本文へスキップ

キリシタンのあしあとを求めて各地を旅してめぐります♪

トップページ > 旅行記 > 蒼き切支丹回廊 2      スマホ版は⇒コチラ

 蒼き切支丹回廊 2


三泊予約した宿がなかなか使い勝手が良くて、ひと安心の朝。今日は太宰府に行って、その後二日市にある教会に向かいます。そこで景教研究会の大会があるので。九州国立博物館(キューハク)楽しみだなっ (o^^o)



雨模様


一階のカフェに朝ご飯を食べに行くと、外は雨模様。しっとりした一日になりそうです。屋内で見るのがメインだろうから、多少降っててもOKかと。居心地良くて根が生えそうなので、さっさと出発しましょー。


朝ご飯

熱々をサーブ

太宰府へ


西鉄久留米から太宰府へは一回乗り換えで40分ほど。乗り換え駅の西鉄二日市が景教研究会の開かれるところなので一石二鳥ですし。

西鉄の便利さに、早速ファンになりそうです。これでJR駅ともうちょっと近ければ言うこと無しなんですが。


太宰府


太宰府駅は、駅舎からして天満宮。外国人観光客いっぱいで、参道はおしゃれストリートですね。浅草と原宿を合わせたみたい。

伝統的な土産物店とカフェ、雑貨屋が混在していて、スタバも太宰府仕様。隈研吾の事務所が設計して、グッドデザイン賞を獲った店舗ですよね。

町歩きを目当てに訪れる人も多そうです。


ストリート

太宰府スタバ

参道

狛犬

延寿王院


参道の突き当りには延寿王院の山門。昔天皇から院号をもらった宮司邸で、中には入れません。

その手前には「御神牛」像。「ごしんぎゅう」と読むそうです。

太宰府天満宮の祭神である天神様こと菅原道真のお使いの牛で、全国の天満宮にも同様の像が置かれていますよね。「撫で牛」と呼んでる所も多いですけど。いわゆるパワースポットっていうんでしょうね。皆さん撫でてます。

さて、延寿王院の方には幕末の頃、三条実美や尊王派の5人の公卿が滞在し、その間に西郷隆盛や高杉晋作、坂本龍馬ら多くの勤王の志士が出入りしていたんだとか。ここで話し合われたことも歴史的に貴重だと思うんですけどね。でもその辺の解説板がない(?)からか、皆さん牛像にばかり関心行ってるように見受けられました。ちょっともったいないかなと。



御神牛

石灯籠

狛犬

大木

太宰府天満宮への橋


根を張る巨樹を見るだけでも、古色蒼然とした石灯籠や鳥居を目にするだけでも、流れてきた時間と重ねられてきた営みに頭が下がる思いがします。

クリスチャンは基本的に神社参拝をしないので、参拝というより文化財を見学させてもらうつもりで来ているんですが、畏敬の念を覚えるのは自然なことですよね。

池の途中にある志賀社は国の重要文化財だそう。割と普通にありますけどね。観光客がカメラを向けている雰囲気でもありません。国指定重要文化財をスルーさせちゃうところが、本家本元の天満宮のすごさなのかもしれません。



赤い橋

太鼓橋

池と擬宝珠

志賀社

太鼓橋を渡ると


心字池にかかる三つの橋を渡ると、鳥居の向こうに楼門が見えてきます。

天満宮の中心部は、御本殿と楼門、その二つから延びた塀で囲まれたロの字型のエリア。

楼門は大正時代に再建されたもののようですけど、堂々たるもの。ここからは自撮り激戦区で、ポーズ取ってる人を入れずに撮るって無理(汗)。



心字池

楼門

手水舎

御本殿

御本殿


一般人の最終到達地点である御本殿は、今からざっと500年前に造営されたもの。破風とか色合いとかが桃山チックです。

小早川隆景が5年もかけて造らせて、1591(天正19)年に竣工したのだとか。

小早川隆景の名にも、天正という元号にも反応してしまいます。ああ、キリシタンが活躍していた時代ですねぇ。そっか、晩年に黒田如水が太宰府天満宮内に隠居していたのだけど、その時には出来上がっていたということですね。

それより更に500年前の905(延喜5)年、菅原道真墓所に最初の祠廟が建てられ、14年後に後醍醐天皇の勅令を受けて社殿を造営したといいます。歴史の遡り方が500年単位ってすごい飛び方ですけど、その間も営々と受け継がれてきたんでしょう。

