本文へスキップ

キリシタンのあしあとを求めて各地を旅してめぐります♪

トップページ > 旅行記 > 蒼き切支丹回廊 6      スマホ版は⇒コチラ

 蒼き切支丹回廊 6



本日も天草を。昨日は、天草は下島だけでもかなり広いということを知り、公共交通機関であるバスで回ろうとしていた愚に気付きました(もっと早く気付こう汗)。しかしそんな私の無理っぽい計画を、来島前に中山氏に伝えたことをきっかけに、今日案内していただける運びになりました。ほんとに感謝です。

潜伏キリシタン関連の資料を調査・整理した(たぶん一番詳しい)方に解説してもらいながら回れるなんて、「お前どんだけ幸せ者だよ」という言葉が頭の中を駆け巡っております。

どうかよろしくお願いいたします(⌒∇⌒)ノ




河内浦城跡案内板


宿でピックアップしていただき、最初に向かったのは河内浦城跡。さすがです。ここに来なきゃ、天草キリシタン史は語れません。

おおぅ、城の周りは宿泊施設のある公園として整備されているんですね。解説板もばっちり。イラスト入りマップも可愛いです。

それによると、やっぱり安養寺がコレジヨ跡となっていますね。こちらではもう定説扱いなんでしょうか。ならば全国的に知られていってもいいのかもしれません。天正遣欧使節がいた所だなんて、行きたい人多いでしょうから。

天草鎮尚~!久種~!アルメイダ~!と叫ぶ前に、まずは冷静になって歴史を振り返ってみることにしましょう。天草キリシタン史の始まり始まり~☆


天草キリシタン史の曙


昨日天草に最初に来た宣教師はルイス・デ・アルメイダだと言いましたが、天草下島に最初に来たのは1566年のこと。踏んだ地は志岐でした。しかし宣教師たちの記録では、河内浦が通常「天草」と呼ばれています。アルメイダが河内浦を訪れたのが3年後の1569年なので、本によっては、「天草の島々を最初に訪れた宣教師は、イルマン・ルイス・デ・アルメイダであった。志岐に一五六六年、天草に一五六九年に来た」¹と書かれていて、現代人からすると、「およ?」となるポイントだったりします。 

しかしそのくらい天草氏の居城する河内浦が島の重要拠点だったことを押さえれば、そこから先の布教の広がりを理解しやすくなります。アルメイダは、天草氏が「志岐の領主より三倍も有力な」領主だと書いています²。この時の当主は天草鎮尚(あまくさ・しげひさ)。

1571年に洗礼を受けた鎮尚はドン・ミゲルと呼ばれ、1582年に河内浦で死去しましたが、それまでに家族もキリシタンになっていました。後継者の天草久種はドン・ジョアン、最初は反対していたけれど後に受洗した奥方の洗礼名はガラシアでした。


¹ 結城了悟「イエズス会宣教師の記録における天草コレジヨ」(2001年、日本二十六聖人記念館)
² 松田毅一監訳「十六・七世紀イエズス会日本報告集」第Ⅲ期3巻(同朋舎、1997年) 1569年10月22日付、ルイス・デ・アルメイダ修道士が日田より、ニセヤの司教ドン・ベルショール・カルネイロに宛てた書簡

登城口


登城口はこちら。ここに城門があったようです。石段を上っていくと、途中で左手に鋭角に曲がり、そこからは最近作られた木道が続きます。

木道は竪堀を二つ、下に見ながら渡って行けるようになっていて、城の防禦がどうなっていたかよく観察できます。

少し小高い所に出て、そこからまた竪堀を横手に見ながら、前方の堀切を渡ると曲輪に到着するようですね。

山城だから傾斜もあって、全体的に防御性能は高め。「攻められる」という脅威が結構リアルだったんだなと感じます。16~17世紀と言えば、日本中どこでもそうだったかもしれないけれど。



イラストマップ

竪堀

木道

竪堀

河内浦城跡


小高くなった所から、堀切を渡って一段低い所に下りると、城の中央に位置する曲輪です。

お世辞にも広いとは言えないんだけど、ここが・・・本丸なのかな??

解説板を見ると、「詰めの城」とあり、領主の居館は現在の崇円寺境内だと書かれていました。解説文にはフロイスの「日本史」が引用してあります。天草氏に会いに宣教師が来ていたのは、この城か崇円寺か? 両方来ていたかもしれませんね。


河内浦城の建築遺構


この曲輪には物見櫓と四つの建築遺構ががあり、柱のあった位置が丸太で示されています。中山氏によると、柱の下に礎石はなかったそうです。兵舎や倉庫が置かれた、有事のための城だったのかも。

一段下がった所には、帯曲輪が半周していて、この曲輪を守っているようです。確かに防御性は高めですが、広くないので多くの兵士は詰められなかったでしょうね。つまり近隣の、例えば天草五人衆の他の人たちから攻められたなら守れるけれど、島外から大軍がやってきたら対抗できないと思われます。

そういう割と限定的な想定で軍事的な危機管理をしていたんでしょうね。ただし宗教的には、一時期日本全体を担うほどの位置にあり、視野はどこよりも広かったと言えそうです。



解説板

建物跡

展望休憩所

縄張り図


平地をはさんで向こうにも山。河内浦のコレジヨ、ノビシャード、カサやレジデンス、教会はどこにあったんだろう?

コレジヨが安養寺なら、ノビシャードとカサ、レジデンスもその辺りでしょうね。教会は信徒がいる村々にあったのか。

えーっと、キリシタン時代の教会関連施設の用語を整理しておきましょうか。前掲の結城了悟師の本には、こう定義されています。

コレジヨ:1.教育施設、2.ある広い地方の本部修道院
カサ:スペイン語、ポルトガル語では本来の意味は「住まい」であるが、日本のイエズス    会員の場合には小さな地方の本部で、院長と数人の宣教師が住んでいる所。
レジデンス:一人か二人の宣教師が住んでいる家。
教会:礼拝のための建物、そこに神父が住んでいてもいなくても当時天草では
   現在の「巡回」を指している。

中央の曲輪から反対側に下りていくと、崇円寺の墓地に出るようです。行ってみましょう~。



崇円寺


崇円寺墓地は何百年の重さを感じる深閑とした空間。本堂や山門からは権威を感じます。

島原天草一揆の後、天領となった天草を統治した代官鈴木重成により、民心の安定と思想の善導のため再建された寺で、天草四本寺の一つ。

キリシタン領主を排除した後、周囲に睨みを利かすために建てられた権威ある寺ということですかね。逆らえない感じがします。

境内が昔天草氏の居館だったなら、帰国した天正遣欧使節を伴ってヴァリニャーノ神父が訪れて、天草鎮尚と昼食を摂ったのはここだったと考えられますね。他の宣教師たちもひと通り挨拶に訪問しているのではないでしょうか。



