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キリシタンのあしあとを求めて各地を旅してめぐります♪

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 蒼き切支丹回廊 4



キリシタン・ツアー二日目は竹田へ。竹田は去年も行っていってるのと、ちょっと考えるところがあって、私はあまり気乗りがしないのですが、皆さん行きたがってらっしゃいます。よく洞窟礼拝堂の写真とか旅行パンフに載っているから、一度行ってみたいと思っている人が多いよう。私も最初はそうでしたからね。安全でありますように~☆



朝はお祈りで


泊まった宿舎は、韓国系のキリスト教団体が建物ごと買った施設で、昨晩着いた時にちょうど開館感謝礼拝をしていました。

こういう施設が日本にあるんですね。黄宣教師の知り合いで、泊まれるようになったようです。

全員クリスチャンなので、朝は一曲賛美してお祈りしてスタート。朝食は別府湾SAで摂りました。


別府湾SA

しらす丼

キリシタン洞窟礼拝堂入口


着きました。この道を進むと洞窟礼拝堂です。

さて竹田というと、「竹田は当時、日本八大布教地の一つとしてヨーロッパに知られていた」と書かれていたりしますが、この出典がわからなくて、悩んでいました。

フロイスの「日本史」は何度も読んでいるけれど、「竹田」が出てきた覚えがないし(見逃している可能性があるから強く言えないけど)、宣教師が「八大」なんていう表現をするはずがなく(これは断言できます)。だから誰が、宣教師のどんな記述を「日本八大布教地」と解釈したのかを知りたかったのです。


日本八大布教地だった!?


このことを一年くらい悩みながら、出処を探してみたんですが、見つからず、そこで大分在住のキリシタン研究家の方にお尋ねしてみたところ、「竹田ではなく朽網(くたみ)ですね」と。そっか、朽網!それなら理解できます。朽網ならたくさん宣教師の報告書に出てきますし、昨日書いたルカス老人がいた所だから。キリシタン遺物も見つかっています。

では出典はというと、その方の知人が「全日本布教長がインド管区長に宛てた公式報告に記述されている由。文献は『イエズス会士日本通信上』(村上直次郎訳)と直入町誌に。府内、平戸、博多、鹿児島、山口、京都、堺と並んで朽網とあるのが改めてすごいと思います」と教えてくださいました。

イエズス会士の日本通信を全部調べて、これだろうと思われたのが1561年10月8日付のコスメ・デ・トルレスの書簡です¹。ここには当時イエズス会が布教していた8つの地域の名前が列挙されており、その中に「朽網」があります。しかしこれを見ると、「八大」というのは不適切な表現かと思います。

正確には「府内」ではなく、「豊後」とあり、朽網は豊後に含まれるからです。実際府内から宣教師が数か月に一度くらいの割で朽網を訪れて、徐々に信徒が増えている状況で、信徒の家に祭壇が設けられているだけでした。

つまり一個の独立した教会ではなく、支(部)教会です。常駐の司祭もいませんでしたし。同じ頃平戸では2000人の信徒と教会が5~6か所ありました。そういう感じで、豊後地域の一つの教会として朽網があったと考えるのが妥当かと思います。


¹ 松田毅一監訳「十六・七世紀イエズス会日本報告集」第Ⅲ期1巻(同朋舎、1997年) 1561年10月8日付、コスメ・デ・トルレス師が日本(豊後)より、インド管区長であるイエズス会のアントニオ・デ・クワドゥロス師に宛て(したため)た書簡


洞窟礼拝堂の手前に


小道を進むと、洞窟礼拝堂に上がっていく手前に洞窟が。中には清水が湧いています。儀式で使う聖水として用いられたのでしょうか。

話を戻しますと、「竹田が」日本八大布教地の一つだとするのも少々問題含みの表現ですね。

朽網は今でこそ竹田市になっていますが、1955年までは旧直入郡の一部でした。それが直入町と名前を変え、この(旧)直入町が合併で竹田市に編入されたのは2005年のこと。つまり15年前までは「竹田市」でもなかったということです。

確かに竹田キリシタン研究所・資料館の公式サイトには「日本八大布教地『朽網』」と書かれているのですが、当の資料館で説明する際には「竹田が」と言っているので、聞いた人は現在資料館がある竹田の城下町がそうだと勘違いしてしまいますよね。

「日本八大布教地」を、資料館や洞窟礼拝堂のある「竹田」だと思ったか、そこから10キロほど離れた「朽網」だと認識したか、訪れた人に出口調査してみたら、勘違いさせているかどうかわかると思います。


竹田と朽網は同じか?