御本殿に向かって右手にあるのが飛梅。花が少しだけ残っていました。



皇后の梅

飛梅

社殿

社殿

大樟


塀の外に出ると、目を見張るような大樟(くすのき)が。樹齢は1500年を越えるそうです。

これが・・・境内で一番古いものですね。しかも生きてるって。どんな歴史を見てきたのでしょう。まさしく生き証人ですね。



解説板

根元

梅が少し

境内

徳富蘇峰詩碑


宝物殿へ行く道すがら、なんか激しさの迸る石碑があるなと思ったら、徳富蘇峰の詩碑でした!

徳富蘇峰はいろんな所に揮毫した碑が建てられているので、碑自体が珍しいわけではないですが。

でも解説板を読んでびっくり。蘇峰って菅原道真の子孫なの!? 自分の名前も菅原正敬と書いてます(゚д゚)!

親切な人がネットに載せていたのでシェアしますが↓、全く意味が分かりません。漢詩・・・ですかね。どこかで適切に区切るとかなり読みやすくなると思いますが、その力がないので、原文でお楽しみください。きっといいことが書いてあるんだと思う!(でしょうね。。


儒門出大器抜擢躋台司感激恩遇厚不顧身安危一朝罹讒構呑冤謫西涯傷時
仰蒼碧愛君向日葵祠堂遍天下純忠百世師

昭和二十九歳 蘇夆菅原正敬頽九十二


それにしても太宰府天満宮でクリスチャンの足跡を見つけるとは思ってなかったので、思いがけない幸運でした(後で意味も調べようね☆)



徳富蘇峰詩碑

解説板

麒麟像

解説板


宝物殿へ☆彡


宝物殿


こちらが天満宮の宝物殿。企画展で人気歴史コミック「応天の門」の展示をやっていました。全然知らなかったけれど、菅原道真のマンガがあるんですね。

「主役は、天神様。」ってキャッチコピーが新鮮です。絵もイマドキで可愛くて。しばらくマンガ読んでないけど、いろいろと進んでいるんですね。



宝物殿

応天の門

菅原道真

展示室


吹き出しが浮かぶ展示室もなかなかの凝りよう。

こういうアイデア出す人って、また別にいるんでしょうね。展示業者みたいな人たちが。

普通の博物館職員や学芸員さんがここまで考えて作るのは無理でしょうから。

それにしてもうまく展示されているものです。展示品はただケースに平置きしてあるだけなのに、部屋全体の設えがあるので、マンガ家の制作現場か制作チームの頭の中にダイブしてしまったかのような錯覚を覚えます。



重要文化財の蓮華唐花文伝


では常設展の方を見てまいりましょう。こちらの目を引く花文様のものは、なんと昔のタイル。古代の宮殿や寺院の床に敷かれていた古タイルです。

太宰府の町でよく使われていたらしく、多数発見されています。地味に豪華と言おうか、センスも良いですね。

裏側には粘土を踏み込んだ職人の足跡が残っています。リアルさも〇。重要文化財に指定されています。


伊勢物語

蓮華唐花文伝解説

展示室

太宰府政庁の様子

都督府建按詳図解説

都督府建按詳図

古写本

古写本(複製)

毛抜形太刀


こちらも重要文化財に指定された毛抜形太刀。菅原道真の刀だと言われているのだとか。

当時は刀の装着の仕方が違っていたんだなとわかります。柄の金具も見たことない形。

後世の人が作った鞘も、梅が散らしてあって品がありますね。これ持ってたらオシャレさんです。


毛抜形太刀解説


真筆と伝わる法華経

道真の真筆

鎌倉時代の懸仏

鏡など

短刀 村正

村正解説

館内


室町時代に作られた短刀 村正は三条実美が所有していたもの。太宰府から京へ帰る時に奉納したそうです。

村正といえば、「妖刀」と返したくなる、あれですね。徳川家に災いをもたらすという刀がここにあったとは。

エントランスに戻ってお土産品をちょっと見て退館。外より人が少ないので落ち着けました☆彡



御神牛

館内

コミック

外へ

如水の井戸


無事に見つかって良かった!