崇円寺石垣


崇円寺は河内浦城跡の麓にありますが、石垣がめぐらされた、平地より高い所に築かれています。

先ほどの城跡よりもこっちの方がずっと城っぽいです。

解説板と標柱には、天草巡視の松平伊豆守(島原天草一揆を鎮圧した人)や伊能忠敬(日本地図作成。上田宜珍が測量習った)の宿所となったことが記されています。めまいがするほどめっちゃ歴史の舞台。ここに定点カメラ取り付けておいたら、キリスト教布教から衰滅、島原天草一揆の後始末から潜伏キリシタンの天草崩れまで俯瞰できたということですね(誰がカメラ取り付けるねん)。こんなに歴史が重なる場所があるんですねぇ (;゚Д゚)



天草コレジヨ館


次は天草コレジヨ館に連れて来ていただきました。天草氏の領地にいるんだなと実感したりして。

天草五人衆や河内浦城跡の解説パネルが並び、キリシタンとの関係もクリアに説明してくれています。

天草久種の書状や河内浦城跡から出土した遺物からは、文化レベルの高さがうかがえます。



天草五人衆

河内浦城跡

天草久種の書状

河内浦城跡から出土

天草のキリシタン遺跡と遺物


次の部屋に進むと、多くの貴重なキリシタン遺物、特に美しい物が惜しげもなく展示されています。これ一つ見るために一時間ずつ並んでもいいわ。

他の団体さんと一緒に解説付きで回ることになったのですが、見どころを教えてもらえて良いですね。


メダイ


こちらは﨑津で発見された三つの聖イグナチウス・デ・ロヨラのメダイの一つ(複製)。素材が白蝶貝というところが漁村ならでは。

三個とも、FにするところをEにしてしまっていて(つまり間違って彫っている)、恐らく同じ一人の日本人が三つとも作ったと考えられます。

スペルは間違っているけど、日本人がこんなきれいな信心具を作ったということに感動します♪



アワビ


出た、アワビ!

叫びかけましたがセーフ。

これですね、潜伏キリシタンの信心具の中で、「どうしてこれがそうなのか」的な物の一種です。

三つ展示してあり、どれも光を反射してきれい。解説員の人は「斜め右手から見ると、うっすらとマリア様の形が・・・」と言っていて、確かにその角度から見ると、一応言っていることは理解できるなという感じ。でも心の眼で見ないと見えませんね。ただ貝自体がきれいだから、大切にしたくなる気持ちはわかります。



南蛮図屏風


解説員さんは、ユーモアを交えながらよどみなくヨーロッパから日本へキリスト教が伝えられた流れを説明していきます。

正史に基づいたストーリーなので、ストレスなく聞いていられます。学校関係の団体も見学に来るでしょうから、そうでないと困りますよね。

もちろん歴史には「諸説あり」が付き物ですが、おおよそ確からしいと考えられているものをベースにして、「諸説あり」を枝葉に配すれば安定すると思います。



天正少年遣欧使節団


次の間では、天正少年遣欧使節団について。ここも力が入っていますね。「コレジヨ館」だから当然か。

ナウ船の模型あり、昔の世界地図あり、測天儀などの航海道具あり。使節たちがヨーロッパでどう振る舞ったかについての本なども。

無事4人とも帰ってくるなんて、当時としては奇跡に近い快挙でした。大冒険を見事やり遂げたという。そして日本人がそれまで誰も見たことがない世界の目撃者で、生きた証人でした。これが後半生にものすごい意味を持って覆いかぶさってくることを、4人はどのくらい意識していたのでしょうか。



活版印刷機


これが当時の最新メカ、活版印刷機!(←ここドラえもんの声で)

ぶどう絞り機をヒントに作られたと言われています。

台に登って動かし方のレクチャーを受け、その一部をやらせてもらいました。

機械には違いないけど、人の技術で補完する部分がとても大きいなと思いました。金属活字を並べて組み板を作り、それがずれないように紙にプレスするなんて、機械のクセを覚えて調整しなければ無理。日本語を適用するにあたり、随分と試行錯誤しただろうなと思いました。

使節の一人、原マルチノが特にその技術に優れ使命感を持って携わっていたようですね。マカオでも印刷機を使って出版物を作り、そこで亡くなっています。


活版印刷機と「天草版」


ヨーロッパから万里の波濤を越えて日本にもたらされた活版印刷機は、最初島原半島の加津佐に据えられて、そこで5冊の「キリシタン版」を刊行しました。活字は木で、漢字と平仮名、片仮名が用いられていました。翌年コレジヨの移転に伴って、活版印刷機も天草に移動。

コレジヨが河内浦にあった1591~1597年の約7年間に12種の「天草版」(天草本とも)が出版されました。信仰の書である「ヒイデスの導師」「ドチリナ・キリシタン」だけでなく、平家物語やイソップ物語、羅葡日辞典まで、バリエーション豊かに展開されました。日本宣教に対する大きなビジョンがあって、これらのものが作られたのでしょう。


天草の不思議


だけれど不思議ですね。もし天正遣欧使節が帰国した時に日本で伴天連追放令が出ておらず、その後もキリスト教が禁止されることがなかったなら、天草に世界の最新メカが来たでしょうか。恐らくミヤコとか、権力者のお膝元である大都市に置かれたことでしょう。

しかし禁教に傾く趨勢の中で、国内の目立つ所を避けるようにこの島までコレジヨや印刷機が移されてきて、ここで最高の南蛮文化が花開いていたのです。世の人の知らぬサンクチュアリのような島で、日本全体と未来のために本が作られていただなんて。

夕陽が沈む寸前にふっと光を放つように、キリスト教禁令の翳りの中で、天草は最後の煌めきを放っていたのではないでしょうか。



南蛮衣装


一つの壁には、南蛮屏風に描かれた衣装と演奏した楽器が並んでいました。古典楽器の風情がとても良いですね。

伊東マンショが巧かったというバージナル、首のところがグギッと90度に折れているリュート。「ハープ」と書かれているのは、アルパですね。

どんな音を奏でるのか、聴いてみたいものです。


竹製パイプオルガン


少し前に「世界ふしぎ発見!」でやっていた竹製パイプオルガンもあり、少し弾かせてもらいました。

こういう時音楽の素養がないと困りますね(それでも弾かせてもらったけど)。

誰かが鍵盤を押している時、背面でアコーディオン状になっているふいごで風を送ってくれないと音が出ない仕組み。一人では演奏できないところが、逆に素敵に思えました。竹の管というのも音が柔らかくて。少し雅楽を思い出しました。当時の日本人にとっては、新しくも懐かしくも感じる音色だったかも。