更に、朽網でキリシタンが栄えた時は、府内から宣教師が行き来することはあっても、竹田との間ではそのような往来はありませんでした。朽網のキリシタンは1586年、朽網鑑康(くたみ・あきやす。宗暦とも)が自害した後急速に衰え潰えていきました。一方、竹田の岡城には、ちょうど同じ頃キリシタン武将の志賀親次(しが・ちかつぐ。「ちかよし」とも)が入ってきました。

つまり朽網と竹田は、違うタイミングに、異なるルートからキリスト教が入っていったのです。だからこの二つをイコールで結んで、「竹田が」八大布教地だったと言うことは、やはり無理があります。



殿町洞窟礼拝堂


こちらが洞窟礼拝堂の正面。神秘的だという声が上がっています。

白い木枠や木の階段は最近のもので、昔はどのようであったのかはわかっていません。

全員で中に入って賛美歌を歌いました。




洞窟礼拝堂

解説板

隣の洞窟

礼拝堂内部

天井

入り口

内部


竹田キリシタン研究所・資料館


次は竹田キリシタン研究所・資料館へ行きましょうということだったので、私がナビを。

「すみませーん」と先に入っていって、駐車場の場所を聞き、中にいらしたGさんに解説をお願いしました。

韓国人2人、台湾人1人、アメリカ人2人とその他日本人の総勢12人で見学を。皆さん物珍しそうに見てらっしゃいます。



解説


Gさんの右横にあるのがサンチャゴの鐘(複製)、左横にあるのが「山の神」。

ここにあるサンチャゴの鐘やINRI碑(複製)、ヤコブ頭像(複製)に関しては、キリシタン遺物だろうなと思いますが、「山の神」はかなり微妙。

誰がこれをキリシタン遺物だと言っちゃったんだろうと思います。解説板に「キリシタン遺物として指定されているものではありません」とあるのですが、その後に足を交差させているのがアンドレアクルスだとか、目が円いのが「マリア」だとする説が書かれています。


竹田市指定文化財「山の神」


個人の隠れキリシタン研究家が勝手にいろんなものをキリシタン遺物だと認定しているので、そんな人のうちの誰かがこれを見てそんな話をしたんだと思われますが、この資料館は竹田観光のガイダンス施設で、公式サイトには竹田市長の挨拶が載っていますよね。そんな信憑性の薄いことを解説で言ってていいんでしょうか。

「全国に山の神と名の付くものは多くありますが、このように鳥の形をしたものは竹田市しかありません」とあり、竹田市指定文化財となっています。一体が一つ目で、もう一体が三つ目。普通に見たら妖怪ですよね。半人半獣の。生き物で一番似ているのは鳥ですけど、口や鼻は人間です。これをキリシタンが「マリアになぞらえて信仰していた」とはいくらなんでも・・・。それを信じる人いるんでしょうか?


その他の展示物と解説


その他の展示物に関しても少々物申したいことはあります。「紙踏絵」とか。だけど見ていくと、1年前に来た時に「ルルドのマリア」と書かれていたのが、「竹田で発見された聖母マリア」に訂正されていますね(テプラで貼ってある)。良かったです。さすがに「ルルド」はあり得ませんから(詳しくは「FacataからBungoへ4」に)。

後の予定があるので15分で解説をしていただき、館を出たのですが、車に戻ってから、皆さんに質問されました。「あそこで言っていることは本当なの?」「あんな偏った見方は初めて聞いたけど、あなたも賛成なのか?」等。解説を聞いて疑問に思った人が多かったようです。

