


落城までのカウントダウン


「これ作ったの誰⁉」と感動してしまったのが、原城籠城から落城まで、日にちをカウントしながら一連の動きを追った展示。1/21(86日目)には、一揆軍サイドの動きとして、城中から矢文が来て「城内に三人の大将あり、征伐して残りの者を助けてほしい」と言ってきたことに対し、幕府軍サイドの動きは、信綱は一人も助命しないと明言するも、城中への矢文には、宗門以外の助命を認めるとしたとか。

つまり「干殺し」策の指示ですね。それが動くのが2/24(119日目)。信綱らが評定し、城攻めを決定。合い言葉を「国か国」としました。そして3日後に攻め始め、翌2/28(123日目)に原城は陥落。最後の戦いよりもむしろ、それまでの攻防が壮絶で、ある意味そこで戦いは決していたのだと知りました。


キリシタン遺物


キリシタン遺物、潜伏キリシタンの宗門具としては、板踏絵、マリア観音、逆さ観音、隠し十字仏、銭仏、鏡仏、つば仏、大黒天などが展示されていました。板踏絵以外は「複製」の文字もなく、逆さ観音などは「大江から発見」とだけ書かれていました。

一番信憑性が高く思えたのは、潜伏キリシタンの家から発見された大黒天ですかね。ちょっとしたブームだった大黒様の一体がここに。これからこういった遺物の鑑定に力が注がれるようになってほしいと切望しております。

展示室を出た所には学産官の連携事業として、熊本大の安高氏が関わったコーナーがありました。よく各地の資料館で「踏絵」と書かれて展示されている代物が、「真鍮踏絵 制作年代:1931年」とのキャプション付で、心の中で拍手喝采。こういった有無も言わせぬ研究発表が、きっと世に蔓延している誤謬の闇を晴らしていくことでしょう。パチパチパチ。



キリシタン墓群


キリシタン館から出て階段を下ると、城山公園キリシタン墓地に出ます。

五和町に点在していた墓石を集めて造られた「墓地」で、墓は昔からここにあったわけではありません。



城山公園キリシタン墓地


公の施設ながら、キリスト像と十字架が建てられていてカトリック巡礼地のよう。後ろにフェニックスが植えられているのも、いいアクセントになっています。

天の世界を彷彿とさせる感じにしているのでしょうか。

アダム荒川とアルメイダ神父の記念碑も建てられていますね。解説板もあって♪



キリシタン墓碑


置かれているキリシタン墓碑は9基。刻まれた十字が読めるものもあれば、ほとんど見えなくなっているものも。

こういった墓碑を自然のままに、風化するならするでそのままにしておくのも手ですが、私としては強化ガラスで覆うことをお願いしたいです。

景観としては現状が良いのは理解できるし、直接触れることで何かを感じられると言う人もいるでしょう。実際山の中にあったのだから、その時と同様にしておくのがいいという考え方もありそうです。

だけど一たび十字が欠けたり、キリシタン墓碑の形状を著しく失うことになったら、この遺物の価値は甚だしく落ちます。後の時代の人が研究する際にも、写真等で確認するしかなく、調査したいことができなくなっているかもしれません。景観よりも、後々のことまで考える必要が大きいと思います。

市民に触れられる機会をということであれば、年に一度、覆いを取って見学できる日を作るなど方法がありますし、その方が価値を認識して触れる機会になるやもしれません。どうかその点を今の管理者の方々に検討してもらいたいです。



本渡城跡


せっかく本渡城跡にいるのだから、1589(天正17)年の天草合戦(天正天草合戦とも)について、もう少し振り返っておこうと思います。この戦いの一番の舞台は本渡城だからです。

まず、事の起こりは1587(天正15)年、秀吉の九州征伐によって天草五人衆が佐々成政与力となり、翌年の成政失脚後、小西行長の与力に任じられたことに始まります。

天草五人衆のことを、秀吉側では成政・行長の家臣団に組み込んだつもりでいたのですが、彼ら自身はそう了解しておらず、行長と対等の立場で、有事の時に協力すればよいものと考えていたのです。


天正天草合戦


そんな中、行長が宇土城を築くにあたって、家臣同様に五人衆に対して課役を申し付けたことを発端となり、五人衆と行長の戦いが勃発しました。

戦いは、①袋浦合戦、②志岐城攻め、③本渡城攻めの三段階に分けられます。この戦いでリーダーシップを取っていたのは、志岐氏と天草氏。行長は、天草氏はキリシタンだからできれば救いたいと考えており、志岐氏が滅べば天草氏も降伏するだろうと考えて、志岐氏を攻めました。