イソップ物語の作品


二階に上がると、現代作家によるイソップ物語をモチーフにした作品が展示されていました。

天草の様々な建築物や物語の場面を再現したジオラマも。個人の方が寄贈したというキリシタン遺物のコレクションは微妙でした。

ここに限らず、地方自治体や資料館で寄贈を受ける時はよく検討するのがいいですよね。「うちの父が長年かけて収集してきた物だから、大切にしてくれるところに・・・」とでも言われて受け取ったら、本物のように扱って展示もしなきゃいけなくなります。素人目にもおかしな物が並んでいて、胸が苦しくなる時があります。



一階に戻り


再び一階に戻り、視聴覚ルームみたいな一角へ。大江の大庄屋に伝わる地図などが寄託展示されています。

﨑津村の絵図は、江戸時代の町並みが詳しく描かれていて興味深いです。肥後天草之図には三宅藤兵衛の家も書かれているんですね。

すごいデフォルメされた地図なので、これで場所を特定するのは難しいかもしれないけど。

天草島富岡地勢要図を見ると、島原天草一揆後は、島の中心が富岡に移って行った様子も窺えます。よくこんなに地図とか残っていますね。大庄屋庄屋が今も当地に在住し、記録も保持してきたとことが大きいのかと。宗門人別改帳もしっかり調査済みのようです。資料を基にした歴史研究が進んでいるんだなと感じました。



﨑津村絵図

解説

肥後天草之図

解説

天草島富岡地勢要図

解説

宗門人別改帳

高札

﨑津集落


コレジヨ館の後は、羊角湾の対岸から﨑津集落を望む場所に連れて来ていただきました。

世界遺産登録の調査に訪れたイコモスの人たちを案内したビューポイントだそうです。

今更ですが、世界文化遺産となった「天草の﨑津集落」とは、天草下島の西部に位置する漁業を生業とする集落で、
キリスト教禁教期に潜伏キリシタンが祈りに用いた信心具を今日に伝える水方屋敷跡、ひそかにオラショを唱えた﨑津諏訪神社境内、絵踏が行われた吉田庄屋役宅跡、解禁後にカトリックに復帰して﨑津諏訪神社の隣接地に建てられた初代﨑津教会堂跡
から成ります。現在の﨑津教会というより、絵踏が行われた庄屋役宅跡というのが登録の内容。教会建築が世界遺産になったのではなく、禁教政策下における潜伏キリシタンの信仰形態にスポットが当たっているということを忘れてはいけません(私は何かちょっと忘れてた。汗)。だから「集落」が大切で、その様子がよくわかるビューポイントにイコモスご一行をご案内したというわけです。

市の担当者の方が何度も予行演習して、この道路脇の盛り土にその人たちを案内し、説明した様子を聞きながら、世界的な価値があると認定されるにしても、努力はとても小さなところから始まっているのだと感じました。

資料的な裏付けとしてどんなものを提出したのかというお話も示唆に富んでいて。何かを「こうである」と証明したい場合にどのようにすればいいのか、安易に形や模様に飛びつかず、もっと証明できる方法を探すべきだと、自分の分野に当てはめて考えるようになりました。いろいろと目が覚める思いがします。



マリア像の夕陽


﨑津集落に移動して、車を停めた所から歩くと、今度は夕陽の鑑賞ポイントが。天草夕陽八景に選ばれているのだとか。

湾の入り組んだ様子とか見ながら歩くのに良いですね。

一つの場所だけ訪れて帰ってしまうのでなく、集落を歩いて雰囲気を味わえるようにしているんだなと思いました。


﨑津集落


仏教や神道と潜伏キリシタンが共存することで、まるで日本の在来宗教のように見える固有の信仰形態が育まれたことが、世界文化遺産の登録基準「顕著な普遍的価値」にあたります。

それなら是非集落を歩いて、その溶け合った様子を感じてみたいもの。

スポットをつなぐだけでないツーリズムがあり得るだろうなと感じます☆



﨑津教会


見えてきました、﨑津教会。1934年、かつて絵踏が行われた吉田庄屋役宅跡地に建てられたこの教会堂は、キリシタン復活の象徴。

絵踏が行われた場所に祭壇が据えられているのだとか。

世界宗教史上の奇跡と言われる「信徒発見」と「復活」。それらをローマ教皇に報告したパリ外国宣教会は、更なる信徒を復活(具体的にはカトリック教会への復帰)させるべく、昔キリシタンがいた地域に入っていって再布教に取り組みました。



﨑津資料館みなと屋


﨑津教会を見学する前に、筋向いにある﨑津資料館みなと屋へ。以前来た時にはなかったので、今回寄ってみたかったのです。

資料館はとても内容を把握しやすい構成になっていて、展示も多様で見飽きません。女性がちょっとうれしくなるような、おしゃれさと可愛さも◎

無料なんですね。公でないとできないこういったサービスを、センス良くしている所は少ないと思います。



みなと屋展示


展示室で最初に目に入ってくるのは﨑津集落のジオラマ。再現されているのは昭和初期の様子です。

コレジヨ館で見た江戸期の絵地図とも、それほど変わってないようですね。ジオラマの周りにはクイズ形式の解説が。

壁のパネルで「世界宗教史上の奇跡がここに!」とあるので、「信徒発見」のことかと思いきや、潜伏キリシタンによる固有のキリスト教信仰のことを指しているようですね。「異宗」とも言える信仰形態を「奇跡」と評価するものなのかどうか。解釈は様々あり得るでしょうけれど・・・。


「信徒発見」の衝撃


ご存知の方も多いでしょうけれど、ここで「信徒発見」とは何ぞやということにも触れておきたいと思います。時は1865年、大浦天主堂の献堂式から一ヶ月後のことでした。浦上の潜伏キリシタン約15人が天主堂にやって来て、フランス人神父プチジャンにこう告げました。「ワレラノムネ、アナタトオナジ」(私たちもあなたと同じ信仰を持っています)。

これは、およそ250年にわたる厳しい江戸幕府の禁教政策下、日本で密かに信仰が守り続けられていたことを示し、プチジャン神父からこの報告を受けたローマ教皇は感動のあまり涙したと伝えられています。ローマ教皇のみならず、当時この「信徒発見」に対するヨーロッパ社会の驚嘆と賞賛は大変なものでした。それで「世界宗教史上の奇跡」「東洋の奇跡」と呼んだわけです。だから「奇跡」はこちらの方ですね。

長崎で「信徒発見」があった後、潜伏キリシタンのいる他地域にもその情報が伝えられ、天草にも宣べ伝えられるようになりました。天草の人々が教会に復活してくるのは、パリ外国宣教会の神父たちが地元に根付いた救済活動をしていく過程でのことでした。つまり長崎と天草の潜伏キリシタンの復活の違いは、自主性と時期です。