「私も皆さんと同じように感じます。あの方の受け取り方、一つの説ということだと思います」と答えましたが、苦しかったです。市の観光振興施設で堂々と言っているんですから。それから皆さん「朽網」ではなく、「竹田」だと思ってらっしゃいました、キリシタン時代に「八大布教地だった」のは。

「八大」も誇大表現だと思いますけどね。宣教師は地名を8つ挙げただけで、「大きな」とも「重要な」とも言っていないのですから。まとめますと、ここで感じる矛盾点は2つですね。「竹田と朽網を同一視させ、同じ地域の話だと勘違いさせ(がちであ)ること」「『八大』という誇大表現」。この2つが合わさると、問題が掛け算式に増します。あー、頭痛い。涙



サンチャゴの鐘

INRI碑

解説

「山の神」

「山の神」解説

「山の神」

展示室

「竹田で発見された聖母マリア」

展示品

「紙踏絵」

祝・道路開通

展示室


原尻の滝の吊り橋


そんな私の心中を知ってか知らずか、黄宣教師が次に向かったのは原尻の滝。九州のナイヤガラの滝と言われているそうです。

橋を渡った対岸から見るのが絶景だというので、吊り橋を恐る恐る渡ります。

下を流れる川が見えるというのが怖いですね。こういうスリルが好きな人もいるんでしょうけど、私は苦手で。でも景色はいいです。のどかで (*´ω`*)


原尻の滝


こちらが原尻の滝。どどどと流れ落ちる水。眺めていると気分がスッキリしてきます。

ナイヤガラを見たことがないから比較はできませんが、ここ良いですね♪


昔の民家


水車小屋のある民家が移築されていたり、土産屋と食事処の入った建物もあったりして、観光的なものも整えられていて便利。

すっかり皆さんとは打ち解けるようになり、金奎東(キム・ギュドン)さんは「牛丼(ぎゅうどん)さん」、ブラッドフォードさんは「ブラッド・ピットさん」と呼ばれています(←私が付けたんじゃありませんw



三重町のキリシタン墓群へ


下赤嶺キリシタン墓群への道


そこからまた30分ほど車に乗り、キリシタン墓地がある豊後大野市の三重町へやってまいりました。

件の墓地があるのは、右手奥の林の辺りだそうですが、農道が途中まであるだけで、あとはあぜ道ですね。案内板もナッシングで。知っている人がいなければたどり着けなさそう。。



下赤嶺キリシタン墓群


こちらが下赤嶺キリシタン墓群。思いの外整備されていますね。

88基ほどの墓碑が、縦横整列した形で据えられています。

全部伏墓のようで、十字架が刻まれているものが数個。何も刻まれてないものがほとんどですが、墓碑の形状からキリシタン墓と認められたのでしょう。

気になったのは石の劣化具合。凝灰岩でしょうか、墓石に向かないもろい石で作ってあるため、亀裂が入り真っ二つに割れているものがあり、角が取れかかっているものもあり、表面がはがれて浮き上がっているものもあります。十字架が刻まれているのも角だったりするので、ここが欠けてしまったら、これがキリシタン墓碑かどうかわからなくなりそう。


宣教師の記録にる


解説板によると、この地域の墓地内に散在していたものを、散逸させないために集めて整備したようです。この地のキリシタンについては「戦国時代の永禄12年(1569)、府内(大分市)にいたギリエルメ修道士が井田(千歳村)と三重(三重町)に二ヶ月滞在し、百七十名が洗礼を受けた。」と書いてあります。

しかし宣教師の記録を調べると、「百七十名」ではなく「百六十名」のようですね。滞在期間もちょっと違います。細かくてすみませんが、今後解説板を更新する際に参考にしてもらえたらと思うので、下に掲げておきますね¹。

降誕祭の後、井田と三重地方の諸町村の異教徒らが例のごとく望みを示したが、彼らは多年にわたって同地方を巡った四名のキリシタンの感化により説教を聴くことを望んだので、同地にギリェルメ修道士と洗礼志願者の説教が巧みな一人の既婚のキリシタンを派遣するのがよいと思われた。彼らは同地に十か月間留まり、多数の人が説教を聴き、百六十名が洗礼を授かった。