この志岐城攻めで、志岐鎮経は薩摩に、養子の諸経は有馬に落ちのびました。それでも天草氏は講和に耳を貸さなかったので、行長は加藤清正に援軍を求めます。小西・加藤連合軍が天草氏の第二の城である本渡城を包囲し行われたのが③の本渡城攻めです。

本渡城の攻防戦は、1589(天正17)年11月20日から25日にかけて行われ、25日の戦いで城主の天草種元は自刃し、本渡城も落ちました。この時激しく戦ったのが木山弾正の妻と婦女子だったことは、前述のとおり。落城の報を受け、河内浦にいた天草久種(ドン・ジョアン)は、宣教師を通して行長に降伏を申し出ました。

これに倣って、大矢野氏、栖本氏、上津浦氏も降伏したので、天草は行長による一円支配となりました。そして志岐城代として、日比屋了荷が取り立てられ、天草の地に送られました。了荷は堺の豪商 日比屋了珪(日比谷了慶とも)の子でキリシタン。既に秀吉のバテレン追放令が出されていましたが、天草氏と日比谷了荷はコレジヨの天草移転を推進し、キリシタン保護に努めました。


キリシタン武将 伊地知文太夫


この天正天草合戦により、天草におけるキリシタンの後ろ盾はより強化されたと言えるのですが、一方でキリシタン同士が戦ったため、キリシタン武将が戦死するという痛ましいこともありました。伊地知文太夫という、河内国飯盛(山)城で受洗し、霊名パウロを授けられた武将が、①の袋浦合戦で亡くなっています。

「伊地知文太夫を大将として三千人、志岐という所へ行き、志岐城主林専種々段をめぐらし、文太夫をはじめ袋の浦という所にて一人も残らず討取」とあります¹。

伊地知文太夫は烏帽子形城の大身で、1564(永禄7)年、イルマン・ロレンソからキリシタンの教理を学び、ヴィレラ神父より洗礼を受けました。それ以来熱心な信徒として生き、1581(天正9)年ヴァリニャーノ神父が京都に行く途中もてなした武士たちの中に名前が見えます。

文太夫は高山右近の義理の兄弟で、堺に有する数軒の家を教会を建てるために寄付したことがあります。三人の息子マンショ、シモン、トマスはセミナリヨに入学。1582(天正10)年、領地を失って小西行長の家臣となり、1588(天正16)年、行長が肥後に移封された際一緒に従って来ました。

この人のことも記憶しておきたいものですね。天草に関連した戦いというと、この後に続くのは、年表で赤字にした1600(慶長5)年の関ヶ原合戦と1637(寛永14)年島原天草一揆が浮かびますが、その前史ともいうべき動きをたどっておかないと、信徒たちがどのような状況を生き抜いたのかがわからないので。


¹ 松田毅一「南蛮史料の研究」p1146 元資料は「清正記」及び「九州記」


土塁


横手に土塁を眺めながらの坂道。親族と思しきグループが音楽かけて花見してました。自由なり。

せっかく伊地知文太夫が出てきたのだから、小西行長に扈従して天草に来たキリシタン武将についてもう少し触れておきましょう。

外せないのは、サンチョ三箇頼連(よりつら)とジョルジ結城弥平次、先ほども出てきたヴィセンテ日比屋了荷ですね。彼らは筋金入りのキリシタンでした。



河内・和泉から来たキリシタン


ザビエルの来日が1549年ですが、それから10年ほどは雌伏の時でした。潮目が変わるのは1564年頃から。当時の権力者松永久秀の命で、結城忠正と清原枝賢がキリシタンの教義を吟味するようになったのですが、二人がロレンソ了斎の説教に感銘を受けて、キリシタンになってしまいました。

続いて結城家の斡旋で三好長慶が治める飯盛城で宣べ伝えが行われ、家臣のうち73名が受洗。その中に伊地知文太夫や結城弥平次、三箇頼連の父 三箇頼照がいました。つまり彼らはキリシタンのはしりであり、布教の道筋を作った人たちなのです。

日比屋了荷に至ってはもっとそうですね。この人はたぶんザビエルに会っています。1550年、ミヤコを目指して来たザビエル一行は、荒廃した様子を見て落胆。気を取り直して近江に向かうも、贈り物を携えて来なかったことで門前払いに遭います。意気消沈した上に、慣れない気候と人々からの冷たい仕打ちで、ザビエルは疲労困憊して倒れてしまいました。


日比屋家と小西家


そんな折、ザビエル一行を迎え入れて、回復するまで滞在させて介抱したのが日比屋了珪でした。滞在中にザビエルから教えを聞き、日比屋家の者たちが受洗。その後畿内でのイエズス会の活動を支援し、教会を保護しました。日比屋家の中でも了荷は、父親の了珪より先にキリシタンになっており、熱心さで知られていました。