では天草の潜伏キリシタンの異宗信仰をどう言うべきか、世界遺産認定された価値をどう表現するのがいいかということですが、「日本人が創出した固有のキリスト教信仰形態」が妥当ではないかと思います。この「固有」という言葉を、「世界でここにしかない」「唯一の」などと言い換えることは可能ではないかと思います。



潜伏期の信心具について


この資料館で恐らく一番の目玉は潜伏期の信心具。写真撮影不可だったので、載せられませんが(是非実物を現地でご覧くださいませ)、白蝶貝のメダイも信仰対象となった古銭も、そしてアワビも!間近に見られて感激でした。

上田家文書の「宗門心得違之者糺方日記」も。天草崩れの時の取り調べ調書ですが、こんなに「まんまな」ネーミングなんですね。

また﨑津に伝わるオラショが和紙に書かれて展示されているのですが、冒頭部分が「四十八人のみ起里様(きりさま) 四十八ヶ所の御阿路志左(おんあるじさ)ま」となっていて、何と混ざってしまったんだろう?という感じ。途中の「春飛里(すびり)す三藤様(さんとめさま)」はキリスト教用語だと理解できますが、それとて意味をわかって唱えていたか疑問です。

布教期のメダイ、柱に隠されていたメダイも展示されていました。柱に隠された方は柱ごと・・・(;'∀')
見ていると、天草崩れの時には出さず、後で復活してから﨑津教会の神父様に出した物もあったようですね。そういう物はやはりスペシャルな感じのする、一目でキリシタン遺物とわかる代物だったりします。それは信徒の方にもある程度の判別力があったことを示しているように思えました。

大黒さまは出すけど、メダイはやだ!アワビは惜しいけど、また拾うもん(涙)」みたいな。私見ですけど(100%想像でお送りしました)。



二階


二階にも展示が続いています。昔の建物の感じを残しているのがいいですね。こういうのが好きだという人もいるはず。

二階の展示は一階よりも、もう一歩突っ込んだ内容になっていて、本格的に知りたい人向けですかね。

私のようなマニア(と自分で言ってていいのか?w)にとっても、「ちゃんと読んで良かった」と思えることが書かれていました。もっと詳しく知りたくなる情報提供がうれしいです。



﨑津教会


少し雨がパラついてきました。一日晴れると思っていたんですけどね。

﨑津教会は、正面から見るとヨーロッパのゴシック様式の教会かと思うほどですが、鉄筋コンクリート造なのは前面だけで、予算不足で側面は木。でもそこがいいなと思います。

中は畳敷き。その時期に造られた他の畳敷きの教会堂の中には、火事で失われてしまったものもあるけれど、こちらは現役。よく管理・保護されて、未来へ手渡されていってほしいです。


ハルブ神父と﨑津教会


この教会を建てたハルブ神父が生まれたのは1864年のフランス。ロンレー・ラベイという村でした¹。1888年に司祭に叙階されるとすぐ、日本へ発ち、長崎で日本語を学び、大分県の臼杵に派遣されました。その後奄美大島の開拓宣教に携わり、27年間で三つの教会を建てました。

1920年には外海地区の黒崎へ。そこでも前任者から引き継いで赤レンガ造の教会堂を完成させました。1927年、長崎教区から福岡教区が分離独立すると、ハルブ神父は福岡教区に移動し、天草の﨑津教会を担当することになりました。﨑津にはフェリエ神父時代の木造教会がありましたが、その建て替えに着手。

絵踏が行われていた庄屋宅跡の土地を手に入れたところ、その造成中に十字架が見つかるということがありました。教会堂の設計施工は鉄川与助で、神父は費用の多くをフランスからの寄付を募って賄いました。ハルブ神父は晩年を崎津で過ごし、1945年1月、80年の人生を閉じました。日本で働くこと約57年。恩人です。


¹ 脇田安大著、カトリック長崎大司教区監修「パリ外国宣教会 宣教師たちの軌跡」(2018年、長崎の教会群情報センター)p92


﨑津の墓地


「では次はこちらへ」と、中山氏が曲がったのは民家脇の小道。墓地に続く、地域の人たちだけが使う道に見えますけれども・・・。

その通りでした。行けば行くほど墓。それも上に登るほど年代が古くなるようです。古い墓は無縁仏化するのか、段々墓碑が石段に使われていくようになり、山中に転がる墓碑も草と土に覆われて、何ともすごい雰囲気。

それでも「鬼気迫る」恐ろし気な感じがしないのは、通勤路でも行くかのように淡々とした中山氏の足取りと、安定感ある明るさのおかげでしょうか。「せっかくだからしっかり史跡(墓石)見せてあげよう」という熱意と思いやりを感じます。

ええ、確かに、私が求めているのはそれです!よくぞわかってくださいました。ヒールじゃなくて良かったな。いや、でも運動靴でもないよ。聞いてないから汗。そんなこと言っちゃバチが当たるな。なかなか行けないようなディープな所に連れて来てくださってありがとうございます。しっかりついて行くぞ、おー。



散乱する墓碑たち


・・・と思ったけれど、予想以上に山でした。「俺の屍を越えてゆけ」とばかりに、散乱する墓碑たち。

すみません、石段に使われている方々(墓石)は踏ませていただきます。ここはそういう仕様になっているみたいですので。跨ぐのもお許しください。

脇に追いやられている方々(墓石)にはできるだけ足をかけないようにして・・・というのは無理。もう既に山中ですから。傾斜もきつくて。

中山氏が当然のように道なき道を行き、たまに振り返って、背景とは不釣り合いな爽やかスマイルで「大丈夫ですか?」と聞いてくれるのですが、えーっと、大丈夫ではありません(自己申告してなかったのですが、私鈍くさいのです。。(ノД`)・゜・。



十字架も


時々斜面に沿って、人の手が入った墓域があり、中には十字架付きの墓碑も。浜崎先生が言っていた、明治30年以降に作られるようになったキリスト教式墓ですかね。

昨日ちょうどレキバナ会で、「キリシタンが完全に仏教式の墓に葬られた場合、その墓をキリシタン墓と言うのか?」という問題提起がされていたのですが、その答えが見つかりそうです。

このように年代を遡っていけば天草崩れの時(1805年)の墓石に出合えそうだから。昨日は「被葬者がキリシタンならばキリシタン墓と呼べるだろう」というところまで話していましたが、その人たちの墓が仏教式ならば、潜伏キリシタンの仏教式墓ということになりますね。当時としては「宗門心得違いの者」ですけれど。