¹ 松田毅一監訳「十六・七世紀イエズス会日本報告集」第Ⅲ期3巻(同朋舎、1997年) 1569年10月11日付、ベルショール・デ・フィゲイレド師が豊後よりインドのイエズス会の司祭および修道士にらに宛てた書簡


解説板

十字入り墓碑

角がはがれている

表面に浮きがある

キリシタン墓群

苔が覆う

横から

十字架

積み上げられた石


墓地の一角には墓石が積み上げられていて、これらはキリシタン墓碑ではないとされたからこうなっているんだと思いますけど、何とも哀れな感じがします。

見ると中央に四角形のくぼみが彫られているものもあり、由布院のキリシタン墓地で見たものと似ていたりします。

この四角形のころに棒状の十字架を差し込んで建てていたかもしれないと、黄宣教師が語っておられました。十字架でなく、仏教的なものを建てた可能性もあると思いますが、このまま朽ちて失われていくことは明らか。全部整備したらキリがないんだろうし、キリシタン墓碑の現状の保存法も「大丈夫かな」という感じなので、地域の方々も行政も困ってらっしゃることでしょうね。



頂き物


言葉少なに車に戻っていたら、地域の人と話していた何人かの人が、「こっちこっち」と。車を寄せると、その方から頂いた石を積み込みました。

車を停めるのに話しかけた人が、たまたま墓地の墓石を管理している人で、無縁仏の墓碑として積み上げられているものならば、あげてもいいと言われたそう。

そこで四角形のくぼみのある石を二点ほどいただいたとのことでした。そんなこともあるんですね。ありがとうございます。




この日のラストは津久見


宗麟公園


さてと、本日のラストは津久見の大友宗麟墓所です。墓のある宗麟公園は、犬の散歩をする人の影のみ。鳥の音が聞こえています。

津久見は宗麟終焉の地として知られるのですが、この山に天徳寺(宗麟が建てた教会)があったようですね。晩年はひたすら信仰に生きた宗麟が、ここでどんな祈りを捧げていたのか聞いてみたくて、耳を澄まします。

墓への登り口に設置された解説板には次のように書かれています。詳しいのでそのまま引用しますね☆


大友宗麟(1530~1587)は、戦国時代、中九州六カ国を支配した武将として、また、キリシタン大名として有名です。ここ大分県津久見市は、その大友宗麟終焉の地です。樹齢100年を越える杉木立は、かつて「天徳寺の森」(宗麟が建てた教会)と呼ばれ、森の中は、凛とした空気を漂わせています。

「宗麟」という名は、永禄五年(1562)禅宗に帰依し、剃髪して名乗ったもので、通り名として一番使われている名前です。宗麟と津久見とのかかわりは四〇代後半、天正六年(1578)の日向進攻以前にか遡ります。その後、天正11年、天徳寺に隠居すると、この地に長年の夢であったキリスト教による理想の国づくりを目指します。しかし、志半ばにして昇天。享年五八歳でした。

当初は、キリスト教式の墓に葬られましたが、秀吉によりバテレン追放令が発せられると、長男、義統(吉統)は、仏式に改葬しますが、その墓も荒廃してしまったといいます。

現在の墓は、寛政年間(1789-1801)旧家臣の末裔臼杵城豊により改葬されたもので、この時、城豊は、墓碑を新調し、長泉寺(市内宮本町)に供養を依頼したといいます。

墓石正面には、「瑞峯院殿前羽林次将兼左金吾休庵宗麟大居士」、側面には、「天正十五年丁亥五月廿三日春秋五十有八歳」、「九州二島伊豫官僚 従四位下兼左近衛少将 大友左衛門督源義鎮」とそれぞれ刻まれています。その碑文を読む時、家臣の主君に対する畏敬の念が伝わってくるような気がします。