太宰府天満宮で一番見たかったのは、こちらの井戸。

天満宮の境内では黒田如水が晩年2年ほど過ごしていて、如水の井戸が残されているのです。

宝物殿の隣ですね。この社がある辺りに住んでいたんでしょうか。わび住まいだったことがうかがえます。メグスリノキ(眼薬の木)が植えられているのも気が利いていますね。如水の祖先が生活費の足しにしていたこともある民間薬の木です。



解説板

如水の井戸


眼薬の木


キューハクへ (((o(*゚▽゚*)o)))


見出し


では九州国立博物館(略してキューハク)へ!楽しみにしてきたやつです。国立博物館は、東京、京都、九州にありますが、九州だけ郊外にあるので来たことがなかったんですよね。

キューハクには「殉教三聖人図」など数点のキリシタン関連品があります。公式サイトで調べると、そのうちどれが展示されているかを確認できるのですが、今はなかなかいいタイミングのようです♪

見たいな見たいなキリシタン関連品。ちょっぴり山中にあるキューハクには動く歩道みたいなエレベーターで向かいます。新鮮 (゜o゜)



虹のトンネル


緩やかに上る動く歩道の名は、虹のトンネル。飽きないようイルミネーションが配されています。

子供が喜びそうですが、私も内心テンション上がっています。いいですよね、何かを楽しみにして向かって行くというのは、そのプロセスも思い出になります。

おまけにラクですし。


虹のトンネル入口

レジャーランド

虹のトンネル



九州国立博物館


キューハクの場合、展示は写真撮影不可なので(トーハクはOKなのにな)、文字だけでお送りします。

えー、キューハクの常設展は、ガイダンスエリアを軸に、ぐるりと一周する形でテーマ展示が1〜5まで連続してあり、そこから外側にタコ足みたいに伸びた11個の個別展示室があるという構成。

どれももちろん見応えあるのですが、お目当てのキリシタン関連品は、テーマ5は「丸くなった地球」のエリアにありました。ここでは16〜19世紀中盤までの海外交流を見せていて、その中に「キリスト教の伝来と禁教」というガラスケースひとつ分の展示があり、キリスト教関係がそこにまとまって置かれていました。


キューハクのキリシタン関連品


順路の沿ってケースの左から見ていくと、まず「南蛮伴天連ちよぜい白状」(1644年)という文書が(重要文化財)。イエズス会のジュゼッペ・キアラの自白を記したもので、対馬宗家関係資料の一つです。ここにこんなものがあったんだという感じです。うーん、そっか、九州だもんな、対馬藩か、なるほど・・・。一昨年公開された映画「サイレンス」を思い出します。キアラ神父は主人公のモデル。ここと江戸の切支丹屋敷はつながっているんですね。

その横には太政官制札(1868年)。聖路加国際病院から寄贈されたと書かれていました。その次は重要文化財に指定された踏絵。東京国立博物館の所蔵物で、絵柄はピエタ。長崎奉行所が1669年に製作した20枚のうちの1枚ですね。ちゃんと本物が置かれていてひと安心。さすがに国立博物館は優秀な学芸員さんがいるから偽物を展示することはないですよね。各地の資料館では堂々と模造品が展示されていますけど。

次が大砲玉。原城跡周辺で出土したそうで、オランダ船から放たれた可能性があります。そして展示ケースのラストが殉教三聖人図。スペインで17世紀に描かれたものです。1597年2月長崎で26人が殉教したのですが、そのうち3人だけが描かれています。左からパウロ三木、ディエゴ喜斎、ヨハネ五島。イエズス会の日本人殉教者だけ描いたようですね。

時系列からすると、この並べ方がちょっと?なんですが、考えがあってのことなんでしょうかね。順路は左からだけど、展示ケースは右から見る方がいいような。・・・それでもおかしいですね。順番的には、殉教図→大砲玉→キアラ神父→踏絵→制札です。年代をごっちゃにしたのは見栄えを重視してなのかな。ま、いいか、見られたのだし (⌒∇⌒)



復元模型

館内

館内

うどん de ランチ


お昼の時間帯がとうに過ぎてから、お昼ご飯。老舗らしきお食事処にて。コシのないうどん、癒されますわ。福岡はこれですよね。価格設定もリーズナブル。

店内には私以外にドイツ人観光客の団体さんが来ていました。そう言えばさっき私の横からキリシタン関連品を覗き込んでいたのもドイツ人でした。こういう人たちのニーズに応えるためにも、博物館ではキリスト教関係の解説をちゃんと整えていく必要があるのでしょうね。