墓碑


中山氏が次に指差したのは、こちらの二基。正面に戒名、側面にはどちらも「薩摩屋平治郎娘」とあります。

薩摩屋とは﨑津にあった置屋の名で、平治郎は経営者、「娘」というのは血縁者ではなく、そこで働いていた娘、つまり娼婦のことだそう。

「こんなに立派な墓を建ててもらって、さぞや大切にされたことだろう」という想像もできなくはないですが、同じ女性だからか私にはそうは思えません。親から売られ、若い身空で毎日客を取らされて、幸せだったはずがあるでしょうか。

小さな墓なら、下働きしていた女児で、経営者夫婦に可愛がられていたというファンタジーも成り立つかもしれませんが、このくらい大きかったら成人。立派な墓が建てられたのは、売り上げに相当貢献したからでしょう。高い値段がついたのは、2人とも美人だったからか特別なサービスを強いられたからか。

また分不相応に手厚く葬られている場合、ひどく悲惨な死に方をした可能性もあります。その原因を作ったり、それによって利益を得たりした者が「悪く思わないでね。祟らないでよ」と、墓を立派に建てることが一般的にはあるからです。

少々目を引く立派な墓碑が、建立者の罪悪感の表れだったりしたら、とっても苦い話です。(←あ、これは中山氏の解説ではなくて、私の勝手な推量です。意外と幸せな生涯を送ってたりして?いや、それないな。身受けされたり、借金完済して自由になったりしてたら、「平治郎娘」として葬られてないから・・・、考えるのやめよ。



重大発見!


さてこちらが本日の最高到達点。ここで重大発見があったそうで。果たしてヒーハー言いながら登って来た甲斐があったと言えるんでしょうかっ。

見ると土砂が崩れて段になっている所があるのですが、ここに一部露出した墓碑があったので、市の文化財課で発掘したのだとか。

すると今見えている墓碑が出てきたのですが、基台の石が手前に倒れ、「おや?」と見たところ、そこに十字が刻まれていたのです。



十字!


これ!ぼんやりとした輪郭で、線の長さは3~4センチほどだけれど、確かに十字です。

墓石側から見ると左斜め上にやや傾いて刻まれていますね。他にこんなくぼみはないから、人の手で刻まれたのだろうけれど、あまり精密に刻んでいないのは、バレた時にも偶然だと言い逃れができるようにしたんでしょうか。

戒名は女性の名。寛政5年というのは、1793年ですね。天草崩れの少し前。キリシタン墓ですよね、恐らく。しっかり見させていただきました、完璧に仏教式に造られたキリシタン墓。ヒーハーの甲斐は十二分にありました。



こちらも


こちらの仏教式墓碑も天草崩れの頃のもの。こちらは戒名だけでなく、被葬者の実際の名前が書いてあります。中山氏によると、この名前は天草崩れの際の潜伏キリシタンの名簿の中に確認できるのだとか。

それって、めっちゃすごいやん!!

綿密に調べたら、きっとものすごいことが発見されるんでしょうけれど、この一帯、墓の墓場みたいになっていて、それができそうな感じが全くしません。大変だな、天草市。こんなに身近な所にあるのに、調査の手が回らないなんて。後世の人でないと知ることができないことが、たくさん眠っていそうですね...(つд⊂)



普応軒


平地まで下って来ると、鶴林山 普応軒。曹洞宗のお寺です。﨑津にあるこの寺と﨑津諏訪神社、カトリック﨑津教会ではそれぞれ御朱印がもらえて、宗教を超えた三つの所で御朱印がもらえるのは、全国でもここだけなのだとか。

私は初めて知りましたが、良い取り組みですよね。



元々﨑津教会があった所


こちらは元々﨑津教会があった所。ハルブ神父が赴任して来る前、1882年から89年まで当地で司牧していたのはフェリエ神父でした。

島原天草一揆に直接参加しなかったとされる大江、﨑津、今富村には潜伏キリシタンが多く残っており、カトリック教会が再布教に乗り出すと、1873年に大浦天主堂で受洗する者も現れました。

更なるカトリック復活を目指して、1879年にまずマルマン神父が巡回し、1880年にはボンヌ神父が常駐することに。その2年後にフェリエ神父が赴任してきて活動したことにより、1884年の信者数は453人(大江142、﨑津244、今富67)にまで増えました¹。神父が最初に手掛けたのは大江教会。そして「子部屋」(後述)を創設しました。

﨑津はボンヌ神父の時代に尊重から教会建設用地と寄付を受けたくらい、住民感情が好意的な土地柄で、1884年から建設が始まると貧しい信者から多くの献金が寄せられました。その時建てられたのは木造の教会堂で、﨑津諏訪神社の参道脇にありました。それがここなんですね。しみじみします。


¹ 脇田安大著、カトリック長崎大司教区監修「パリ外国宣教会 宣教師たちの軌跡」(2018年、長崎の教会群情報センター)p80


ハルブ神父の墓所


現在の 﨑津教会を建てたハルブ神父は、1945年1月14日雪の舞う寒い日に亡くなりました。太平洋戦争末期とあって、村の共同墓地に木の十字を立てひっそりと葬られました。

戦後、昔の司祭館跡に改葬されたと聞いていましたが、本日訪れてみましたら、ちょうど墓碑がまた新しくされたところでした。

義人の歩みは後から分かり、顕彰されることが多いですね。この神父さんのことをずっと記憶している住民たちにも、敬意を払いたい気持ちが湧きます。



﨑津諏訪神社


参道を進むと石段が。鳥居をくぐると社殿が見えてきます。

古色蒼然たる﨑津諏訪神社。ここでどんな祈りが捧げられてきたのか。

解説板にはこのように書かれています。

﨑津諏訪神社
﨑津村の鎮守。「天草崩れ」の取り調べで提出された口述書「文化二年四月二日﨑津村ヨリ差出候書付写」によると、「何方江参詣士候而も矢張りあんめんりゆす(アーメンデウス)と唱申候」とあり、神社へキリシタン信者が信仰の枠を越えて参詣していた「共生」を示す場所です。


昨日は「あんめんじんす」に出合いましたが、こちらは「あんめんりゆす」ですか。やっぱり可愛いです。言葉の意味がわからないから、余計にご利益がありそうでもあり。普通お祈りの言葉は「アーメン」で終わりですが、そこへ神様の名前をくっつけてしまっていますね。

指導してくれる人もいない中、信仰を伝え守っていく苦心を思えば、簡単に「変質」と片付けたくないです。せめて「変容」か「混在」・・・。「異宗」というのは、どの辺りに位置する言葉なんでしょう。