時代が移り変わる中、堂宇も建て替えられましたが、昭和五十二年、上田保氏を発起人として「大友宗麟公顕彰会」が結成され、磯崎新氏の設計のもと、キリスト教式の墓碑を並べ、今日みるような墓地に生まれ変わりました(後略)。






解説板

墓所の解説板と像

大友宗麟墓所


こちらが 大友宗麟墓所。戒名が刻まれた仏式のものですね。

向かって左方向には、磯崎新が設計した洋式の墓があります。

こちらの墓域にも黒御影石の解説板(と大友宗麟像)があり、下には書いてなかったことが書かれているのでまたもや引用します。どちらも・・・書きにくいところは言葉を選んでキレイに書いてると思うのは私だけでしょうか。上田保によるこちらの文章の方が信仰的ではあります。



大友宗麟は享禄3年(1530)府内(大分市)の大友館で生まれ、父義鑑の横死のあとを受けて天文19年(1550)弱冠21歳で、戦国時代の真只中に大友氏21代の城主となった。その後、内は統治に意を用い、外は武威を張り豊前・豊後・筑前筑後・肥前肥後の6カ国と日向伊豫の各半分を領し、勢威九州を圧し大友の最盛期を築いた。

城主となった翌年宗麟は、日本に初めてキリスト教を伝えた聖フランシスコ・ザビエルを迎えて教旨を聴き、大いに心服し、以後キリスト教を庇護したため、信者は日毎に増え府内には西欧文化が絢爛と栄えた。天正6年(1578)神父カブラルから洗礼を受け経名をフランシスコとした。天正10年(1582)には、キリシタン大名大村・有馬と共に少年使節をローマに派遣した。

しかし、天正14年(1586)島津と戦って破れ、翌年豊臣秀吉の島津討伐があったが既に疲労甚だしく、天正15年(1587)5月23日、津久見の住居で聖者の如く浄く帰天した。時に58歳であった。葬儀は神父たちによって盛大に行われ、墓もキリスト教式に建てられたが、宗麟の死後僅か1ヶ月の後、秀吉が突如耶蘇教禁令を発布したため、嫡子義統は仏式の墓に取り替えた。

その墓も荒廃し200年後の寛政年間に臼杵の旧族臼杵城豊が、堂宇を新築し新しい墓をこれに納めたのが現在の墓である。しかしその堂宇も破滅し、見るに堪えないので、このたび石田秀夫津久見市長、木下郁前県知事、平山高明カトリック大分司教、山本峯生県教育長と後任の矢野朔雄氏と私が、大友宗麟公顕彰会を作り、設計は斯界の権威磯崎新氏に委嘱し、経費の大部分は水族館マリーンパレスが創業14周年記念事業として負担した。

     昭和52年9月 大友宗麟公顕彰会代表
              ㈱マリーンパレス社長  上田 保





磯崎新が設計した洋式墓


大分出身の磯崎新が設計した洋式墓は、やはり素敵。上部のカマボコ形が、一見日本のキリシタン墓に似てますが、棺部分を入れるとヨーロッパ風。ローマでこんな墓を見たことがあります。

宗麟公もお喜びではないかと。しかし墓こそいくつかあるものの、本人の遺体はどこにあるか不明のようですね。

どちらの解説板にも、現在の墓の話しか書いてありません。遺骨があったなら、きっと考古学的な発見があっただろうと思うんですけど。



宗麟像と花押


墓所から右手に少し下りると、大きな宗麟像が。皆さん「いいお顔なさってるね」とおっしゃってますが、似てるかどうか・・・^_^;

背後の石垣には、宗麟が使った花押がはめ込まれています。この演出、いいですね。公園全体のデザインといい。

最初の花押は戦国武将っぽい中に文化人の雰囲気が漂い、後になるほどアルファベット使った西洋風のものになります。これを墨と筆で書いていたというのが、いとをかし



ノロジカ


宿所に近づくと、野生動物の姿が。昨日もたくさん見かけたのですが、今日もおでまししてくれるとは。

韓国人は「ノロだ、ノロ!」と言い、日本人は「鹿だよ~」と言ってますが、ノロジカですかね。

別府の温泉街から少し斜面を登ってきただけなんですが、一気に「山」です。害獣なのかどうかわからないけど、相当たくさん住んでいそうで、危険はないのかな?と思いました。