店内

メニュー

ねこ


キューハクからの下山も虹のトンネルを通ったのだけど、そこからは人の多い大通りを避けて、昔からある道を歩いて太宰府駅まで行こうかと。

細くてくねくねしてますが、こちらが昔から使われてきた街道のよう。ねこ様に誘われてしばらく歩くと、石碑と小さな社が。こういうものがあるからやっぱり旧道が良いですね♪



ぬこ

伸びをする

大国主命を祀る

石碑

光明禅寺


道なりに行くと左手に現れるのが光明禅寺。ここちょっと寄ってみたかったんですよね。苔の庭が美しいとネットで紹介されていました。

解説板には、鎌倉時代とある僧に菅原道真の霊が現れ、禅の教えを求めてきて、僧が中国の宋に行くよう勧めると道真は行って悟りを開いたのだとか。そして道真が中国僧の師範からもらった僧衣を託して・・・、とか何とか書かれています。

史実ではないでしょうし、話が???なので、興味のある方は下の解説板画像などで確認してみてください。こんにちはー、お庭見せてくださーい☆

門をくぐってすぐ左手にあるのが仏光石庭。おっ、写真撮影不可となっていますね。ネットに載ってたけど、ルールが変わったのか。本堂裏の一滴海庭も、拝観はできても写真はNGみたい。苔寺と呼ばれるだけあって、ふわふわと緑の苔が広がっている様が素晴らしいんですけどね。太宰府に来られる方は是非寄ってみてください。



解説板

入口

藍染川と石碑


ほんの少し歩いくと藍染川が。伊勢物語に描かれた恋愛悲話ゆかりの地だそうです。この小川は身を投げるには浅いと思いますが、昔はもっと悠々とした川だったのでしょう。

奥にあるのが伝衣塔(でんえとう)。先ほどの光明禅寺はこの塔の隣に創建されたというので、元々はこの隣まで敷地があったみたいですね。

どちらもちょっと寂しい感じです。古蹟とはそういうものなのかも。今では遠く過ぎ去った日をしのぶよすがですから。



石碑

鳥居

石造物

伝衣塔

道標


やはり街道だけあって、新しくしてあってもどこか風情は残っていますね。

道標と木、クランク状に曲がった道。木戸でもあったのかな。太宰府に着いた旅人がひと休みする緑陰でもあったのかもしれないと想像してみたりして。

カッコいい建築のスタバや梅が枝餅を食べさせる店はないけど、こういう旧街道を歩く方が想像力を刺激されます。



道標

太宰府駅


景教研究会へ


福岡国際センター


さーてと、景教研究会国際大会の会場へやって参りました。福岡国際センターという、韓国人宣教師が牧会している教会です。

宿泊施設もあるため、参加者(約15人)はここに泊まる人がほとんど。私は別に宿を取りましたが、こちらなら朝から晩まで移動なしなので便利でしたね。

初日は自己紹介とガイダンス、夕食をはさんで講義が一つ。講義はキルギスに残る十字墓碑や修道院跡を回った研修旅行の報告だったのですが、シルクロードのキリスト教についてもっと知りたく思いました。

まだ発掘調査の行われていない広大な地域は、ロシア領や旧ロシア領、中国などに渡っており、これらの国々がおかれた難しい情勢が絡んで、情報が著しく少ないのが難点。言葉はもちろん、制限も多くて自由に調査できる日が来るのはいつだろうという感じです。


「景教=ネストリウス派」!?


そんな中でも一番気になったのが、「景教=ネストリウス派」なのかという問題。世界史の教科書には景教のことをネストリウス派のキリスト教と書いてあるのですが、最近はそうではないという主張が大きくなってきています。

以前そのことがFacebookで話題になった時に、ある人が「景教はネストリウスが生まれる前からありました。ネストリウス派と呼ばれる意味がわかりません」と、「景教=ネストリウス派」を否定していたので、私はそれが正しいと思い込んでいたのですが、その人が今日同じ質問をされて、「いやー、それが微妙なんだよね」と。・・・え、どういうこと!?

「ネストリウス派という呼称は間違っているので、これからは東方キリスト教と呼ぶべきだ」という話も上がっていたのですが、東方キリスト教というと正教系やコプト教会まで入るとても広い範囲になってしまうので、それも困ると思います。

結局まだ一定の共通認識に至っていないというのが現状のようです。恐らく最新の研究成果を踏まえて、今後呼び名が変わっていくことでしょうけれど、私は今その辺を整理して前に進みたい!ということで、自分で調べて大体のところを書いちゃいますっ☆(下へ続く)



東方キリスト教とは!