﨑津教会を望む


境内から﨑津教会を望むと、桜の枝もいい感じに伸びてナイスビュー。

平戸の寺院の合間から見える教会堂も有名ですが、こちらはその神社版。

こういう組み合わせは日本人の心性に訴えてくるものがあるようです。それはこのような「共生」を、日本人がずっと願っていたからかもしれません。宗教的なパイの奪い合いで争わず、互いに「共生」を求め続けていたなら、日本各地でこのような光景が見られたかもしれないのに。



かた焼きそば


お昼は昨日レキバナ会でお会いした松浦四郎氏のごちそうになりました。大江の大庄屋の末裔でらして、コレジヨ館で見た寄託品の数々はこの家から出てきた物。

後で気付きましたが、私が今回持参してきている森本季子著「キリシタン紀行」にも、たくさんお名前が出てきます。記憶違いでなければ、この方のお家で絵踏みが行われてたんじゃなかったかと・・・。

松浦氏は子供時代にカトリック教会に憧れたという話をしてくださいました。やはり再布教成功の元となったのは、「預言の成就」とか硬いものではなく、神父の行いに対する尊敬と、教会の魅力だったのだと感じました。




今富へ


今富村へ


「それでは次は今富村に」と、ハンドルを握ってくださる中山氏。天草の広さも知らなかった無謀なチャレンジャー(私)には猛省が必要ですが、天草のキリシタン史をとことん知りたい者にとっては、これ以上ない幸運です(ふるさと納税するか...)

途中見えた普門院(中山氏が教えてくれた)や江月院も「天草崩れ」の関連史跡地。もっと勉強して価値がわかるようになったら訪れてみたいです。



今富神社


着きました、今富村の今富神社。「天草崩れ」の時、信徒が宗門具を提出した場所ですね。

というか、今富村は「天草崩れ」の発火点。1804(文化元)年、今富村で牛を殺して食べているという風聞が上がったことから、庄屋による内偵が進められました。

解説板には「今富の潜伏キリシタン取り締まりの舞台です」と、シンプルに書かれていますね。一般向けにはこれで十分かと。


コウロス徴収文書と今富


だけどもう少し付け加えるなら、コウロス徴収文書のことを書いておきましょうかね。これはイエズス会のマテウス・デ・コウロス神父が1617(元和3)年、全国を回って集めたキリシタン代表者の署名簿で、ここに当時「今福」と呼ばれていた今富村の信徒が1人署名しています。

同じ天草西目筋では、他に高浜で3人、﨑津で3人、大江で5人が並んで署名していますね。「天草崩れ」はこの4か村で人口の約半数にのぼる5205人のキリシタンが発覚した事件なので、キリシタン時代の動向と直結しています。つまり4か村は、キリシタンから「異宗」へ、そして「復活」への鍵を握る核心地と言えようかと思います。



今富川のクレソン


こちらは、今富川のクレソンがボンヌ神父によってもたらされたという解説板。食用植物の持ち込みは、栄養摂取で民の生活を向上させようとしたからでしょう。

外海で活動したド・ロ神父と共通した、民の生活への優しい目線がうかがえます。それは同時に、私にはキリシタン時代に来たアルメイダ神父のことも想起させます。

「皆神父さんだからね」と括れてしまう話ですが、その優しい目線の出処を、私は天に求めてしまいます。



大山大神宮


そんな今富村の信徒が集っていたのが、こちらの大山大神宮だそう。

「大神宮」という名前を誰が付けちゃったんだろうと思いますが、ま、それはいいとして。

何とも素晴らしいのが、神社周りの風景。素朴で麗しく、穏やかで朗らかな、質素なんだけどとても豊かな感じのする・・・語彙不足で表現できませんが、ずっと身を置きたくなる空間です。この風景は心の中に持ち帰って、時々入り込みたいですね(やっぱうまく言えない(~_~;)



大神宮


畑の中に石垣を築いて建てられた「大神宮」。両側に菜の花を眺めながら参道(?)を行くと、盆踊りをするには手狭な境内が。そこからもう一段高く石段を上ると社殿です。

荒れた感じがしないのが、今も大切にされている証し。ここを大切にすることで、村の秩序が守られ、安定した生活が営まれてきたのでしょう。



マリア観音


中に祀られているのがこちらの像。潜伏キリシタンがマリアとして拝んだのではないかといわれています。

正確に言うと、カトリック教会でマリア様は崇敬の対象なので、「拝む」というのは適切ではありませんが、潜伏キリシタンや異宗徒であれば、あり得ることですね。

観光用の解説板などはなく、像にも「マリア観音」とか書かれていたりはしません。考えてみれば、現役の信仰施設ならそれが相応しい有り様(よう)です。

像は昔はきれいに塗られていたのか、彩色の跡が見られます。マリア様は水色の衣を着ていたようですね。それはいみじくも西洋の絵画や像と一致しています。青や水色が多いというだけで、絶対ではありませんけど。足元には雲のような図柄。悪魔などを踏みつけているのではないですね。天に引き上げられた姿を表しているのか、天から優しく見守る姿なのか。

私はこの像にも大変惹かれました。見ていても見ていても見飽きないのです。またしばらく見つめていると、意匠とか教理とかそういったことがどうでも良くなってきました。投げやりな気持ちというのではなく、それを超えたところに関心がシフトしていくというか。


実態を先に考えてみよう


「潜伏キリシタンは何を信仰してきたのか」「異宗徒をキリスト教の一形態と見なすことができるか」「異宗徒が教会に来たことを復活と呼べるか」等が、懸案事項だったのだけれど、それらがどうでもいいことに思えてくるのは、私にとっていいことなのか否か。そんな風になっちゃ、研究者ならば失格でしょうね。

だけど、実際にこの像の前で手を合わせて、幸いを願った人たちがいたことが、キリシタンだとかそうでないとか分類することよりも大切なのではないかと思えてきました。その視点も抜け落ちてはいけない気がします。なぜなら、彼らには目の前にある実態生活と、選択できる信仰の縛りがあり、その中で最善の幸いを願ったのですから。

後世の私たちが考えるようなこだわりや、「キリスト教ならばこうだ」といったルールは眼中になかったのでしょう。 ちょっと考えが変わりました。一定のカテゴリーに当てはめるのでなく、色眼鏡をかけずに実態を先に捉えて、そこから出発すべきだという風に。



根引の子部屋


ルート取りも完璧に考えてくれていたのでしょう。

中山氏「根引の子部屋も行きますか?」
私「そこも連れてってくれるんですか? 行きたいです!」

根引の子部屋は行けないかと思っていました。キリシタンとは直接関係がないので。でも興味があったんですよね。

再布教期の神父たちが行った慈善活動について。それがキリシタン時代の宣教師の姿と重なる部分があり、教会復帰につながった可能性があると考えているものですから。復帰してくる民たちにその認識があったかどうか不明ですけど。