ひと晩明けて


ひと晩明けて


ひと晩明けて、今朝もお祈りから一日を始めます。今日は朝食も厨房で手作りし、合宿気分。

本日は国東半島を北上しながら、ペトロ岐部記念公園に寄り、途中駅で降りる人は降りて、福岡へと向かう予定。

私は福岡空港で降ろしてもらい、熊本に向かおうと思っています。実は昨日天草エアラインから電話があり、旅程変更を余儀なくされ、内心てんやわんや(詳しくは明日にでも)。長距離ドライブ、安全も恵みも守られますように。



国東半島


やってまいりました、国東半島。ここに国見ふるさと展示館と、ペトロ岐部神父記念公園があるのです。まずはペトロ岐部の資料もあるという国見ふるさと展示館の方へ行きましょうか。

昔ながらの落ち着いた雰囲気の村ですね。ペトロ岐部の頃は海がもっと近かったんだろうけれど。今はどちらかというと、「漁村」よりは「農村」といった感じ。



国見ふるさと展示館


ペトロ岐部の存在が、世に広く知られるようになったのは、2008年に「ペトロ岐部と187殉教者」が列福された時からかと思います。

実は、ペトロ岐部のことを、日本人が知るようになったのは昭和初期のことで、そこから三十年ほどかけて様々な資料が発掘・翻訳され、研究が進んだことにより、徐々に実像が明らかになっていきました。

レオン・パジェスが「日本切支丹宗門史」を執筆・刊行したのが1889~1890年。それを引用して姉崎正治博士が「切支丹教師の日本潜入」を著したのが1929(昭和4)年のことでした。姉崎博士は海外の文献と、幕府のキリシタン宗門改役が記した「契利斯督記」(きりしとき)に依拠して、1930(昭和5)年に「切支丹伝道の興廃」を上梓したのですが、これが今日のペトロ岐部像のアウトラインを描き出したと言っても過言ではありません。



国見

旧有永邸

国見ふるさと展示館

展示室


国見ふるさと展示館の一階展示室は大きく二つに分かれており、一つはペトロ岐部関係、もう一つが国見町の文化財を紹介する展示室です。

もちろんペトロ岐部関係に向かいますかね、とりあえずは。ペトロ岐部については下のサムネイル写真の解説を読んでいただくとして・・・(^_^;)

ガラスケースに入っている資料は全部複製。しかしうまく選んであると思います。ここはちゃんと学芸員の手が入っているようですね。でも普通の人が少し勉強したくらいではここまで揃えられないと思います。キリシタンに詳しい人が助言・協力したのではないかと。



解説パネル

自筆身上書

解説

身上書の訳文

自筆書翰

解説

ペトロ岐部

所持品目録

展示品


見れば見るほど感服です。「日本の精華」は有名だから理解できますが、長三郎訴人(覚)やフランソワ・カロンの日記まで揃えて、ペトロ岐部が実在の人物だったことを明確にしています。

きちんと資料を探してくれば、その人が本当にいたことや、どんな人となりだったのかわかるところはわかるんですよね。

それを「(その人が)当然いたもの」としてすっ飛ばして、「こうだったかもしれない」「ああだったかもしれない」という想像混じりの解説パネルを並べてしまう所って、無いとは言えなくて。

全部複製だとしても合格点もらえる水準を満たしていると思います。そんなに簡単に列福された殉教者の遺物が手に入るわけないので、ここまで誠実に作ってくれて御の字です。


よく資料館などで見かける「紙踏絵」は!