まず東方キリスト教(東方教会)とは何かというと、ローマなど西ヨーロッパに伝えられ成立した西方キリスト教(西方教会)に対し、ギリシャや中東など東に伝えられたキリスト教のこと。元となったのはどちらもイスラエルの初代教会ですが、西と東にそれぞれ伝えられていき、各々の歴史と文化を育んでいくようになりました。

一般に「キリスト教」と言った時に、ローマのカトリック教会や、ドイツのプロテスタント教会、イギリスの聖公会をイメージすることが多いように、東に伝えられていったキリスト教については情報量が少なく、実際にキリスト教徒も少数派であるためあまり注目されてきませんでした。

東方キリスト教の中でも、ギリシャで国民の9割を占めるギリシャ正教や、エジプトで国民の1割が信じているコプト教会などは知られていますが、それ以外のキリスト教会についてはほとんど知られていません。

各国名のついた正教会とコプト教会を除いた教会をまとめて東方諸教会と呼ぶのですが、それぞれに特色があり独自の歩みをしてきたという意味で貴重です。

特に中東から西アジアを経て中国に伝えられ、隆盛を築いたという景教は、東方諸教会の一つで、アジアにおける重要なキリスト教史として関心を持たないわけにはいかないのですが、それがどこから来て、どうなってしまったのかを知る手立てが今まであまりありませんでした。しかし近年研究者も増え、中東の言語からの資料翻訳も進み、徐々に実態が明らかにされつつあります。

研究の試みとしては、戦前から佐伯好郎らがしてきて著書もあるのですが、日本へ伝えられたとか日ユ同祖論とかと結び付き、却ってアカデミックな研究から外れてしまったきらいがあります。ここでは最近の研究によって明確になってきたことを中心に記し、景教の流れを整理したいと思います。



メソポタミア


学術的に、実証的な研究を経て明らかになってきたことのみ述べるなら、1~2世紀の頃、東方諸教会の流れはメソポタミア(今のシリア)に到達しました。伝承ではイエス・キリストの生存中に福音がもたらされたというものがありますが、それは現実的ではありません。恐らく(キリスト教への)ユダヤ人改宗者によって、まずユダヤ人の間に伝えられ、追ってその他の人々へも浸透したのではないかと考えられます。

この時使っていた言語はシリア語で、これはシリア人だけでなく、メソポタミアから中東にかけて広く使われていた言葉で、商売と貿易の分野で必須だったため、西アジアなどの周辺地域でも使用されていました。イエス・キリストはアラム語を話していたとされますが、アラム語の方言がシリア語です。

西に広がるキリスト教がギリシャ語によって伝えられていく一方で、東に広がっていくキリスト教はシリア語によって運ばれていきました。その言語的な違いは政治的な背景の違いと相まって一種の緊張をもたらし、次第に東西の教会は離れていくこととなりました。

シリアといっても広大なので、教会は西シリアと東シリアに分かれました。より東に広がっていったのは東シリア教会です。中東で根付いたキリスト教の重要な拠点となったのはオスロエネという小国でした。オスロエネ王アブガル3世が2世紀の終わり頃キリスト教徒となった可能性があります¹。



ネストリウス派って?


さて次第に広がるキリスト教世界が直面した問題は教理についてでした。「三位一体」やキリストの人性と神性に関して様々な論争がなされたため、その一致をみるために諸教会から代表が送られ公会議が開かれるようになりました。

431年のエフェソス公会議において、コンスタティノポリスの主教ネストリウス(ネストリオスとも)の採る両性説が異端とされ、ネストリウスは破門されました。この会議に当のネストリウスは参加しておらず、決定に不満を持ったネストリウスは、西方キリスト教会を逆に異端だと糾弾し、両者は決裂しました。

ネストリウスの説が異端的であったかどうかですが、ここではその神学的な内容に立ち入ることはしません。そこにこだわるあまり議論が「溺死した」と歴史学者によって言われているからです²。ただ言えるのは、ネストリウスの説は現在では異端ではないと考えられており、政治的な軋轢により異端認定を受けたということです。