よく舗装された林道をグイグイ上って「根引の子部屋」と案内板が出ている所へ。そこから急坂を登ると到着です。「子部屋」(こべや)とは孤児の収容施設。始めたのはフェリエ神父です。



根引の子部屋があった場所


元々キリシタンの島だった天草では口減らしのための「間引き」は少なかったようですが、貧困家庭では生まれてくる子供を育てることはできず、捨て子が多かったのだとか。

その状況を見たフェリエ神父は、何とかして彼らを収容して養育することはできないかと考え、1887年最初今富村の廃屋を得て、孤児数名を収容し、「子部屋」と呼びました。

しかし収容児の中に盗みを働く者が出て、近所から苦情が出たので、もっと人里離れた所に移転しました。それがここ。今でも不便な山中ですが、ここに食べ物を運んで子供たちを育てるだなんて、やってみなくても相当な苦労だろうと想像できます。

井戸を掘り、山地を開墾して作れるものは何でも作って・・・。国からの補助もない中、フェリエ神父からこの事業を引き継いだガルニエ神父は、自らの神父としての給与やフランスの親族からの仕送りまでつぎ込んで運営に当たりました。神父が貧しい村人よりも更に貧しかったという逸話も頷けます。

「子部屋」は、社会情勢が変わり、捨て子が少なくなった1907年に閉鎖。収容児たちは成長して去って行きましたが、今もその頃のことを忘れないために、施設跡が残されているんですね。井戸もあります。近年になって設置されたと思しき十字架の道行は、黙想に最適。カトリック教会が適切に管理してくれているようです。




大江へ参ります☆


大江教会


林道を下ってカトリック大江教会へ。

瀟洒な白い教会堂は貴婦人のような佇まい。

だけどガルニエ神父の辛苦を思うと、「あら、キレイね」と済ます気にはなれません。

ここから「子部屋」まで、林道開通前の旧道を使って通うだなんて、どれだけ大変だったことでしょう。最近は養豚が盛んだそうで、車から降り立つと豚舎の匂いが強烈ですが、これも生活をしていくための匂いですね。実態を大切にするなら避けては通れないものを象徴的に感じさせてもらっている気がします。

堂内は写真撮影不可なので写真はありませんが、出入口の上部にド・ロ版画が5枚並んで掛けられていました。ド・ロ版画は潜伏キリシタンがいた地域に多く残されていますよね。再布教の際に用いられたのではないかと推察されています。天井近くに掛けられているので、遠目にしか見ることが出来ませんが、結構迫力ありますね@@



ガルニエ神父像


一番高い場所に教会堂。坂道を下るとガルニエ神父像、もう少し下るとガルニエ神父の塔が現れます。

この塔がガルニエ神父のお墓ですね。天辺の十字架には、「汝らゆきて万民に教えよ」と刻まれています。

1933年、大江教会の竣工を見届けたガルニエ神父は、1940年暮れに風邪をこじらせ病床に臥し、翌年1月19日、82歳で永眠。

日本におること半世紀以上。ほんとにこの方も恩人です。神父たちのこのような献身と無償の愛に基づく行いによって、再布教と潜伏キリシタンの教会復帰が成されたのは疑いのないこと。

彼らは「潜伏キリシタンだったから教会に復帰した」のでなく、彼ら自身が心を動かされ、それによって受洗する選択をしたのです。長崎の浦上キリシタンのように「神父を待っていた⇒開国して再び神父が来て教会に復帰した」のとは違います。「異宗」となってキリスト教信仰は有るか無しかだったのが天草の状況でした。

しかしそこへ稀有なほどの愛と行動力を持った神父たちが赴任して来ることで、復活の歴史が起こったのです。これは長崎の信徒発見・復活と同様だと見なすことはできないでしょうが、違った形の復活があったのだと評価することができると思います。

特に、異宗となり復活しなかったことで、世界遺産登録からもれた地域があることを思う時、明治期に天草で布教した神父たちの偉大さ、その慎ましくも命がけの、温かい偉大さに打たれます。



二江


「ここが二江です。あちらの山の方にもキリシタン墓があるんですよ」と、中山氏。

二江は、コレジヨ館で見た地図で坂瀬川村の横にあった地名ですね。通詞島(地図には「ツフヅ」と)の対岸にあって、一揆軍が富岡城攻撃にあたって本陣を置いた所ではなかったでしょうか。

干拓が進み平地が広がったのか、道路と住宅地、田畑が山まで続いています。この辺りにあの陣中旗は翻っていたんですね。ちょっと想像しにくいけれど。



国照寺


次に訪れたのが国照寺(こくしょうじ)。天草初代代官 鈴木重成と実兄の正三により創建された天草四ヶ本寺の一つです。

ポツポツから本降りに変わり始めた雨の中、早く見てしまおうと山門に向かって駆けて行くと、橋がありました。

川ではなく、人工的に作った堀のようですね。寺院を堀で囲む必要って、どういう時にあるんだろう?



広大な庭


本堂裏手には、驚くほど広大な庭園。

小学校一つ分くらいならキャンプできるんじゃないかな(させてくれまいが)。

駆け足でサササッと回りましたが、まだまだ奥がありそうでした。

ここ、元々何かあったんでしょうか、お寺になる前に。国照寺の創建が450年以上も前だから、それより前など知る由もないかもしれませんけど、何となく気になります。



志岐城跡


続いて志岐城跡。一生のうちに行きたい所リストin天草がかなりコンプに近付きました!( ^)o(^ )ワーイ

と思いきや、工事で閉鎖中でした。登城口(?)の鳥居前で呆然。ん、鳥居には「志岐麟泉神社」と書かれていますね。城跡が神社になっているんでしょうか?

麟泉、キリシタンになったことがあったのに祀られちゃってるのか。洗礼を授けたアルメイダは嘆いているかも。というか・・・、とにもかくにも残念。今までラッキー過ぎたので、一つくらい甘受すべきですかね☆彡



トルレス神父記念公園


残念賞になりそうでしたが、横手のトルレス神父記念公園でリカバリー。

何かいい感じの所です♪

ここは城と城下町の境にあたる場所だそうなので、キリシタン時代に何らかの施設が設けられていた可能性だって無きにしも非ず。

だだっ広い芝生公園の奥に記念オブジェや解説板が設置してあるだけですが、解説も結構がっつり書いてあって満足感があります。

志岐麟泉の要請に応じてアルメイダが来島し、志岐が天草で最初のキリスト教伝来地になったことや、日本での布教を協議する宣教師会議が2回志岐で開かれたことが書かれています。その後には志岐に来た神父(トルレス、カブラル、ヴィレラ、バラレッジョ、オルガンティーノ)の略歴も。