残念な点を挙げるとしたら、「踏絵」状のものですかね。「踏絵」と書いてないだけ良いですけど、それなら「参考品」と書くとか。また、よく「紙踏絵」と言われて展示されているものは、置かれているだけで見る人をミスリードしてしまうので、「偽物」「偽造品」と書くか、展示から外してはどうでしょうか。

良心的な研究者は、見る人が勘違いしないように、この画像の上にバッテンを付けて、「偽物」とキャプションを付けた上で本や資料に掲載しています。

もうこれが「偽造品」であることは、いろんな観点から判明してきていますよね。複数の研究者が本や講演で明らかにしているので、知識をアップデートしていたら情報をキャッチできるはずです。ここの学芸員もそれを知っているので、「紙踏絵」と書くのをやめているのではないでしょうか。


キリシタン遺物は諸刃の剣?


特にこの「紙踏絵」は、大分市内の骨董屋が随分と頒布したので、ほとんど大分県下で見かけます。これを用いてメディアで証している牧師さんとかもいてちょっと心配だったり。キリシタン遺物は諸刃の剣にもなり得ると思うんですよね。間違って証などに使ったら、それが偽物だとわかった時どうするというんでしょう。

だからちょっとそれらしい説明をされたりした時には、信じる前に、スタンダードな認識観を持つ専門家に相談してほしいです。大学の先生とか、真面目に論文書いてる研究者とか。ヒョイと突飛な意見に飛びついたりしない方が賢明だろうなと思います。



ローマへの道程

長三郎訴人(覚)

解説

フランソワ・カロンの日記

解説

「日本の精華」

解説

踏絵状のもの

「紙踏絵」とよく言われているもの

参考品として・・・

かくれキリシタンの遺物

解説パネル

国見町の文化財


国見町の文化財を紹介するコーナーも、解説パネルなど力が入っていると思いました。展示物が少なく、若干スッキリした印象ですけど、石造物などはここまで持って来られないんでしょうね。

だけどこの国東半島は、古くから石造物の文化が発達していて、石仏も多く作られ野外にあるんですね。

これらをキリシタン遺物と区別するには、刻まれた銘を読んだり、石材の種類や形状から判断するんでしょうけれど、放射性炭素年代測定が使えない石造物では、完全なる峻別は不可能ではないかと考えます。

しかも、キリシタン遺物なのか、「異宗」のものなのかは更に区別が難しいと思います。キリシタンがキリスト教の教えから変質していってしまい、仏教神道修験道でもない「異宗」になってしまった場合、その石造物を何と言うべきかという問題です。

昨年、長崎や天草の潜伏キリシタン関連遺跡が世界遺産登録されましたが、それは一里塚に過ぎず、そこから観光振興などで永続的な保存を可能とする仕組みを考えるのと同時に、更に詳しく潜伏の実態、つまり信仰やそれを仮託する石造物に関する研究が進められるべきなのだと思います。

私みたいな者が考えるようなこと、もうとっくに当該地域の担当者たちが未来を見据えて考えていることでしょうけれど。うん、それを教えてもらいたいですね。天草に行ったらそんなことも聞けたらいいな♪



二階はギャラリー


展示館二階は地元出身画家のギャラリーになっていて、なかなか良い感じ!

薄暗い屋根裏の空間に、むき出しの梁。ギリギリに絞った照明で浮かび上がる油彩の鮮やかさよ。

ほんの一瞬現出して、視線を逸らしたら次の瞬間には無くなっていそうな、あえかな感じがします。絵は絵だけを見るのではなくて、空間の中で見ているんだなと感じました。



映像も


再び一階に戻って、ペトロ岐部の映像も見せてもらいました。解説パネルはどんなに速読しようとしても読み切れないし、頭に入って来ないこともあるので、映像あるのは有り難いです。

お願いしないと見られないみたいですたけどね。セッティングに結構手間取っておられたし。常時流れているものではないようです。

今回は団体だからお願いできたけど、一人だったらお願いできず、見ずに帰って来たかもしれないですね。「ペトロ岐部の映像あります。見たい人は受付まで」とでも張り紙をしてくださったら、見て、ここまで来て良かったと思って帰る人が増えるかもしれません (o^^o)