この日比屋家と小西家が親戚で、共に堺の豪商で親しかったことから、小西家にも福音が入っていきました。だから小西行長にとっては、この人たちは皆信仰の先輩で、それも腕が利く頼りになる存在だったのです。戦国の世で自分がビッグになったけれども、いつの時代も支えてくれる人如何。

特に行長は、小豆島1万石から肥後国の南半分15万石に大出世していますから、有能な家臣を急募したはず。古くからのキリシタンならどれだけ勇気をくれたことでしょう。彼らへの信頼は、その任地からもうかがえます。まず志岐氏の居城だった志岐城を了荷に任せます。了荷は志岐城下にコンフラリア(信徒の互助組講)を組織しました。


行長とキリシタン武将


天草五人衆の中では志岐麟泉だけが棄教して迫害に転じていたので、志岐氏を滅ぼして了荷が入ることで、全域がキリシタンによって治められるようになりました。三箇頼連が知行地を与えられたのは上津浦。上津浦城の上津浦種直は、五人衆の中では一番遅い1590年に受洗していて、上津浦がキリシタンの後発地域だったことは否めません。そこにテコ入れする目的で頼連が入ったのかもしれません。

また行長があてがわれた肥後国南半で、城があるのは宇土・隈庄(くまのしょう。今の下益城など)・矢部・八代。宇土城は行長が居城し本拠地とし、矢部の愛藤寺城には結城弥平次が城代として入りました。隈庄城代は行長の弟ペドロ小西主殿助、八代城代にはジャコベ小西美作。いずれも畿内出身か親類衆のキリシタンを配したのです。

つまり天正天草合戦により、国人領主のレベルから大名レベルに、キリシタン支配が重層化されたと見ることができます。それによって天草での布教が禁教下であるにも関わらず伸び、画学舎にコレジヨ、ノヴィシャードに天草本など、最後の煌めきを放つキリシタン文化が栄えたわけです。


行長の思惑


実はこの頃の行長は、布教に関して慎重な態度を示し、黒田官兵衛とともにコエリョに対して「この時期に、日本の改宗事業に大きな波瀾をまきおこすようなことはどうか差し控えていただきたい」と要請しています¹。その一方で領内で多くの教会を建て、布教を推進しようという気持ちがあることを、他の同朋には述べています²。

大っぴらにはできないけれど、人々の往来から離れた天草諸島で、秀吉に露見しないようにしながら理想の実現を目指し、いつか「迫害が収まれば彼の全領土でも同じことをするつもり」³でいたようです。それが暗転するのが関ヶ原。そして島原天草一揆へ・・・。

だけれど、天草と畿内で受洗したキリシタンについてはもっと知られてもいいのかなと思います。天草にキリスト教が入ったのは天草五人衆と宣教師のおかげだと思われがちですが、行長と麾下のキリシタン武将たちが、潜伏に入る前の信徒たちにとても多くのことをしていってくれたのではないかと感じるから。



¹ 松田毅一監訳「十六・七世紀イエズス会日本報告集」第Ⅰ期1巻(同朋舎、1987年) 1589年2月24日付コエリュ1588年日本年報
² 松田毅一監訳「十六・七世紀イエズス会日本報告集」第Ⅰ期2巻(同朋舎、1987年)1596年12月13日付フロイス日本年報
³ 松田毅一監訳「十六・七世紀イエズス会日本報告集」第Ⅰ期1巻(同朋舎、1987年) 1590年10月14日付フロイス日本年報


高速バスで


宿に戻って荷物を引き取って、バスセンターへ。途中パン屋さんに寄って昼食を買い込みました(この店気に入って三日間で2回入店w)。

熊本駅で今度は宮崎行きのバスに乗り換えます。それにしても今日は休めってことなのかな?午後は丸々移動です (^▽^;)


三人の銅像


バスの車窓からぼんやり外を眺めていたら、三人の銅像が。

富岡城の二ノ丸跡に建てられていたのは、勝海舟・頼山陽・鈴木重成・鈴木正三の4人だったけど、こっちは誰か削って3人にしてるんでしょうか?