その他志岐での諸々


もしここに付け加えるとしたら、日本人イルマン(修道士)のベルショールでしょうか。アルメイダと共に志岐に渡ってそのまま残留し、その後様々な宣教師が活動する時に補佐しました。宣教師も日本語を勉強する人はしていましたが、それでも日本人の心に届く言葉を語るのは簡単ではなく、ベルショールの助けは大きかったと思います。教義を教えることや説教が彼の担当分野でした。

キリシタン時代の記録では外国人の名が目立つけれど、日本人も活躍していたのです。また志岐では児童に対する初期教育も施されたことがわかっています。それから1592(文禄元)年の画学舎の設置も忘れてはなりませんね。イタリア人のジョバンニ・ニコラオが指導にあたり、西洋画法が日本人に伝授され、オルガンなどの楽器類、時計まで制作されました。

先ほど触れた天草四郎陣中旗を描いたとされる山田右衛門作は、ニコラオについて、有馬の八良尾にあったセミナリヨか、この志岐の画学舎で油絵の技法を学んだと考えられます。画学舎と同じ年に有馬のセミナリヨも志岐に移されましたし、セルケイラ司教が一時的に志岐に住んでいたこともあります。

解説板にこれ以上加えたら大変だから、書く必要なないと思いますが、覚えておいてほしいことがたくさんあります♪


志岐での迫害


だけど志岐においてキリシタンが平穏にすごせたのは1566~1570年くらいがピークで、振り返ってみればそれほど長い期間ではありませんでした。麟泉は遅くとも1571(元亀2)年には明白に棄教し、徐々に迫害し始めたので、長崎へと逃れる人たちも出てきました。1614年にはアダム荒川が処刑されています¹。

イエズス会の日本年報²によると、1629年からは迫害が更に過酷になり、三宅藤兵衛が信徒に棄教を強制したことが出てきます。そして「信仰を棄てない者については海に沈めよ」との指示が、寺沢志摩守から来たので、その通りに行っています。拷問を受け、牢内で絶命する者も。

同じ年報では、大江や﨑津でも河内浦代官によって迫害が起こり、拷問の末海に投げ入れられ殉教しています。資料を追っていくと、1633(寛永10)年、セミナリヨにいたヤコモが志岐で生きながら火刑に処せられたとの記録も³。日本全国で迫害の嵐が吹き荒れていたので、ここだけが例外となることはなかったということですね。

これが島原天草一揆前に信徒が置かれた信仰的な状況でした。いつかできることなら、処刑地や牢屋などの場所を知りたいし、行ってみたいです。既に行ったことがある所かもしれないけど。


¹ 松田毅一監訳「十六・七世紀イエズス会日本報告集」第Ⅱ期2巻(同朋舎、1996年) ガブリエル・デ・マットスのイエズス会総長宛、1614年度・日本年報(ローマ版、3-205項)
² 今村義孝「近世初期天草キリシタン考」(天草文化出版社、平成9年) 1626年3月15日付、マカオ発信、ジョヴァンニ・バッティスタ・ボネッリのイエズス会総長ムティウス・ヴァテレスキ師宛、1625年度・日本年報p207
³ 今村義孝「近世初期天草キリシタン考」(天草文化出版社、平成9年) 1632、1633年にキリスト教信仰のため、日本で拷問にあい死んだ人々についてのイエズス会の宗教的カタログp213


天草四郎乗船之地


そして本日最後の訪問地は、天草四郎乗船之地碑と相成りました。碑は何というか、レゴブロックで作ったようなもっさりした感じですね。

いやデザインよりも、歴史的な意味を考えましょう。坂瀬川の漁港の近くに建てられているから、昔も港があり、そこから出帆したと考えられているんでしょうか。

当初一揆軍は破竹の勢い。まず天草上島で前哨戦があり、続いて下島の本戸戦に敗れた唐津軍は、富岡城に籠城。一揆軍は富岡城を攻めるも落とせず、作戦の練り直しをします。その結果、四郎とそのブレーンは自軍を撤収して、島原の一揆軍と合流することに決め、島原半島へと向かっていきました。

前にあるのは、渡っていた人たちが戻って来られなかった海ですね。


最後の最後になって(汗・・・


最後の最後になって気付いたことですが、私以前中山氏の講演を聴いたことがありました。数年前、大阪で開かれた河内キリシタンのシンポジウムで、中山氏が発表者の一人だったのです(旅行記「watashiを見つけてくれてⅠ」)。豪華な講師陣で、「オールスター」とか書いていたくせに、忘れてたとは失礼な(お前だよw)

実はその時一人だけ名前を知らない講師がいて、それが中山氏でした。河内で洗礼を受けたキリシタン武将の天草での活動に関する発表で、最初は関連性がよく見えなくてボーっと聞いていたんですが、途中から面白くなってたくさんメモ取った覚えがあります。それで「天草もう一度行かなきゃな」と思ってたんですが・・・(それさえ忘れたことを今、後部座席で悟るのであった)。

「天草もう一度行かなきゃな」と思わせてくれた講師の案内で、今日は天草を回らせてもらったんですね(感謝)。思い出したのがラスト過ぎて、キリシタン武将の話はうかがえませんでしたが、帰宅したらその時のレジュメ探そっと(ほんとに探せよー)。



民宿の夕飯


民宿の夕飯は実家風のラインナップ。気持ちがほぐれます。今回の宿、正解でした。部屋は広いし女風呂はいつでも貸切。今日は雨で最終的に全身ずぶ濡れになりましたが、コートから厚手の服まで全部洗濯・乾燥できて、後顧の憂い(洗濯物的なw)がなくなりました (^^♪




機会


今回、天草に来る機会を掴めて良かったなと思います。景教研究会で福岡に来て、そのまま帰るとか他の選択肢もあったかもしれないけど、「天草」がずっと頭に浮かんでいたので、それに従い行動したことが、機会を得ることになったのだと思います。

エアラインの欠航は想定外だったけど、SNSでつながっている人たちへの気持ちが後押してくれました。迎えてくださってありがとうございます、でしたし。

機会が来て、それを選ぶのに与えられている時間は、数日だったりほんの一瞬だったりするけれど、いい選択をすれば必ず「これで良かったんだな」という感じがします。今それを感じて、すっきり感があります。

機会を掴むのに必要な条件があるとしたら、それは目を覚ましていることでしょうか。「ん、これ自分に与えられた機会かもしれない」とキャッチできることが一つ。もう一つは、自分が走っていることかなと思います。

スポーツでよく走る人にボールが回ってくるように、「この情報、あの人に必要では?」と思ってもらってこそ、相手が教えてくれたりします。

機会は来て、去るもの。与えられた瞬間の機会に、反応できるようになりたいです☆彡






                                     NEXT