しかし西方キリスト教会により異端だとされた「ネストリウス派」という蔑称が、東方諸教会に付けられるようになり、その後のキリスト教史の多くが西側の史家たちによって書かれてきたため、東方諸教会のことを「ネストリウス派」と呼ぶことが定着してしまいました。

上述のように東方諸教会はネストリウス以前から存在し発展してきたので、「ネストリウス派」と呼ぶのは不適切なのですが、東方諸教会に関する情報不足から未だに修正されていないことが多いです。

最近出された「東方キリスト教諸教会ー研究案内と基礎データ」(三代川寛子編、2017年)で、第Ⅲ部「メソポタミア」を担当した高橋英海は「この集団は歴史的には『ネストリオス派』の名でしばしば言及されてきたが、これは彼らを異端者として位置付ける蔑称であるため、現在では自称としては用いられないし、他称としても使用は避けるべきである。」としています³。

しかしこの本の編者である三代川寛子は、出版経緯と編集方針を述べる「はじめに」において、「その例が、『ネストリオス派』『単性派』『ヤコブ派』など、他称として用いられるが、当事者たちはその名称を拒否している宗教名である。『ネストリオス派』は他に適切な呼び名がないので、かぎ括弧つきでそのまま『ネストリオス派』とした」と、他章と整合性のない説明をしています⁴。

今後、西欧史観によって一方的に東方諸教会に付けられた蔑称が、研究書をはじめとする書籍、歴史教育の現場等で訂正されて、正しい理解と認識が広まることを期待します。


¹ スハ・ラッサム著 浜島敏訳「イラクのキリスト教」p14
² アズィズ・S・アティーア著 村山盛忠訳「東方キリスト教の歴史」p4
³ 三代川寛子編「東方キリスト教諸教会ー研究案内と基礎データ」p322
⁴ 三代川寛子編「東方キリスト教諸教会ー研究案内と基礎データ」p7




景教について


景教についてがっつり書いてしまったので、今日はこの辺にしようと思います。まだ東方諸教会が中国まで伝播するところまでいけなくて、その先どうなったかも書けてないんですけど、それは明日に持ち越しということで。

ただ結局のところ、景教が日本に伝わったかが焦点になってくると思うので、それに関しては少し述べておきたいと思います。まず景教博士こと佐伯好郎が戦前に唱えたのが、日本に帰化した渡来人 秦氏が景教徒でユダヤ人だったとする説です。

その説は、9世紀に聖徳太子に仕えた秦河勝が創建した太秦の広隆寺などに景教の印(しるし)が残っているとし、古代日本にキリスト教が伝わっていたのだという主張から、日ユ同祖論につながっていくものです。

この説の同調者は、近年では久保有政、ケン・ジョセフがおり、彼らの著書「日本・ユダヤ封印の古代史2 仏教・景教編」(徳間書店、2000年)はミステリアスな歴史を好む人たちによく読まれています。


しかし、この本は「ミロク思想はインドで4世紀に生まれたが、これは聖書の影響である」としたり、「他者への愛の行為をした、だから景教徒だ」とするなど、論理的な飛躍が甚だしく、一つひとつ取り上げて反論する気が失せるような内容です。

景教など東方諸教会の伝播は専らシリア語によって行われたにも関わらず、太秦(ウズマサ)の語源をアラム語でのイシュマシァ(ヘブライ語のヨシュア・メシア)に求めているのも問題ですし、秦氏は360年頃から日本に渡来したというのですが、それは西アジアにキリスト教が入るか入らないかの時期なので、景教徒となって、更に日本にまで渡来するというのは時間的に地理的に無理があります。

もっと言うなら、各地の神社にある三柱鳥居が「三位一体」とを表すものだとして、その下にある井戸は洗礼に使われたと主張するのですが、「三位一体」という教理が確立したのは、秦氏が来日するよりももっと後の時代のことです。

三柱鳥居は古来からある三ツ鳥居の変形と見ることもでき、これを見て「三位一体」の印であると考えるのは近代人の発想です。このように根拠の薄いことをいくつも積み上げて、古代日本に景教が仏教という形で伝来した(あるいは、景教は神道を通して日本に浸透している)というのが、彼らの主張なのですが、時間的・地理的・教理的・図象学的に矛盾し、信じるに値するとは思えません。

・・・と、またがっつり書いてしまいました(汗)。しっかり寝て明日も頑張ります♪





                                     NEXT