よく見ると、左から鈴木重辰・鈴木重成・鈴木正三と書かれています。この3人を天草では恩人と考えているみたいですね。



海~


ああ、海。いろんな所に行って、見て、思うことがあって帰ると、目に映るものも違って感じられます。

この色は何と形容したらいいのか。透明な水にインクを一滴落としたようなブルー。人々の涙を集めたようでもあり。

さっき橋を渡った辺りが瀬戸(せど)かなぁ。対岸に見えるのは島原半島? それとも島? 談合島はどれなんだろう。

一口に「天草」と言うけれど、大小120余りの島々から成るのが天草諸島。このうち最大なのが下島で、上島がそれに次ぐ広さ。上島と下島を結ぶ橋が架けられ、国道324号は島原湾沿いに走っています。

諸説ありますが、原城に立てこもった3万7千人のうち、天草の人は1万4千人と伝えられています。対する幕府方の軍は12万。この海を渡って行った人たちは、死を覚悟していたんでしょうか。どんな思いで発って行ったんだろう。その人たちの眼にはどんなブルーが映ったんだろう。


バスの停留所名


ふと見ると、バスの停留所名もなかなかのもの。「島子」とか「上津浦」とか。歴史的な地名ばかりで「宝庫やん!」と思ってしまいます。今回上島行き損ねてますが、地名に引っ掛けて少しだけ一揆流れを追ってみましょう。

まず一揆の前段階として、キリシタンへの「立ち帰り」(棄教を取り消して、信仰を表明すること)がありました。1637(寛永14)年10月27日、大矢野及び2~3ヶ所の小村で「立ち帰り」があり、周囲にキリシタンへの改宗を迫る動きが起こりました。続いて上津浦でキリシタンが「立ち帰り」、藩との対決姿勢を明確にします。


立ち帰り者と一揆軍


11月初旬に熊本藩が把握したところでは、キリシタンに立ち帰った村々は、下津浦、上津浦、赤崎、須子、大浦、今泉、合津、阿村、内野河内、大矢野。この時の富岡城代が三宅藤兵衛でした。

藤兵衛は、本渡でキリシタン指導者とみられた女子一人を簀巻きにし見せしめにしましたが、見に集まった者たちの中に「キリシタンの唱え言」をした夫婦がいるのを見つけ直ちに処刑。その他男子3人を処刑し、最初に簀巻きにした女子は土に埋められ6日後に絶命しました(「島原日記」)。

当初は蜂起した村々を鎮圧するには人数が少なかったため、出撃はせず、主だった者の処刑で抑え込もうとしていましたが、立ち帰った者たちが結集して、蜂起しました。彼らが事実上旗揚げしたのが上津浦。藤兵衛は兵を率いて鎮圧に向かい、まず島子で前哨戦が行われました。

一揆軍が勝ち、本渡へ追撃を始めたのは11月14日の未明のこと。約380年前、緒戦に勝利を得た一揆軍が意気軒昂に押し進んでいったのは、ちょうどこの道筋だったかもしれませんね。右手には海。ここからはよく見えないけれど、渡った先には、彼らの終焉の地となった原城があるはずです。




島子

島子

上津浦漁港

バスを乗り換えて


熊本駅周辺はリニューアル工事が盛んに行われていて、停留所が移動したりいろいろと複雑。慣れている人はいいんでしょうけど、私には難攻不落の城のようで、予定のバスに乗れずに泣きました。

気を取り直して宮崎へ! だけど宮崎県は人生初なので、熊本駅より難攻不落かも...(´;ω;`)グズ

幸い、安東邦昭先生のご紹介で髙田重孝先生とお話することができ、宮崎を案内していただけることになったので、路頭に迷って成果無しという最悪の事態は免れました(たぶん)。



宮崎


陽が落ちる少し前、宮崎駅に到着。県内に入ると街路樹はフェニックスですね南国~(≧▽≦)

旅行に出る前「新渡戸稲造事典」をパラパラ見ていたら、宮崎商工会議所会頭や宮崎交通社長などを務めた岩切章太郎の弁として「宮崎県の県木フェニックスは新渡戸の提案だった」と書かれていました。

早速クリスチャンの事績に触れられてうれしかも。宮崎が生んだキリスト教徒と言えば、やはり石井十次なので、できれば彼ゆかりの地も訪れたいですね。明日からも楽しみにしておやすみなさい☆彡




旅には目的地があるけれど


旅には目的地があるけれど、途中の景色も美しいもの。行くまでのワクワク、ちょっとした困難、帰り道であれこれ思いをめぐらすことまで楽しみのうちだったりします。

今日は半日バスに乗って、ただ風景を眺めていたけれど、こんな時間もなかなか良いなと思いました。考えをまとめたり、熟させたりすることができ、ざっと読んだだけの資料を読み返すこともできて。

そんな中間の時間が、旅の感興や後味を深くしてくれる気がします。また、行き帰りの道で思ってもみなかった発見をすることもあります。旅の醍醐味は、もしかしたら途中にあるのではないかと思うくらいに。

それが旅を人生にたとえる一つの所以かもしれません。人生も途中が大事――。目的地は思い描いた夢の実現で、終着駅は死だとしても、そこに至る過程とそこから悟る何かがあってこそ豊かになっていくのでしょう。

私の旅は途中の途中。迷いつつ、困難もアクセントにして、私なりの目的地に向かって行こうと思います (๑ᴖ◡ᴖ๑)






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