岐部一族の墓


外に出て、公園に向かう途中、岐部一族の墓で立ち止まりました。

先ほど見た自筆の身上書にあった通り、ペトロ岐部の出身地はUrabe。彼が生まれた天正年間の浦辺には、大友氏の下、浦辺水軍が編成されていました。

岐部氏は浦辺水軍二十数家の筆頭格で、周防灘から伊予灘を結ぶ沿海の警備にあたっています。また大友氏の対外貿易の任も担っていたことでしょう。

ペトロ岐部が一人ローマへ旅立ち、その途次でエルサレム巡礼を果たしたことは、その出自による発想が大いに影響していたと考えられます。ここにはそのご先祖様と末裔とが眠っているんですね。ペトロ岐部の血縁的な背景が見えてくるようです。



ペトロカスイ岐部神父記念公園


ペトロ岐部が生まれたのは1587(天正15)年のこと。奇しくも秀吉が伴天連追放令を出した年で、大友宗麟が死去した年でもあります。

キリシタンをめぐる環境は大きな転換期を迎えていました。ここを出発して、世界を歩き、最期は江戸で迎えたペトロ岐部は、その転換の時代の申し子だったと言えそうです。

ちょうど最後に咲いた花のように。



ペトロ岐部


公園の中央には舟越保武が制作したペトロ岐部像が。

1965(昭和40)年に作られたとは思えませんね。真の芸術は古びないものなのか。

大きく胸を張って見つめる先にあるのは、ヨーロッパでしょうか。それとも天国?彼方の国を目的地のようにしっかりと捉え、見据えているように思えます。

制作にあたり舟越保武は、岐部の人たちに集まってもらってデッサンしたといわれています。



もう一つの彫刻


ペトロ岐部像の左手には、 パウロ・ファローニ作の井上筑後守政重と捕縛されたペトロ岐部神父の彫刻があります。

こちらのペトロ岐部は井上政重を振り返り、憐れむようにニヤッとしているのですが、この表情はちょっとビミョーかも。

舟越保武のペトロ岐部像の方がいいと言う人が多いようです。



井上政重とペトロ岐部

聖堂も

聖堂内

大樹


福岡に戻って


福岡に戻って、福岡空港の近くにある天ぷら屋さん「ひらの」でランチ。店の中は大行列で小一時間ほど待ってカウンター席へ。大きな穴子天が衝撃的。人気に納得です。

これで今回のキリシタン・ツアーは終了。名残惜しいですが、再会を期して、私は空港で降ろしてもらいました。今日はこれから熊本に移動です。あー、ちょっと心配だけど。考える暇がないほど忙しいのがいいのかもしれません (;^_^A





キリシタンをやるなら


今回の旅行で特に感じていることだけれど、キリシタンだけ見ていると何でもキリシタン関係に見えてきてしまうんだと思いました。例えばハート形。この形は、現代人が見ればハートにしか見えないのだけど、昔から日本では「猪目(いのめ)模様」として存在していました。

奈良平安どころか古墳時代から見られる文様で、このデザインに込められた意味は災い除けだと考えられています。木造建築に火除けの意味で取り付けられる懸魚(げぎょ)に施されていることも多く、装飾と災難除けを兼ねていると推測されます。

だけどキリシタンだけ見ている人は、これが日本古来のデザインの中にあるかどうか確かめもせず、ヨーロッパ絵画のSacred Heartだとばかり考えて、そういう画像と共に載せ、「ほら同じでしょ!」と主張するのです。

それは、目の前にある物を、見たい方向、自分が考えてる方向にばかり適用してしまうから起こる弊害です。キリシタンをやるならば、何でもキリシタンだと思ってしまわないよう、キリシタン以外の世界をもっと広く見ていないといけないんだと思うのです。

私も何だってキリシタン遺物に見えた時期がありました。立派な資料館に展示してあったり、長年研究している人がそう言ってたりするから、信じるものだと思っていて。だけど考えれば考えるほど、それではダメです。自戒を込めつつ、広い視野を持つことを提言したいと思います。


結論は、キリシタンをやるなら、キリシタンだけを見ていちゃいけない!です。




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